1.聖霊が注がれている教会
今朝、私共はペンテコステの記念礼拝を守っています。主イエスの弟子たちに聖霊が降り、復活の証人として立てられ、キリストの教会が新しく歩み出したことを喜び祝う礼拝です。教会学校では、子どもたちが教会の誕生日を祝う為のゼリーを作っていました。教会は、実にこのペンテコステの出来事によって誕生したのです。聖霊が注がれ、主イエス・キリストが聖霊として共におられ、支配され、導かれる群れとして誕生したのです。教会は聖霊の宮として存在しています。聖霊なる神様が御臨在下さるが故に、私共に信仰が与えられ、神様に向かって「アバ父よ」と祈ることが許されました。聖霊が臨んで下さるが故に、私共の礼拝は成立します。聖霊が臨んで下さるが故に、聖餐のパンはキリストの体となり、洗礼は新しい命の誕生となるのです。ペンテコステの出来事は、実に私共のただ中に継続中なのです。確かにペンテコステの出来事によって、聖霊が降ることによって教会は誕生しました。しかし、聖霊はただ一度だけ弟子達の上に降ったのではありません。聖霊はその後も教会に注がれ続けているのです。聖霊によらなければ、誰もイエスは主であると告白することは出来ません。イエスは主なりと告白する礼拝を守るこの群れには、聖霊が注がれ続けているのです。
2.繋がっている神様の救いの御業
神様の救いの御業というものは、何の前ぶれもなしに、突然思いもかけなかった何かが起きる、そういう面があります。神様は自由な方ですから、御心のままに事を起こされます。この神様の自由は、誰にも制限されることはありません。しかし、神様は勝手気ままな方ではないのです。神様の救いの御業というものには、流れと言いますか、つながりと言いますか、一貫した筋道というものがあるのです。私共には何の前触れもなく、突然突拍子もないことが起きたように思えることであったとしても、神様のストーリーとでも言うべきものがあるのです。聖書はそのことをいつも私共に教えています。このペンテコステの出来事もそうです。
今朝私共は、使徒言行録の1章12節から読み始めました。ペンテコステの出来事は2章からではないかと思われた方もおられるかもしれません。確かにそうなのです。ペンテコステの出来事は2章です。聖書にはこう記されています。ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が降り、聖霊が語らせるままに彼らはいろいろな国の言葉で語り出した。それを見た人々の中には新しいぶどう酒に酔っていると思う者もいた。そして、ペトロが使徒たちを代表して、「主イエス・キリストこそ救い主であり、自分たちは主イエスが復活した証人である、悔い改めて主イエスの名によって洗礼を受けよ。」と説教したのです。そして、この日、三千人ほどの人が洗礼を受け、キリスト者となった。これがペンテコステの日に起きたことです。
しかし、このペンテコステの出来事は、何の脈絡もなく突然起きたということではないのです。主イエス・キリストは、十字架にかかり、三日目によみがえり、40日後に天に昇られました。この主イエスの救いの御業に続いて、必然的に起きた事だったのです。何故なら、この主イエスの救いの出来事は、全人類の為の救いの出来事なのですから、この出来事は全ての民に伝えられていかなければならなかったのです。そうでなければ、神様の救いの御業は、尻切れトンボになってしまう。しかし、神様の救いの御業というものは、天地創造から始まって、終末に至るまでずっと続いているものなのです。ずっと繋がっているものなのです。この主イエスの十字架・復活・昇天の救いの出来事に続く、繋がっている、神様の救いの御業として、ペンテコステの出来事は起きたのです。
1章8節で主イエスは天に昇られる時に弟子たちに向かって、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われました。これは約束です。主イエスの約束です。弟子たちは、この主イエスの約束を信じて、聖霊が降るのを待ったのです。主イエスの救いの御業があり、主イエスの約束があり、その約束を信じて待つ主イエスの弟子達に聖霊が注がれたのです。
弟子たちは、主イエスの十字架を見、復活の主イエスと出会い、主イエスが天に昇られるのを見ました。そして、この主イエスの救いの出来事はこれで終わらない、続きがある、そのことを主イエスの「あなたがたの上に聖霊が降ると」という約束の言葉によって知らされたのです。その言葉を信じて、祈りつつ待った。為すべきことを為しつつ待った。そして、聖霊が降ったのです。神様の御業には、このような流れ、つながりというものがあるのです。
3.体勢を整えて
その待っている姿が1章12節から記されています。14節には「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」とあります。使徒たちは、他の弟子たちと共に、心を合わせ熱心に祈りつつ待ったのです。祈りつつ待つ。これが聖霊を求める私共の基本的姿勢です。
しかし、彼らは祈りつつ待ったのですが、ただ祈っていただけかというと、そうではない。祈りの中で、自分たちが今為すべき事を示されたのです。それは何かと言いますと、15節以下に記されております、主イエスを裏切ったユダの代わりにマティアという弟子を使徒に加えるということ、使徒の補充ということです。十二人の使徒のうち一人ぐらい欠けたままでも、大して影響がないようにも思うかもしれませんけれど、弟子たちはそうは思わなかったのです。なぜなら、主イエスが選ばれた十二人という数字に意味がある、と弟子たちは考えたからです。聖書において十二と言えば、イスラエルの十二部族です。弟子たちは、十二人を主イエスが選ばれたということは、自分たちが新しい十二部族、新しいイスラエル、新しい神の民となるということだと理解したのです。聖霊が降ると、自分たちはユダヤとサマリアの全土、更には地の果てまで、主イエスの証人として遣わされていく。その新しい神の民の出発に際して、欠けは補っておかなければならない。神の民としての体制を整えておかなければならない。そう考えたのだと思うのです。
