1.神の民の連続と断絶
使徒たちによるキリストの教会の誕生、それは神の民の新しい始まりの時でありました。ペンテコステの出来事による、聖霊なる神様によっての新しい始まりでありました。しかしそれは、何もないところからの始まりではありませんでした。確かに、生まれたばかりのキリストの教会は、目に見えるところにおいては何も持っていませんでした。立派な礼拝堂も、制度もありませんでした。しかし、キリストの教会はアブラハム以来の神の民の歴史、伝統を持ち、神の民の系譜に連なっている者達でした。神の民とは、神様によって選ばれ、立てられ、神様と共に、神様に救われた者として、神様の御業を為す為に生きる民のことです。キリストの教会はペンテコステによって突然そこに誕生したのではありません。アブラハム以来の神の民が、主イエス・キリストの救いの御業と、聖霊の注ぎによって新しくされて、再出発したのです。ユダヤ教徒というユダヤ民族という枠を超えることが出来なかった神の民が、主イエス・キリストを救い主として受け入れないが故に、その枠を超えて、全ての民族を招き、神の民としていく、その神様の救いの御業にお仕えする為に、新しく立てられた神の民。それがキリストの教会でありました。そこには、神の民としての旧約との連続性と断絶がありました。ただの連続ならば、主イエスは十字架にかけられることはなかったし、生まれたばかりのキリストの教会がユダヤ教と対立することもなかったのです。キリストの教会には、神様によって選ばれ、救われ、立てられた神の民としての連続性。しかし、その神様の選びと救いは主イエス・キリストを信じる信仰によるという断絶がありました。
2.ヘレニスト
生まれたばかりのキリストの教会の活動場所は、主にエルサレムでありました。使徒たちはエルサレムの神殿に祈りに行き、そしてそこでキリストの福音を宣べ伝えました。ですから、キリストの教会の最初の信徒たちのほとんどはユダヤ人たち、すなわちユダヤ教徒の人たちでした。十二使徒たちはもちろんそうでしたし、使徒たちの教えを聞いて主イエス・キリストを信じるようになった人たちのほとんどがそうであったと考えて良いと思います。エルサレムに住んでいた人は、ローマ人である軍隊の人や商売で来ている人を除けば、みんなユダヤ人だったわけですから、当たり前のことです。
神様の導きの中、キリストの弟子たちはエルサレムの中でどんどん増えていきました。今日の御言葉の直前の6章7節には「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」とあります。祭司たちの中にさえ、主イエス・キリストを信じる者が増えていったのです。このことは、キリストの教会が全く新しい宗教としてではなく、アブラハム以来の神の民として、ユダヤ教の一部として理解されていたということを示しているのでしょう。そうでなければ、祭司たちがキリストの弟子になるはずがありません。
この急速に数を増やしていったキリストの教会の中には、先週見ましたように、二つのグループが出来てしまいました。一つは、ユダヤ生まれ、ユダヤ育ちのユダヤ人。ヘブライ語を話す人々です。もう一つは、当時のローマ帝国の東半分での公用語であったギリシャ語を話すユダヤ人です。彼らは、ローマ帝国の各地に出来ていたユダヤ人社会で生まれ、育ち、エルサレムに戻って来たユダヤ人です。これをヘレニストと言いますが、当時このような人々はエルサレムにおいて、自分たちの出身地別の会堂を持っていたのです。ここからキリストの弟子になる人々も大勢出て来ました。食事の世話のことで、この二つのグループが対立した時、七人の執事が選出されましたが、この七人は多分全員ギリシャ語を話すユダヤ人であったと考えられています。と言いますのは、5節にあります七人の名前は、全てギリシャ風の名前だからです。中には、改宗者ニコラオという、ユダヤ教徒でさえなかった人もいるのです。このギリシャ語を話すユダヤ人、ヘレニストのキリスト者たちこそが、キリストの福音がローマ帝国中に広がっていく為に、神様が備えてくださった者たちだったのです。ヘブライ語しか話せなければ、福音はユダヤ人にしか伝えていくことが出来ません。しかし、ギリシャ語が話せるということは、ローマ帝国中に福音を伝えることが出来るということでしょう。この新しい神の民の出発に際して、ヘレニストの中から七人の執事が選ばれたということも、神様の配剤と言うべきものであったと思います。ちなみに、パウロも又、タルソ生まれですから、ヘレニストの一人でありましたし、何よりも新約聖書を記した人々、新約聖書はギリシャ語で書かれているわけで、新約聖書はヘレニスト達の手によると考えて良いと思います。
3.ステファノ
