富山鹿島町教会

礼拝説教

「幻に導かれ」
エレミヤ書 1章11〜19節
使徒言行録 10章1〜33節

小堀 康彦牧師

1.キリスト者としての感性
 使徒言行録を読み進めております。主イエス・キリストが十字架に架かり、三日目に復活し、天に昇り、弟子たちに聖霊を注ぐというペンテコステの出来事と共に、主イエスの福音が宣べ伝えられ、広がっていく様子を見てまいりました。ペンテコステの出来事以来、エルサレムにおいて主イエスを信じる者たちが増えていきましたが、ステファノの殉教の時からキリスト教の迫害が起き、エルサレムにいられなくなったキリスト者たちは方々に散って行きました。しかしそこでも伝道が為され、主イエスの福音が広がっていったのです。8章には、フィリポがサマリアの町で伝道し、又エチオピアの宦官に伝道して洗礼を授けたことが記されておりました。これが初めての異邦人の洗礼です。そして9章には、後に異邦人への伝道者となるサウロの回心の出来事が記されておりました。主イエスの福音が全世界へ、異邦人へと伝えられる備えが整い、いよいよその時が近づいて来ておりました。
 しかし、その前に、乗り越えられ解決されなければならない大きな問題がありました。それは、異邦人は割礼を受け、ユダヤ人にならなくても救われるのかという問題です。異邦人も神様の救いの中に入るかという問題です。私共にとっては自明のことであっても、この問題は主イエスの弟子達にとっては大問題だったのです。主イエスの福音が全世界に伝えられていく。このことは、使徒言行録の第1章において、主イエスが天に昇られる時に、弟子たちに向かって、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(1章8節)と言われたのですから、弟子たちは福音が全世界に広がっていく、その為に自分たちが立てられ、用いられていくということに関しては了解していたと思います。しかしそのことが、積極的に異邦人に向かって自分達が福音を伝えていくことと一つにはなっていなかったのです。
 何故なら、弟子たちは皆生まれながらのユダヤ人であり、ユダヤ教徒でした。彼らにとって、神の民とはユダヤ人のことであり、異邦人とは汚れた者であり、決して救われることのない者を意味していたのです。当然、汚れた異邦人と食事をしたり、親しく交わることなど考えられないことでした。それは、ユダヤ人として生きてきた者なら、骨の髄までしみ込んでいる皮膚感覚のようなものであったと考えて良いと思います。理屈じゃない。いわゆる「汚らわしい」という感覚です。
 確かに、すでにフィリポによるサマリア人やエチオピアの宦官に対しての伝道は為されました。しかし、このことが何を意味しているのか、ペトロも主イエスの弟子たちもまだよく分かっていなかったのだと思います。サマリア人への伝道も、エチオピアの宦官に対する伝道も、神様の圧倒的導きの中で為されたことでした。ですから、既に神様の業は始まっていたのです。しかしそれを、ペトロを始め主イエスの弟子たちは、きちんと受けとめることが出来ていなかったのだと思います。それは、生まれた時から自分の中にしみ込んでいる、異邦人に対しての「汚らわしい」という感覚を捨てることがなかなか出来なかったからだと思うのです。私は、主イエスの福音によって新しくされるということは、私共にとっては生まれた時から体にしみ込んだ日本的感性というようなものまでも、キリストの福音にふさわしいものに新しく変えられていくことだと思っています。頭では分かってている。そんなことではないのです。
 ペトロを始め、生まれたばかりのキリストの教会が持っていた、この異邦人に対しての汚らわしいという、まことにキリストの福音にふさわしくない感覚を打ち破る為に、神様が与えて下さった出来事、それが今朝与えられております御言葉に記されていることなのです。

