富山鹿島町教会

礼拝説教

「神は分け隔てなさらない」
エレミヤ書 31章31〜34節
使徒言行録 10章34〜48節

小堀 康彦牧師

1.少しずつ分かる
 私共の信仰の歩みとは、神様の愛と真実、神様の御心というものを、少しずつ本当に分からせていただいていくものであります。一足飛びに全てが分かるというものではありません。長く信仰の歩みをしてきた方は、20年、30年前には、自分はこのことが良く分かってはいなかったなということがあると思います。そして、あの出来事を通して、このことが本当に分かったという、証しを幾つも持っているのではないかと思います。それは、それまで信じていたことと全く違うことが分かったというのではなくて、今まで何度も聞いていて分かったつもりでいたことが、「本当に、本当だ。」というあり方で分かったということだと思います。私共の信仰の内容というものは、信仰告白に言い表されているもので、少しも複雑なものではありません。私共は、それを信じ、受け入れ、信仰の歩みを始めたはずです。しかし、その洗礼の時にその信仰の内容を本当によくよく分かっていたかと言えば、誰もそうとは言えないでしょう。その信仰の内容を、本当に本当のことだと、少しずつ少しずつ分からせていただいていく。それが私共の信仰の歩みというものなのだと思うのです。
 復活の主イエスと出会った主イエスの弟子たちは、それによって、主イエスこそ聖書が証しするまことの救い主であることを、「本当に本当のこと」として分からせていただきました。そして、ペンテコステの出来事によって、そのことを全世界に宣べ伝えていく者として立てられたのです。しかし、この復活の主イエスとの出会いによって、弟子たちが全てを分かったかというと、そうではなかったと思います。勿論、宣べ伝えるべきこと、福音の中心、それは主イエスというお方は聖書が示す、私共の罪を赦し永遠の命を与えて下さる、まことの救い主であるということであり、主イエスは十字架に架かり、復活されて、全てのものを支配し、今も私共と共に生きて働いて下さるということでありましょう。そのことは、復活の主イエスとの出会いによって、本当に本当であると分からせていただきました。しかし、このことが何を意味するのか。主イエスがまことの救い主であるということは、具体的に自分たちがこのことを伝えていく上でどういうことになるのか。使徒たちは、キリストの教会は、一つ一つの出来事を通して、一つ一つ本当に分からせていただき、変えられ、成長していったのであります。使徒言行録は、そのような使徒達の歩みを私共に報告しています。
 キリスト者の成長、教会の成長とはそういうものだと、私は思うのです。具体的な歩み、出会い、出来事を通して、神様の愛とはここまで豊かで徹底したものであるのかと知らされていく。こんなにも自分は愛されているのかと知らされていく。そのことは同時に、自分はこんなにも神様の愛と真実を、御心を、知らなかったのかと思い知らされることでもありましょう。そのようにしてキリスト者は、天に召されるその日まで、信仰において成長させていただいていくものなのでしょう。私共の肉体は年齢と共に衰えていきますけれど、信仰においては一つ一つ分からせていただき、文字通り日々新にされていくのであります。

2.コルネリウスの家で
 さて、ローマ軍の百人隊長であったコルネリウスという人に天使が現れて、「ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。」とのお告げを受けました。彼は異邦人でありながら聖書の神を信じていたのです。彼は聖書の神様を信じ、神様の言葉に従って生きていました。しかし、救いに与ることは出来なかったのです。何故なら、ユダヤ教では異邦人は救われないことになっていたからです。救われる為には、割礼を受けてユダヤ人にならなければならなかったのです。その彼に、天使が現れました。そして、「あなたの祈りは聞き入れられた。」と告げ、「ペトロを招きなさい。」と命じられたのです。彼は、ペトロを通して異邦人である自分にも救いの道が開かれることを期待し、信じ、ペトロを招きました。そして、そのペトロの救いの言葉を聞く為に、彼は自分の親類や友人を家に集めたのです。どうしてでしょうか。彼は何としても、自分の親類や友人も救いに与って欲しかったからだと思うのです。自分だけが救いに与ればよいとは考えなかったのです。伝道とは、このように、自分の愛する者、近しい者に福音を伝え、共に救いに与ろうというところで、進展していくのでありましょう。
 彼は、ペトロを招いてこう申しました。10章33節「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」神様がペトロに語るようにお命じになったこと、それは福音でしょう。救いの道筋、主イエス・キリストの出来事です。この福音を聞く為に、残らず聞くために、今自分たちは神の御前に集まっている。そう言うのです。これは見事な、まさに説教を聞く姿勢、礼拝に与る者、神の言葉に与る者のあるべき姿が示されているのではないでしょうか。神様の御前に立って、神様の救いの言葉を聞き、神様を拝む。これが私共の礼拝です。
 ですから、ここで為されたのは、ペトロを招いての伝道礼拝、伝道集会だったと言って良いのではないかと思います。この集会の主催者は誰でしょうか。コルネリウスでしょうか。それともペトロでしょうか。そのどちらでもないでしょう。コルネリウスもペトロも、共に主の御声に従って、聖霊なる神さまの導きの中で、ここに出会うことが出来たのです。ですから、実にこの集会の主催者は、聖霊なる神様と言わなければなりません。私共も、伝道の為に何かの計画を行う時、その主催者は聖霊なる神様であることを忘れてはなりません。