さて、最初のヘレニストキリスト者の代表と言うべき人が、ステファノです。彼は選ばれた七人の中でも中心的な人物であったと考えられております。5節を見ますと、ステファノだけ、「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」と言われています。他の六人には、このような形容は何も記されていません。8節には、「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。」とあります。ステファノは「恵みと力」に満ちた人だったのです。更に10節には、「彼が知恵と”霊”とによって語るので」とあります。実にステファノは、「信仰と聖霊」に満ち、「恵みと力」に満ち、「知恵と霊」に満ちた人だったのです。これは、ステファノが神様の御業の器、道具とされた者であったということを示しているのでしょう。ステファノの日々のあり様、やること為すこと、語ることが、信仰と一つであったということであります。
それは、何もステファノにだけ限ったことではないのです。信仰というものは、私共の存在そのもの、私共の日々のあり様、やること為すこと、語ること、語り口、その全てに現れるものなのです。私共は、教会にいる時だけ、礼拝の時だけ、キリスト者であるわけではないでしょう。いつでもどこでもキリスト者なのです。ですから、それは隠しようのないことです。信仰による知恵、信仰による力、それは聖霊による知恵であり、聖霊による力です。それは私共の人格、性格、立ち居振る舞いと一つになって、私共にも与えられ、備えられているものなのだと思うのです。それは、能力や才能というものとは違います。貧しい器が、信仰によって変えられ、清められ、神様のすばらしさを現す者とされるということです。「うちのおばあさんは、何かというと、神様が、神様が、と言う。」とか、「あの人はいつも讃美歌ばっかり歌っている。」とか、「あの人はあんなに体の具合が悪いのに、日曜日の教会は休まないね。」とか、そんな風に言われるなら、それは本当に素敵なことなのだと思うのです。そこには、聖霊に満ちた言葉、聖霊による力が現れ出ているのでしょう。神様は、そのような人を必ずお用いになるのです。
ステファノは、ヘレニストの間で伝道をしていました。9節に「ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。」とあります。多分ステファノは、ヘレニストたちの会堂に行って、キリストの福音を告げたのだろうと思います。そこで議論になった。詳しいことは判りませんが、ステフアノが訴えられた理由から考えて、論点は多分こういうことだったと思います。当時のユダヤ教は、神殿の礼拝が中心であり、日々の生活において律法を守ることによって救われると考えていました。従って救われるのはユダヤ人たちだけであるというものでした。しかし、ステファノが語ったのは、「神殿はいずれは崩れるものである。律法を守ることによって救われるのではなく、主イエスを信じる信仰によって救われるのだ。だから救われるのはユダヤ人たちだけではない。」ということではなかったかと思います。これは、キリストの教会が神の民でありながら、ユダヤ教と断絶しているところです。
4.天使のような顔のステファノ
人々はステファノを捕らえ、最高法院に引いて行き、裁きました。この時の訴えの理由は、主イエスが十字架にかけられることになった時と同じものでした。彼らは偽証人を立てて、こう訴えました。13〜14節「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」ステファノが文字通りこのように言ったとは思えませんけれど、自分たちが絶対だと思い、大切にし、自分たちの救いの根拠、信仰の中心と思っていたものである「神殿と律法」に対して、それが絶対でなく救いの根拠ではないと言ったことは本当だったと思います。ステファノが、主イエスが十字架にかけられた時と同じ理由で訴えられたということは、彼が、主イエスが語ったことと同じことを語っていたということのしるしと考えて良いのではないでしょうか。ステファノは主イエスの語ったことを語り、人々は主イエスに対するのと同じように対応したということなのでしょう。ステファノは文字通り、主イエスが歩まれたように歩んだのです。
ステファノも又、そのことを自覚していたのではないかと、私には思えます。ステファノは最高法院に引き出された時、「その顔はさながら天使の顔のように見えた。」と聖書は告げます。彼の顔は、平安と自信と喜びに溢れていたということでありましょう。ステファノは、これから起きることに対しての予測は立っていたに違いありません。主イエスが十字架に架けられたのと同じ理由で、主イエスが十字架に架けられることが決められた同じ最高法院に立たされたのです。しかし、彼の顔は平安と自信と喜びに溢れていたのです。どうしてでしょうか。それは、彼の目は天に向けられていたからです。彼はこの時、天を見上げていたのです。7章の長いステファノの説教の後、彼が石を投げられて殺される直前、彼は「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える。」と言いました。彼は天を見上げ、十字架にかかり、三日目によみがえられ、天に昇られた主イエス・キリストを見ていたのです。自分のこれからのことや、自分の周りのことにばかり目が向いていたのでは、決して天使のような顔にはなれません。