それはちょうど、先程お読みいたしました民数記の始めに、シナイ山で律法を受けたイスラエルが約束の地に向かって再出発する際に、十二部族ごとに隊列を整えたのに似ていると思います。イスラエルの民は、律法を与えられ神様と契約を結び、神の民として約束地へと新に出発するに当たり、12部族ごとに隊列を整えたのです。ただの固まりになって約束の地への旅を始めたのではないのです。
使徒達もこの時、祈りつつ待ち、使徒を補充し、「さあいつでも聖霊を降らせて下さい。さあ、私共を用いて下さい。」そういう備えの時を持ったのではないかと思うのです。弟子達に聖霊が注がれたのは、そういう状態の中ではなかったかと思うのです。もちろん、弟子たちの中に、十分な力、資質、気力、備えがあったということではありません。神様の御業に用いられるだけの十分さなどは、どこまで行っても人間にはないのです。しかし、この神様の救いの御業にお仕えする、献身する、その志は不可欠なものだと思います。この時弟子たちには、その献身の志を確かにする、その為の備えの時が与えられたのだろうと思うのです。
4.イスカリオテのユダについて
ここで、ユダについて記されておりますが、ユダは不幸な死に方をしたようです。ここで少しユダのことについて触れておきます。どうもユダというのは不思議な存在で、多くの人の興味・関心の的になるようです。闇の持つ魅力といいますか、罪の不可解さと申しますか、そういうものがあるのでしょう。ユダについての記述があると、つい、そちらに興味が向いてしまう、そういうところがあるようです。「罪人の共感」のようなものなのかもしれません。ユダについての記述はそんなに多くないので、人は自分の思いや、人間についての考えを、ユダの上に投影しやすいのでしょう。いろんな人がいろんなことを言っています。そんなのを読んでは、私も若い頃に、牧師にユダについて尋ねた。すると牧師は、二つのことを私に言われました。一つは、ユダに興味を持つ以上に、主イエスに興味・関心を持ちなさい。二つ目は、聖書はユダのようになってはいけないと語っているのであって、ユダに同情したり、ユダを弁護するようなことは語っていない。どうでしょうか。私共は、ユダに対して同情的であったり、弁護的であったりするのではないでしょうか。それは、聖書が告げていることと違うというのです。牧師の指摘は実に明解でした。私はそれ以降、ユダについての詮索は止めました。
5.旧約からの繋がりの中で、再臨への繋がりの中で
2章1節を見ますと、「五旬祭の日が来て」とあります。この五旬祭というのは、旧約では七週の祭りとも呼ばれ、元々は小麦の収穫感謝の祭りでありました。後に、律法授与の日、更にノアが神様と永遠の契約を立てた日、アブラハム・イサク・ヤコブがその契約を更新した日とされました。この七週というのは、過越しの祭りから七週、50日後ということです。
主イエスが十字架におかかりになったのが過越しの祭りの時でした。神の民が神の裁きを過ぎ越した日、神様の救いに与った日に、主イエスは十字架に架かったのです。そして、神の民が律法を与えられ神の民として歩み始めた日に、聖霊が降った。これは偶然ではありません。神様の救いの御業、救いの御計画というものが、一貫していることを示しているのです。神の民イスラエルに与えられた神様の救いの御業が、主イエス・キリストの救いの御業へと続いている、そのことを示しているのです。ペンテコステの出来事は、実に、旧約以来の神様の救いの御業の流れ、つながりの中で与えられた出来事なのです。
このペンテコステの出来事は、旧約からのイスラエルの歴史、そして主イエスの十字架・復活・昇天の出来事からのつながりの中で起きたとするならば、このペンテコステの出来事も又、これだけで終わるはずがありません。次の神様の救いの御業、決定的な御業、主イエス・キリストの再臨へと続くはずです。代々の教会は、そして私共は、このペンテコステの次に与えられる、主イエス・キリストの再臨の時を信じて待ち望みつつ、為すべき今日の務めに励みながら、祈りながら歩んでいるのです。弟子たちが、主イエスの昇天の後、ペンテコステの出来事を祈りつつ待ったようにです。ただ今から与る聖餐に、代々の聖徒たちは、まさに神の国で与る主の食卓を思い、与ってきたのです。
6.今も続くペンテコステの出来事
今朝、私共は一人の受洗者を与えられています。このことは私共に、神様の救いの御業が今も継続していることを明確に示しています。ペンテコステによって始まったキリストの教会は、注がれ続ける聖霊なる神様の御支配の元で、主イエス・キリストの救いへと人を招き続けてまいりました。今朝、私共の教会で洗礼を受ける人は一人です。しかし今日、世界中の教会で洗礼を受ける人、信仰を告白する人は、何万、何十万という人でしょう。世界で最初のペンテコステの日、洗礼を受けた人は三千人ほどでした。一日三千人というのは大変な数のような気がします。しかし、今日は全世界でもっともっと多くの人が洗礼を受けているのです。実に、最初のペンテコステの日以来、洗礼を受け、神様の救いに与る者の数は、ずっと増え続けているのです。キリストの教会は、この歩みを今まで続けてきましたし、これからも止めないのです。いつまで止めないのか。それは、主イエスが再び来られる日までです。その日まで、神様の救いの御業は継続して行くのです。
ペンテコステを記念するということは、昔、弟子たちに聖霊が注がれるという出来事が起きたことをなつかしく思い出すことではないのです。ペンテコステの日に弟子たちに注がれた聖霊が、今、私共にも注がれていることを覚えて感謝することなのです。そして、ペンテコステに始まった主イエスの名によって授けられる洗礼が、救いの御業が、二千年にわたって継続してきたこと、そして今も、これからも、主イエスが再び来られるまで続いていく、その為に自分たちは今、召されているということを覚えることなのです。
[2009年5月31日]
へもどる。