富山鹿島町教会

花の日礼拝説教

「捕まえてくださるイエス様」
申命記 30章15〜20節
マタイによる福音書 14章22〜33節

小堀 康彦牧師

 今日は花の日礼拝として、教会学校の子ども達と一緒に礼拝を守っています。子ども達と共に主の御言葉に与りましょう。

 イエス様の弟子たちは舟に乗っていました。湖を渡って向こう岸へ行くはずでした。でも、風が強くて、波も高くなってきて、漕いでも漕いでも前に進みません。夕方から漕いで、一晩中漕いだのですけれど、向こう岸には着けませんでした。風も強いし、波も高い。イエス様の弟子たちは、小さな舟の中で、波に揺られ、風に吹かれて、本当に恐い思いをしていました。真っ暗な夜の湖。明かりはどこにもありません。何も見えない。弟子達はもう自分たちがどこに向かって舟を漕いでいるのかも分かりませんでした。強い風と高い波の中で、弟子たちの乗った小さな舟は、ただ揺られているだけでした。
 真っ暗な夜が明け始めて、辺りがぼんやりと明るくなってきた頃です。湖の周りの山の影が遠くに少し見えてきました。すると、イエス様が湖の上を歩いて、弟子たちの乗った舟に近づいて来られたのです。イエス様は、弟子たちを舟に乗せ、昨日の夜は一人で山に登って祈っておられたのです。そして、イエス様は祈りを終えて、弟子たちの所に来られたのです。弟子達が風と波に揺られて、怯えておられるのを知っておられたのでしょう。イエス様は弟子達を助けに来られたのだと思います。でも、弟子たちはイエス様が湖の上を歩いて近づいて来るのを見て、恐ろしさのあまり叫び声をあげたのです。弟子たちは、それがイエス様だとは分からなかったのです。幽霊が近づいて来ると思ったのです。それはそうですよね。弟子たちは舟に乗っていたのです。湖の上を歩いて近づいて来る人を見れば、幽霊だと思いますよね。まさかイエス様が水の上を歩いてくるなんて、弟子達は考えもしませんでした。

 この時イエス様は、弟子たちに声をかけられました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」つまり、何をおびえているのだ。わたしだ。イエスだ。安心しなさい。風と波で本当に怖かったことであろう。しかし、もう安心しなさい。わたしが来た。もう何も恐れることはない。そう、お声をかけられたのです。弟子たちは、幽霊だと思っていたのがイエス様だと分かって、すっかり安心しました。もう大丈夫、そう思ったのです。
 するとペトロが、イエス様にこう言いました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」ペトロは、おもしろいことを言いますね。今まで「幽霊だ」と言って怖がっていたのに、イエス様だと分かったとたんに、水の上を歩いてそちらに行かせて下さいと言うのです。
 皆さんならどうでしょう。私でしたら、「イエス様、どうぞ舟にお乗り下さい。」とでも言うか、あるいは「この強い風と波を静めて下さい。舟がちっとも前に進まないのです。」とでも言うのではないかと思います。「私も、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい。」という発想は、私には出てこないなと思います。でも、ここにはペトロのイエス様に対する単純な信頼、あるいはイエス様と同じ所にいたいという気持ちが、とても良く表れているのかとも思います。イエス様も、その思いを受け取って下さったのでしょう。ペトロに対して、「バカなことを言うな。」とか、「お前には無理だ。」という風には言われませんでした。
 イエス様は「来なさい」と言われました。それでペトロは、このイエス様の言葉を信じて、何と舟から湖の上に足を踏み出し、イエス様の方に向かって歩き始めたのです。ペトロも水の上を歩き始めたのです。この時、ペトロ自身驚いたと思います。それを見ていた弟子たちも驚いたと思います。ペトロが水の上を歩いている。ペトロが一歩、又一歩と歩くたびに、ペトロもそれを見ている弟子たちも驚きました。何歩ペトロは歩いたでしょうか。二歩、三歩、五歩くらいでしょうか。ところが、ペトロはこの時、ふとイエス様から目をそらしてしまったのです。イエス様だけを見ている時は何も気にしないで水の上を歩いていけたのに、ふとイエス様から目をそらすと、強い風と高い波が目に入りました。そのとたんに、ペトロは急に怖くなってしまったのです。そして、水の上を歩けなくなってしまい、水の中に沈んでおぼれそうになってしまいました。ペトロは思わず、「主よ、助けてください。」と叫びました。
 この時イエス様は、すぐにおぼれかけているペトロに手を伸ばして捕まえました。ペトロをしっかりと捕まえて、もうペトロがおぼれることがないようにして、そして言われたのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」そして、イエス様はペトロと一緒に舟に乗り込まれました。すると、風は静まったのです。ここで大切なことは、この順序です。ペトロはおぼれかけて、イエス様に助けを求めました。確かにペトロがおぼれかけた理由は、ペトロがイエス様から目をそらして、周りの風や波に気をとられ、怖くなってしまったことです。イエス様への信頼よりも、周りの風や波に気をとられてしまったことです。しかしイエス様は、おぼれかけているペトロを「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と叱られる前に、ペトロをしっかりとその手で捕まえて下さったのです。
 私たちも、ペトロのようにイエス様だけを見て、イエス様を信頼して歩んでいる時は、それがたとえ水の上というような局面であったとしても大丈夫なのです。ところが、いったんイエス様から目をそらして周りの状況に目を奪われ、イエス様への信頼を失ってしまいますと、すぐにおぼれてしまうのでしょう。しかし、たとえおぼれそうになっても、「イエス様、助けてください。」そう叫ぶことさえ出来るなら、祈ることさえ出来るなら、私たちはおぼれないのです。イエス様が、私たちをしっかり捕まえて下さり、助けて下さるからです。私たちはこのことを信じて良いのです。
 そもそも、ペトロがイエス様に水の上を歩かせて下さいと求めたこと自体が無茶だったのだと思われる人もいるかもしれません。しかし、イエス様はそれを拒んではおられないのです。私は、このペトロの、舟から水の上に一歩を踏み出した信仰は大したものだと思います。ペトロは本当にイエス様を信頼したから出来たのでしょう。確かに、ペトロがそのまま水の上を歩いてイエス様の所まで行けたのなら良かったのですが、そうはならない。途中でおぼれそうになってしまった。でも、これも私たちの信仰の姿なのでしょう。信じ切れない。どこかで自分の常識や計算に頼ってしまう。そして、おぼれてしまうのです。それが私たちの現実です。しかし、たとえおぼれそうになったとしても、「イエス様、助けてください。」そうイエス様に向かって叫べるならば、大丈夫なのです。イエス様が捕まえて、助けて下さるからです。