3.ペトロの説教 −神は人を分け隔てなさらない−
 ペトロはこう語り始めます。34〜35節「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」これは、実に驚くべき第一声でした。ユダヤ人以外の異邦人は救われない。それが当時のユダヤ教の常識でした。ペトロもその常識の中に生きていたのです。しかし、コルネリウスと出会う直前に、神様はペトロに、大きな布の中に汚れた生き物、食べてはならないと律法に記されていた生き物を入れた幻を見せ、これを食べよと命じられました。ペトロは、この幻が何を意味しているのか分かりませんでしたけれど、コルネリウスに招かれ、しかもコルネリウスもまた天使のお告げによって自分を招いたことを知らされ、この幻の意味を悟ったのです。異邦人を汚れているなどと言ってはならない。異邦人も神様が造られたものであり、神様は異邦人をも救う。神様はこの御心を示す為に、あの幻を自分に与えられたのだとペトロは悟ったのです。
 ペトロは、主イエス・キリストが聖書の語る「まことの救い主」であることは知っていました。しかしペトロはこの時まで、救い主が救いになるのは、主イエスを信じる神の民であるユダヤ人だと思っていたのです。そのペトロが、この幻とコルネリウスとの出会いによって、主イエスの救いはユダヤ人という民族を超えて、全ての民に及ぶということを示されたのです。ペトロは、神様が分け隔てなさらない方であることは知っていました。孤児もやもめも寄留者も、神様は愛し、食物と衣服を与えて下さる(申命記10章17〜18節)。弱い者も小さい者も、神様は愛し、守って下さる。そのことは知っていました。そもそも、イスラエルの民が選ばれたのは、イスラエルの民が大きく、立派な民であったからではありませんでした(申命記7章6〜8節)。ペトロ自身、漁師の出身です。高い身分でも、何でもない。神様は立派で力がある者と、弱く小さな者を分け隔てなさらない。そのことはペトロとて十分承知していたことだったのです。しかし、それはあくまでイスラエルの民、アブラハムの子孫、神の民の中に限ったことだと思っていたのです。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活によって示された神の愛は、ユダヤ人という枠を超えることを示されたのです。彼の中には、ユダヤ人としての誇りがあったでしょう。その誇りが、神の愛を小さくしていたのです。この、ユダヤ人だけが神の愛の対象であるという誇りこそが、神の愛を小さくしていたのです。ただ恵みによって救われた。これが福音の真理です。ここには、自分を誇ろうとするどんな小さな思いも入り込むことは出来ないはずなのです。しかし、ペトロは「ユダヤ人の誇り」を捨てることが出来ないでいたのです。それは、神の民である「ユダヤ人の誇り」は、ペトロの中でほとんど意識することもない程に、当たり前のことだったからでしょう。気がつかないのですから、改めようがない。しかし、それが神の愛を小さくしていたのです。
 主イエス・キリストが天地を造られた神様のまことの神の子であるならば、ユダヤ人だけの主であるはずがなく、全ての民の主であるはずです。そんなことは分かり切ったことでしょう。しかし、ユダヤ人であるペトロには、それがなかなか分からなかったのです。そして、そのことを分からせて下さる為に、神様はペトロに幻を与え、異邦人であるコルネリウスとの出会いを与えて下さったのです。神様は、このように私共をいよいよ深く、豊かに神様の恵みの真理を分からせてくださるために、聖霊によって様々な出来事に出会わせてくださり、私共を変えていってくださるのです。
 ペトロは続けて36節で、「イエス・キリストによって―この方こそ、すべての人の主です。」と告げます。実は、ここで告げられているペトロの説教の内容は、あのペンテコステの時に行われたものとほとんど変わりません。ただ、この主イエス・キリストに対して「この方こそ、すべての人の主です」と告げている所に違いがあるだけです。彼は、このコルネリウスと出会うまで、ペトロは主イエスというお方はユダヤ人の救い主であるとしか理解していなかったのだと思います。しかし、主イエスが、神様が造られた全ての民の主であるということ、それ故、主イエス・キリストの福音は全ての異邦人に宣べ伝えられていかねばならないということを悟ったのであります。これは、キリスト教が世界宗教となっていく上で、とても重要な展開だったのです。

