富山鹿島町教会

礼拝説教

「イエス・キリストがいやしてくださる」
イザヤ書 42章5〜9節
使徒言行録 9章32〜43節

小堀 康彦牧師

1.ペトロによる教会の奇跡
 今朝与えられた御言葉には、ペトロによる二つのいやしの記事が記されております。リダという町に住むアイネアという中風の人のいやしと、ヤッファという町のタビタという婦人のよみがえりの奇跡です。
 この二つの記事を読んですぐに気が付くことは、この出来事は主イエスが為された奇跡と同じだということです。中風の人のいやしは、マルコによる福音書2章1節からに記されておりますし、死んだ人をよみがえらせる奇跡は、マルコによる福音書5章35節からに会堂長ヤイロの娘のよみがえりの奇跡として記されております。もちろん、同じ記事はマタイにもルカにも記されております。ペトロは、主イエスが為されたのと同じ奇跡を行ったのです。このことは何を意味しているのでしょうか。ペトロが主イエスと同じ力を持ち、主イエスと同じ神となったということではないことは明らかです。これは、主イエス・キリストの霊、聖霊なる神様がペトロと共におり、主イエス・キリストの救いの御業が行われたということを示しているのです。主イエスは十字架に架かり、三日目に復活され、天に昇られました。そして、弟子たちに聖霊を注ぎ、教会を建て、救いの御業を継続されたのです。ペトロは、継続しているこの主イエス・キリストの救いの御業の道具、器とされたということなのです。
 それは、ペトロが個人としてそのような者として立てられ、用いられたということではありません。ペトロは、キリストの教会の代表として、キリストの教会の業として、それを為したのです。ですから、ここに記されているのは、聖霊による教会の業なのです。
 そのことは、彼がどうしてリダの町やヤッファの町に行ったのかを見れば分かります。32節を見ますと、「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。」とあります。ペトロは方々を巡り歩いてリダの町にも来たのですが、それは「聖なる者たち」の所を訪ねる為だったのです。この「聖なる者たち」というのは、キリスト者のことです。ステファノの事件以来、エルサレムにおけるキリスト者に対しての迫害は激しくなりました。それ故、エルサレムに居られなくなったキリスト者達が方々に散らされていきました。そして、彼らによって散らされた地で伝道が為され、各地にキリストを信じる者たちの群れ、キリストの教会が生まれ始めていたのでしょう。ペトロはそのような生まれたばかりの教会を訪ね、信仰の交わりを為し、教えを語り、それぞれの群れに集うキリスト者たちを慰め、励ましていたのだと思います。この少し前の使徒言行録8章には、サマリア地方においてフィリポが伝道した後、ペトロとヨハネがエルサレムから下って行き、魔術師シモンを退けたことが記されておりました。ペトロはこのような働きをしていたのだろうと思います。ペトロは個人的に方々を巡り歩いていたのではないのです。エルサレム教会の一員として、生まれたばかりのキリスト者たちを慰め、励ます為に遣わされ、このリダの町にも来たのです。そして、奇跡が為されたのです。