2.神様が与える幻
 今朝与えられている御言葉ですが、カイサリアのコルネリウスという人が出て来ます。カイサリアというのはヘロデ大王が造った町で、ローマ皇帝の名前をとって町の名が付けられたことから分かるように、完全にローマ式の町でした。ここには、ローマの軍団も駐屯していました。コルネリウスは、ローマの軍団「イタリア隊」の百人隊長でした。ローマの軍団の正規兵は、皆、ローマ市民でありましたから、彼が異邦人であったことは間違いありません。しかし、2節に「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」とあるように、彼は、割礼を受けてユダヤ教徒になっていたわけではありませんが、ユダヤ教の神様を信じ、多分、シナゴーグで為される安息日、土曜日の礼拝に集っていた人だったのだと思います。フィリポによって洗礼を受けたエチオピアの宦官と同じような立場であったと思います。
 彼は、ある日祈りの中で、幻で天使に会います。そして、天使から、「ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。」とのお告げを受けたのです。彼は、天使に言われたように、二人の召使いと、信仰心のあつい、これはユダヤ教を信仰していたという意味ですが、一人の兵士をヤッファのペトロの所に送りました。
 一方、ペトロはヤッファの町におりました。ヤッファもカイサリアも地中海に面した港町で、ヤッファはカイサリアの南約50kmの所にありました。コルネリウスから遣わされた三人がヤッファの町に近づいた頃、ペトロもやはり幻を見ました。それは、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入った、四隅をつるされた大きな布のような入れ物が天から下りて来るというものでした。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい。」との声がしました。ペトロは、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」と答えました。多分、天から下りて来た大きな風呂敷に入っていた動物というのは、食べてはいけない、汚れた動物や地を這うものや鳥だったのでしょう。ペトロは、とんでもないと断りました。この食べることが出来ない汚れた動物のリストは、レビ記の11章に記されております。今、詳しく見るいとまはありませんが、ブタとか、タコとか、ウナギとか、爬虫類とか、虫とかはダメだと記してあります。多分、天から下りて来た大きな風呂敷には、そのようなものがたくさん入っていたのだと思います。ペトロがとんでもないと断りますと、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と声がしたというのです。しかも、このようなやり取りが三度あったというのです。三度というのは完全数ですから、これは夢だと言って否定することが出来ない、確かなこととして示されたということであります。しかしペトロは、この幻の意味をすぐには分かりませんでした。

3.愛する者の救いを求める
 すると、コルネリウスから遣わされた三人がペトロのいる家に着きました。ペトロは幻の意味が分からないで思案していると、聖霊がこう告げたのです。20節「ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」ペトロがその人たちの所に降りて行くと、三人は自分たちがここに来たいきさつを話しました。三人は、ペトロがいる家に泊まり、次の日、三人とペトロ、それにヤッファのキリスト者たち何人かが一緒にカイサリアのコルネリウスの家に向けて出発しました。彼らがコルネリウスの家に着くと、コルネリウスは親類や親しい人たちを呼び集めておりました。どうして、彼は自分の親類や親しい者達を呼び集めていたのでしょうか。それは、こういうことだったと思います。彼は天使からペトロを招くようにと告げられたのですが、これは彼の祈りが聞かれ、神様が彼の祈りに応えてくれて起きたことです。では、彼の祈りとは何であったか。それは、異邦人でありながらも自分が救われることであり、彼の愛する者達が救われるようにということであったと思うのです。彼は、自分が救われることを本当に望み、願っておりました。しかし、自分一人が救われればそれで良いとは考えていなかったと思います。彼は、愛する者達が皆救われることを願い、それ故に愛する者達を呼び集めて、ペトロが来るのを待っていたのだと思うのです。

4.神が清めた者
 コルネリウスは、ペトロが着くと、彼の足もとにひれ伏して拝みました。彼にしてみれば、神様が自分の為に遣わしてくれた、尊い人でした。ですから、彼としてみれば当然の迎え方であったのだと思います。しかし、この時ペトロはコルネリウスにこう言います。26節「お立ちください。わたしもただの人間です。」これは、単に「自分は拝まれるような者ではない、拝まれるべき者ではない」というような、ペトロの謙遜から出た言葉ではないと思うのです。その様な意味が全くないとは申しませんが、それだけではない。もっと重大なことを意味していると思います。コルネリウスは異邦人なのです。今までのペトロならば、汚れた者と思っていた人なのです。その異邦人であるあなたと、「私は同じ人間です」そうペトロは言ったのです。これは、驚くべき言葉ではないでしょうか。ここには、主イエス・キリストの十字架によって新しくされた人間の、新しい感性があります。ペトロは、天から下りて来た大きな風呂敷の幻の意味を悟ったのです。神様が告げられた「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」とは、食べ物のことではなくて、異邦人のことを示しているのだということを悟ったのです。ペトロは続けて言います。28節「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」ペトロは今まで、ユダヤ人は清い、異邦人は汚れている、そう思い、そう感じ、そう生きてきた。しかし、異邦人もユダヤ人も、主イエス・キリストの十字架によって、一切の罪を赦された同じ人間であることを悟ったのです。ペトロは、異邦人への伝道というものが、異邦人も又救われるということが神様の御心であることを、ここではっきりと悟らされたのです。そして、ユダヤ人と異邦人とが、同じ人間として神様の御前、主イエスの十字架のみ前にあることを言い表したのです。