4.ペトロの説教 −主イエス・キリストを伝える−
 先程申しましたように、ここで語られていることは、ペンテコステの時に語られた説教と、内容的にはほとんど違いません。主イエスが方々を巡り、人々を助け、エルサレムで十字架に架けられ、三日目に復活されたこと。自分たちがその証人であること。そして、主イエスを信じる者は罪の赦しが与えられるということです。もちろん、この時の説教が、文字通りこのままであったということではないでしょう。この通りなら、三分で終わってしまいます。ペトロはこの時、自分が主イエスと共に歩んだ日々において、主イエスが為された数々の奇跡、教えも語ったでしょう。「残らず聞こう」としている人々に対して、ペトロも残らず語ろうとしたでしょう。あの村では、こんな癒しを為された。この町ではこんな教えを語られた。ペトロは自分が主イエスと過ごした日々を思い起こしつつ、具体的に話したに違いないと思うのです。主イエスの十字架の場面、最後の晩餐の場面も語ったでしょう。或いは、ここで自分が三度主イエスを知らないと言ったことも話したかもしれません。そして、復活の主イエスとの出会いの出来事。復活の主イエスとの食事、主イエスによる再召命。ペトロはそういうこともここで語ったに違いないと私は思います。そして、この方こそがあなたがたの主なのだと告げたのです。この方を信じるならば、あなた方の一切の罪が赦されると告げたのです。
 私はここで、伝道するということは何をすることなのかを改めて教えられます。ここでペトロは、主イエスは誰か、どんな方か、何を為した方か、それを語ることに終始しているのです。クリスチャンの生き方だとか、そんなことは何も語っていないのです。主イエス・キリストを紹介する。主イエス・キリストを伝える。それが伝道するということなのでありましょう。私共はいつも、あまりに周辺的なことばかり伝えていないか、そのことを反省させられるのです。

5.聖霊が注がれる
 このペトロの説教の後、驚くべきことが起きました。ペトロの説教を聞いていた者たちの上に聖霊が降ったのです。その一つのしるしである異言が与えられたというのです。正直なところ、私は異言というのはよく分かりません。しかし、大切なのはその次にある「神を賛美した」ということです。私共は聖霊を受けると、神様を賛美するようになるのです。それは、讃美歌を歌うようになるということではありません。神様は素晴らしい、神様は偉大だ、主イエスは救い主、まことの光、まことの命と、主をほめたたえることです。神様を、主イエスをほめたたえるというのは、実に、聖霊を注がれ、信仰を与えられている確かなしるしなのです。
 この様子を見た、ペトロと共にヤッファから来ていたユダヤ人キリスト者たちは皆、驚きました。異邦人にも聖霊が注がれるのをはっきりと見たからです。ペトロはこう告げました。47節「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか。」そして、彼らはイエス・キリストの名による洗礼を受け、キリスト者となったのです。
 洗礼の前に、聖霊が注がれ、主イエス・キリストに対する信仰が与えられたのです。ペトロは、この聖霊なる神様の御業に導かれ、これに従っただけです。まず聖霊が働かれるのです。キリスト者は、キリストの教会は、いつも、この先立ち給う聖霊なる神様に導かれて歩んでいくのです。そこで、目が開かれ、自分の至らなさを知らされ、神様の愛と真実を一つ一つ本当に知らされていくのです。
 聖霊の導きの中で、ペトロは、本当に神様は分け隔てなさらない方であることを知らされました。そして、彼は変わった。変えられたのです。神様の愛と真実は、まことに大きく、少しずつしか私共には分かりません。しかし、少し分かるたびに、私共は変えられ、キリスト者として成長していくのです。それは本当に素敵なことです。私共の信仰は、凝り固まっていくようなものではないのです。変えられ続けていくのです。聖霊なる神様の自由の中で、一つ一つ私共も自由にされていくのです。「真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章32節)とあるように、聖霊の導きの中、神様の愛と真実に目覚めさせられる中で、私共は変えられ、自分の中にあるつまらない誇りや偏見からも自由にされていくのです。
 この一週間、聖霊の導きの中で、少しずつでも聖霊によって変えられ、成長させられ、いよいよ自由にされていく歩みを、主の御前に為してまいりたいと、心から願うものです。

[2009年8月16日]

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