2.イエス・キリストがいやしてくださる
 さて、この町に8年前から中風で床についていたアイネアという人がいました。ペトロはこの人に会い、こう告げました。「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい。」すると、アイネアはすぐに起き上がったのでした。皆、驚きました。そして、中風をいやされたアイネアを見て、彼が8年も中風で寝たきりになっていたことを知っている人たちは、主イエス・キリストを信じる者となりました。「主に立ち帰った」というのは、主イエスを信じる者となったということです。
 ここで私共が今朝注目したいのは、この時のペトロの言葉です。ペトロは、自分にいやしの力があるなどとは考えてもいません。ペトロは、「イエス・キリストがいやしてくださる」、そう告げたのです。そして、実際にいやしが起きました。今朝、私共に告げられている神の言葉はこれです。「イエス・キリストがいやしてくださる。」今朝私共は、この言葉を、神様が私共一人一人に告げられた言葉として受け取らなければなりません。今朝、ここに集った私共は、何らかの問題、課題を持っているでしょう。それは仕事のことであったり、病気であったり、人間関係のことであったり、家族のことであったり、子供の将来のことであったり、一つだけではなくて、いくつも抱えている人もいるでしょう。そのあなたに、今朝、神様は告げられるのです。「イエス・キリストがいやしてくださる。」私共が抱えている問題が、どんなに深刻で、困難に満ちていようと、主イエス・キリストによっていやされないような問題は、この世界には存在しません。イエス・キリストは必ずいやしてくださいます。神様は嘘をつきません。イエス・キリストが必ずいやしてくださいます。この言葉を受けた私共は、今日からこう祈ったら良いのです。「あなたは、イエス・キリストがいやしてくださると約束してくださったではありませんか。だから、この私の問題を、課題を、いやしてください。」このような祈りは、必ず聞かれます。そして、この祈りが聞かれた時、証しが生まれます。神様が確かに生きて働き、私と共にいてくださることが明らかにされます。
 良いですか、皆さん。私共が今抱えている問題、課題、困難は、主イエス・キリストによっていやされることによって証しとなる、そういうものとして存在しているのです。教会は、この二千年の間、このような証しを生み続け、このような証しと共に生きてきたのです。主イエス・キリストの救いの御業は、初代教会に受け継がれ、そして今も、このキリストの教会において継続しているのです。
 主イエス・キリストが与えてくださるいやしは、自分が願い求め、こうなった良いのにと思う、そのようなものではないかもしれません。神様は、私共自身より私共のことをよく御存知ですから、私共が願い求める以上のいやしを与え、まことに主に立ち帰らせてくださいます。イエス・キリストがいやしてくださるのです。

3.証しする群れとしての教会
 先週から、東京神学大学の夏期伝道実習生の知花さんが来られました。今日の夕礼拝の奉仕を最後に、明日は金沢教会へ行かれ、北陸連合長老会の諸教会で8/23まで実習されます。先週の家庭集会では、何度も献身の証しをしていただきました。御主人の病気と死を通して、知花さんは「本当に神様はおられるのか」という、大変厳しい状態に追い込まれた。彼女は祈り続けました。「神様、本当にあなたがおられるなら、そのしるしを見せてください。」3年、4年と祈り続けました。そして神様は、ついに主イエスの幻をもって、自らが生きて働き給う方であることを示されたのです。知花さんはいやされ、そして献身にまで導かれたのです。
 主イエスが為された多くの奇跡においては、それに与った者たちの名は、ほとんど残されておりません。ラザロの復活などは例外的でしょう。ところが、このペトロによっていやされた人の名は、アイネア、そしてタビタと、しっかり残されております。この違いは何なのだろうか。私はこう考えます。この二人の人は、ペトロを通して為された出来事、自分の上に起きたこのいやしの出来事を、づっと証しし続けたのだろうと思うのです。彼らは教会において、何度も何度も語り続けた。だから、その名が知られることとなったのだと思うのです。主イエス・キリストのいやしを受けた者が、それを証しし続ける。そこに、証しの共同体としてのキリストの教会が建っていったのでしょう。ペトロも、三度否んだ自分が立てられ用いられることとなった、復活の主イエスとの出会いのことを語り続けたことでしょう。アイネアもタビタも、今、自分がこうして主イエスを信じ生かされているということの幸いを、この出来事と共に語り続けたのだと思うのです。
 私は、教会という所は、この神様・イエス様によって救われ、いやされた出来事の証しに満ちている所なのだと思うのです。イエス・キリストがいやしてくださる。この真実を証ししている群れ、それがキリストの教会なのでしょう。