5.ステファノの説教
ステファノは、大祭司の前で語り始めました。彼は「兄弟であり父である皆さん」と語りかけます。自分と敵対し、自分を訴える者に対して、何と愛にあふれた語りかけでしょう。ここにも、キリストの霊である聖霊の導きの中にある者の姿を見ることが出来ます。ステファノは、自己弁明をここでしたのではありませんでした。淡々と、神の民の歴史を語り始めるのです。その意図は明確です。神殿と律法に救いの根拠を求めていた大祭司やユダヤ教の人々に対して、アブラハムから説き起こして、神の民というのは神殿と律法によって保障されているものではない、ただ神様の約束の言葉を信じ、その神様と契約を結んだ民なのだと言うことでありました。
ステファノはまずアブラハムから説き起こします。3節「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」、この神様の言葉に従ってアブラハムは出発した。5節で「そこでは財産を何もお与えになりませんでした。一歩の幅の土地さえも。」これは、壮大な神殿を持ち、それを頼りとしている大祭司たちに対しての、痛烈な皮肉でもありました。そして、8節に「神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。」とあります。アブラハムは、約束を信じ旅に出た。そして、神様の約束の言葉を信じたアブラハムと神様は契約をした。それが神の民ではなかったのか。アブラハムに神殿はなかった。しかし、アブラハムこそ神の民の最初の人ではないか。ステファノはそう語ったのです。そこには、自分たちキリストの教会もそうだ。ただ主イエスによる救いの言葉を信じ、神様と契約した民なのだ。主イエスによる永遠の命、体のよみがえりを信じ、この地上においては何も持たず、アブラハムと同じようにただ約束を信じ、神様と共にこの地上を歩んでいく神の民なのだ、そう語ったのです。アブラハムに割礼が与えられたように、キリストの教会には洗礼が与えられたのです。
そして次に、ステファノはヨセフについて語ります。9節で「この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。」と語ります。主イエスも、大祭司たちにねたみによって殺されました。ステファノは、このヨセフを主イエスに、ヨセフを売った族長たちを大祭司たちに、重ね合わせて語っているのだと思います。「しかし、神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出した。」のです。同じように、神様は主イエスを離れず、主イエスを死人の中から救い出し、復活させられたのです。ヨセフがエジプトに売られることによって、後にヨセフを売った兄たちもエジプトに呼び寄せられ、飢え死にすることなく助けられ、更にモーセによる出エジプトへと続いていくわけです。ヨセフが売られることによって、神の民は存続したのです。これは、十字架の上で殺された主イエスによって、主イエスを十字架の上で殺したユダヤ人たちも救われ、神の民は存続し、神様の救いの業は前へと進んでいくということを語っているのでしょう。
このステファノの説教の大切なポイントは、旧約の歴史を主イエスによる救いの御業の預言として見て語っているということです。ステファノが語ることは、大祭司もユダヤ人たちも、誰もが知っていることでした。しかしステファノは、その神の民の歴史を、主イエスの救いの出来事と重ね合わせて見ている、預言として語っているのです。主イエスを救い主として信じるステファノにしてみれば、当然のことでありました。ステファノの時代、聖書といえば旧約聖書しかありません。聖書は神の言葉なのです。この神の言葉である聖書の歴史は、神の歴史であり、それが主イエスの出来事、主イエスによって始まる新しい神の民としてのキリストの教会を指し示している。それがステファノの語ろうとしたことだったのです。神殿と律法を救いの根拠とするユダヤ教ではなくて、救い主イエスによって新しく建てられたキリストの教会こそが、アブラハム以来の神の民の歴史を受け継ぐ民なのだという主張なのです。
主イエスが語り、ステファノも語ったように、エルサレムの神殿はローマ帝国によってA.D.70年に破壊され、瓦礫の山となりました。私共の救いの根拠は、目に見える何にもないのです。主イエス・キリストの十字架と復活とそれによる救いの約束、ただそれだけを信じて、御国に向かって歩むのです。主イエスがおられる御国に向かってです。ステファノが天を見上げたように、この一週、私共もただ天を見上げて歩んでいきたいと思います。私共こそ、神の民なのですから。
[2009年5月24日]
へもどる。