 私は、このペトロの行動と主イエスの御業から、こんなことを教えられるのです。それは、自分の常識や経験や計算をいったん横に置いて、イエス様だけを信頼して一歩を踏み出すということです。やってみるということです。どうせおぼれるだけではないかと決めて、舟の中に閉じこもっていないで、一歩を踏み出す。おぼれそうになるかもしれません。失敗するかもしれません。しかし、それでも良いのです。その時は、「イエス様、助けてください。」と叫んで祈れば良いのですから。私は、主の業に仕える、あるいは伝道するということは、このペトロのように、舟から水の上に一歩を踏み出すことではないかと思うのです。失敗を恐れない一歩です。ペトロはおぼれることなど少しも考えなかった。だから、船から水の上に一歩を踏み出せたのでしょう。おぼれることを考えたら、船の上から水の上に一歩を踏み出すなんて、とても出来ることではありません。いや、そもそもイエス様信頼して始めたことに、失敗なんてないのです。確かに、ペトロのように最後までやり通せないということも起きるかもしれません。しかし、私はいつもこう思っているのです。やらなきゃ0、やれば1でも2でも結果は付いて来る。100を期待して一生懸命やっても、1か2の結果のこともあるでしょう。途中で続けられなくなることだってあるでしょう。でも、その結果は0ではないのです。
 ペトロは確かにおぼれかけました。しかし、このペテロのしたことは、決して失敗などではなかったと思います。この出来事の結末はどうなったのでしょうか。ペトロの一部始終を見ていたイエス様の弟子たちは、「本当に、あなたは神の子です。」と言ってイエス様を拝んだのです。何と素敵なことでしょう。イエス様に対しての信仰の告白が与えられ、イエス様を拝む礼拝が生まれたのです。私達は何を求めて歩んでいるのでしょうか。イエス様の御業が顕れさえすれば良いのではないでしょうか。イエス様さえほめたたえられれば良いのではないでしょうか。そのことこそ、私達が一番望んでいることではないでしょうか。ここでペトロは、確かに神様に、イエス様に用いられたのです。ペトロは、この「本当に、あなたは神の子です。」との告白へと人々が導かれていくために、用いられたのです。私達も失敗を恐れず、一歩を踏み出したいと思うのです。そして、神様の御業に、神様がほめたたえられる為に用いられたいと思うのです。途中でおぼれそうになるかもしれません。でもその時は、「イエス様、助けてください。」と叫べば良いのです。イエス様は、必ず私たちを捕まえて下さり、私たちを助けて下さるのですから。

[2009年6月14日]

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