4.タビタ・クム
 さて、リダにおりましたペトロのところに、知らせが届きます。リダから十数km離れた海辺の町ヤッファからです。ヤッファの町のキリスト者の群れからでした。タビタという婦人が死んでしまったというのです。このタビタという婦人は、たくさんの善い行いや施しをしていた人でした。ペトロがヤッファに着くと、タビタの遺体を納めてある階上の部屋に案内されました。すると、タビタが生きていた時にお世話になったやもめの人たちが、彼女が作ってくれた下着や上着をペトロに見せ、タビタがどんなに良い人であったかを、ペトロに泣きながら語ったのでした。このタビタという婦人がした善い行い、施しというのは、有り余る富の中から施すというようなことではなくて、このように上着や下着を自分で作って施すという、実に心のこもった、手間も時間も心も献げられたものでした。このような婦人は、どこの教会にもいると思います。彼女は、自分が出来る精一杯のささげものをもって、愛の業に仕える婦人だったのでしょう。
 40節に「ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、『タビタ、起きなさい』と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。」とあります。この場面はまさに、会堂長ヤイロの娘が主イエスによってよみがえらされた場面と同じです。この時、主イエスはアラム語で、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味の言葉、「タリタ、クム」と告げられました。多分、この時ペトロは、「タビタよ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味のアラム語の言葉、「タビタ、クム」と告げたのだと思います。主イエスの「タリタ、クム」と、ペトロの「タビタ、クム」。一文字しか違いません。このペトロによる奇跡には、まさに復活の主イエス・キリストの力が現れています。ペトロに代表されるキリストの教会には、このキリストの力、死を滅ぼされた復活の力が、聖霊なる神様の御臨在と共に注がれているのです。
 このタビタという婦人は、この時ペトロによって生き返りましたけれど、ずっと生き続けていたわけではありません。何年後かには死んだのです。その意味で、この生き返ったという出来事は、キリスト者に約束されている復活と同じではありません。ただ、この出来事、この奇跡によって、主イエス・キリストの力、死に打ち勝つ力、そして主イエス・キリストの御臨在が示されたということなのです。そのことによって、ヤッファの町の多くの人が主イエスを信じるようになったのです。

5.起きよ=復活せよ
 皆さん、このペトロによる二つの奇跡の記事において、繰り返し使われている言葉があることに気付かれたでしょうか。それは「起きる」という言葉です。中風であったアイネアに対して、ペトロは「起きなさい」と告げ、アイネアは「起き上がり」ました。タビタに対して、ペトロは「起きなさい」と告げ、タビタは「起き上がった」のです。この「起き上がる」という言葉は、「復活する」という時にも用いられる言葉なのです。変な訳ですけれども、このことを意識するならばペトロは「復活せよ」と告げ、アイネアは「復活した」、或いはペトロは「復活せよ」と告げ、タビタは「復活した」とも訳せるのです。私は、この二つの奇跡においてペトロは、キリストの教会は主イエスの復活の力を与えられ、主イエスの復活を指し示し、この復活の力によって生かされているということを示したのではないかと思います。教会が与えることが出来るいやしは、実にこの主イエスの復活によって与えられるものなのです。
 主イエス・キリストは復活されました。それは確かに二千年前に起きたことです。しかし、この主イエスの御復活の出来事において明らかにされたことは、主イエスは死に打ち勝って、今も生きておられるということです。主イエスを信じる者は、この今も生きておられるイエス・キリストと一つにされるという救いの中に生かされているのです。それ故に、自分に襲いかかるどんな問題、課題、困難にも押しつぶされることなく、起き上がることが出来る、復活することが出来るのです。主イエス・キリストの復活の力に守られ、生かされているからです。

 私共はただ今から聖餐に与ります。この聖餐は、今も生き給う主イエス・キリストが、聖霊としてここに臨み、我が肉を取れ、我が血を取れと、御自身の体を、命を、私共に与えてくださるものです。復活の命が、私共に注がれるのです。この聖餐に与る者は、死さえも打ち破り、一切の涙も嘆きもいやしてくださる主イエス・キリスト御自身に与るのです。この聖餐に与った者として、「イエス・キリストがいやしてくださる」という神様の約束の言葉を信じ、この言葉の真実を証しする者として、この一週も、それぞれの場で生かされてまいりたいと心から願うものです。

[2009年8月2日]

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