5.神の幻
 このコルネリウスとの出会いは、ペトロにとって、キリスト教会にとって、大きな転換点となりました。この出来事により、キリストの教会は異邦人伝道へと一歩を踏み出していくことになったからです。この出会い、この出来事は、幻に導かれての出来事でした。幻に導かれてとは、それは神様に導かれてということです。ペトロはコルネリウスと出会いたいと思ったわけではない。神様の導きによって出会わされたのです。教会の歩み、伝道の業とは、そういうことです。自分で計画し、もくろみを立て、そして伝道するというのとは、少し違うのです。もちろん、計画も必要でしょう。実際に伝道するには、予算も立てなければならないでしょう。しかし、その前に幻がなければならないのです。その幻とは、こうなったらいいなというような「自分の夢」とは違います。神様が与える幻です。幻は、自分が考えることの外からやって来るものなのです。考えたこともなかった。しかし、示されてみると、まことに御心にかなっていると思わざるを得ない。そうして、幻に押し出され、一歩を踏み出していくのです。神の幻と自分の思い込みは違います。ペトロの幻とコルネリウスの幻は、一致することにおいて、神の幻との確証が与えられたのです。神の幻には、この客観的なしるしがあるものなのです。
 今年はプロテスタント宣教150年です。150年前、海を越えてやって来た宣教師たちは、皆、この神の幻に突き動かされてやって来たのです。彼らは一人で幻を見たのではありません。皆がこの幻を共有したのです。そして彼らが見た幻とは、この日本が、この日本に住む一人一人がキリストのものとなるという幻でした。そのことを神様が求め、望んでおられるという幻でした。この幻によって、この教会は建ったのであり、私共も救いに与ったのです。この幻は、私共も受け継いでいかなければならないものでありましょう。

6.伝道する者が変えられる
 ペトロは変えられました。このことが、異邦人たちに伝道する為にはどうしても必要なことだったのです。私共は、伝道というものは相手を変えることだと思っているかもしれません。しかし、今日与えられている聖書はその様には告げていません。そうではないのです。相手が変わるかどうか、それは神様の御手の中にあることです。それより大切なこと、根本的なことは、「私が変わる」ことなのです。キリストの福音によって、感覚、感性を含めて、キリストの福音にふさわしく変えられることです。その時、キリストの福音は、私という存在から外に向かってあふれ出していくのでしょう。ペトロが、そしてキリストの教会がいつまでも異邦人を汚れた者と見ていたのなら、キリストの福音が、どうして異邦人に伝えられていくことが出来たでしょう。
 ペトロは、コルネリウスにどうして自分を招いたのかと尋ねました。そして、コルネリウスは、祈りの中で天使が現れ、ペトロを招くように告げられたことを話しました。ペトロもコルネリウスも、共に不思議なように神様に導かれて、こうして出会ったことを知ったのです。この出会いは偶然ではなかったのです。私共がキリストの福音に出会うのに、偶然などないのです。神様のお導きという、神様の御手の中での必然によって、私共は出会いを与えられ、救われたのです。

7.私から始まる
 この時、コルネリウスにとってペトロとの出会いは、自分や、家族や友人の救いということしか意味しなかったでしょう。コルネリウスはこの時、まだ事の重大さには気付いていなかったでしょう。彼はこの時、自分が救われること、親族・友人が救われることの喜びでいっぱいでした。しかし、この出来事は、コルネリウスの思いをはるかに越えて、全異邦人の救いへの一歩となったのです。しかし神様は、コルネリウスの祈りを聞きつつ、すべての民を救うという御自身の救いの業を貫徹されたのです。ここから教会は、全異邦人の救いへと、そして私共の救いへと一歩が踏み出されて行ったのです。
 私共も又、コルネリウスのように神様の救いの御業に用いられる為に、先に救われ、立てられているのです。私共が救われたということは、事はそこでは終わらないのです。そこから始まっていくのです。私共はそのことを信じて良いのです。気が遠くなる程の大いなる神様の救いの御業の中に、私共は生かされているのです。私共の救いは、ここでは終わらない。もっと大きな救いの出来事へとつながっているのです。その神様の御業に用いられることを願い、待ち望みつつ、この一週も神の国に向かって、共に歩んでまいりたいと思います。

[2009年8月9日]

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