富山鹿島町教会

礼拝説教

「人から、それとも神から」
箴言 16章1〜9節
使徒言行録 5章27〜42節

小堀 康彦牧師

1.明日は神様の御手に
 世界は今、大変な不況の中にあります。新聞やテレビでは、毎日そのことが報じられています。特にアメリカでは失業率が上がり、世界の経済をリードしてきた大きな企業が倒産し、日本でも世界的な大会社と言われる企業が次々と赤字の決算を報告しています。しかし、このような状況になることを、昨年の今頃は誰も考えてもおりませんでした。昨年の今頃、日本の各会社は今までにない業績を上げ、好景気に沸き、若者たちの就職も良かったのです。ところが、あっという間に状況は悪くなってしまいました。100年に一度の不況とも言われています。このことは、私共がいかに明日を見通すことが出来ないかということを示しているのではないでしょうか。私共は事がうまく運んでいれば、自分はなかなか大した者だとうぬぼれます。しかし、このような状況を迎え、人間とはいかに先を見通すことが出来ない存在であるか、その事実を正直に認めなければならないのだと思うのです。明日は神様の御手の中にあるのです。この様な状況の中で私共は、明日を御手に治められる神様の御前に生きる者となるようにと、一人一人が招かれているのでしょう。
 先程、箴言をお読みいたしました。3節には「あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ。」とあり、9節には「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」とあります。私共は様々なことを計画します。しかし、それが実現されるかどうか、その明日というものは神様の御手の中にあるのです。神様の御心だけが固く立つのです。このことを、私共は自分の人生の中で何度も知らされてきたはずです。この様な明日にしようと計画し、努力した。しかし、そうならない。その様なことを何度も経験してきたはずです。しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうのが私共なのでしょう。つい、明日もまた自分の手で何とか出来るものと思ってしまう。しかし、聖書ははっきり告げます。私共の明日は神様の御手の中にある。このことを知る時、私共は「どうせ何をしても同じだ。」と言って投げやりになるのではありません。明日を御手の中に治めておられる神様の御心を尋ね、今日という日を御心に従って、誠実に精一杯歩もうとするのでありましょう。
 主イエスは、「明日のことまで思い悩むな。」(マタイによる福音書6章34節)と言われました。それは、明日のことなどどうなるか分かりゃしないのだから思い悩むだけムダだというのではないのです。そうではなくて、明日は神様の御手の中にあり、神様は私共を愛して下さっているのだから、神様を信頼して、神様にお委ねして、安心して御心に従って今日を生きなさいということなのです。ですから「明日のことまで思い悩むな。」と言われた時、主イエスは同時に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(マタイによる福音書6章33節)と言われたのです。
 生まれて間もないキリストの教会は、主イエスの弟子たちは、これからどうなっていくのか、どうなるのか、誰も分かりませんでした。しかし、彼らは不安の中にいたのではありません。実に堂々と、大胆に、歩み始めました。自分たちの明日は神様の御手の中にあることを知っていたからです。そして、その神様の導きの中で、全てを神様に委ねていたからでありましょう。明日を思いわずらわない者の歩みが、ここに明確に示されているのだと思います。

2.私はここに立つ
 使徒たちは、神殿で主イエスの御名によって福音を宣べ伝えていたが故に、大祭司たちに捕らえられ、牢に入れられてしまいました。二回目です。そしてこの時は、天使が牢の戸を開けて使徒たちを助けたのです。そしてその時、天使は使徒たちに「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」と命じられました。この言葉に従い、使徒たちは再び神殿で教え始めたのです。こんなことをすれば、又捕まることは目に見えています。そして、実際使徒たちは捕らえられ、今度は最高法院の中に立たされたのです。4章においても牢に入れられ、次の日に議会で取り調べを受けました。この時使徒たちは、イエスの名によって話したり教えたりしないようにと脅されて釈放されました。この4章で議会と言われているのと、ここで最高法院と言われているのは同じものです。つまり、使徒たちは2度、同じ所に立たされたのです。ここでのやり取りも、4章とほとんど同じです。大祭司はこう尋問します。28節「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」4章において、もうイエスの名によって教えるなと言って釈放したのに、全く反省していない。何ということか。大祭司としては、自分たちがまるで相手にされていないという腹立たしさ、見くびられているという怒りを覚えていたのではないかと思います。ローマによってユダヤの自治を任されている最高法院、それを束ねる大祭司。彼らは使徒達を死刑にすることは出来ませんけれど、牢に入れることなら自由に出来る。彼らには権威も権力もありました。ペトロとほかの使徒たちは、ここで4章の時と同じ言葉を告げます。29節「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」まさに使徒たちは、明日のことを思い悩むことなく、神の国と神の義とを求めたのです。そして、今まで語ってきたことと同じことをここでも語りました。「神様はあなたがたが殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを、つまりあなたがたを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人です。そして聖霊もこそのことを証ししておられます。」実に堂々としています。
 私はこの時の使徒たちの姿を思いながら、宗教改革者たちの姿が重なって見えてきました。1521年、ルターが95箇条の提題を著してから4年後です。この4年の間に、ルターの主張は全ヨーロッパに広がっていきました。ローマ法王もドイツ皇帝も、もうルターを放っておくことが出来ない程に、その主張は勢いを持ってきました。宗教改革者ルターは異端の疑いをかけられ、神聖ローマドイツ皇帝カール五世が召集したヴォルムスの国会に召喚されたのです。「聖書のみ」「信仰義認」と言ったルターが語ってきたことの撤回を求められました。それを拒めばルターは破門されます。その当時の破門とは、法的な一切の保護を失うことであり、つまり処刑されるということだったのです。ルターは絶体絶命のピンチを迎えました。その時ルターは、有名な「私はここに立つ。私はこうするほかない。神よ私を助け給え。アーメン。」と語ったのです。こうして、ルターは皇帝の敵、ローマ法王の敵となりました。幸い反皇帝派のザクセン選定侯フリードリッヒにかくまわれ、ルターは宗教改革を進めていくことになりました。ルターが「私はここに立つ。私はこうするほかない。」と語った時、ルターの思いは「聖書はこう語っている。神様の御心は、福音の真理はここにある。私はこれを曲げることは出来ない。たとえ自分の命が危険にさらされようと、人間に従うよりも神に従わなければならない。」ということだったのだと思います。ルターはこの時、きっと大祭司の前に立たされたペトロの姿を思い起こしていたに違いないと思う。使徒達が大祭司達の前で恐れずに神様の御心を告げたように、自分も神様の御心を、福音の真理を曲げることは出来ない、そう思ったのでしょう。

3.聖霊なる神さまによって強められ
 このような使徒たちの姿や宗教改革者たちの姿を思う時、私共は自分の弱さを思わされます。相手の機嫌を気にして、主イエスの救いを語れないでいる自分を情けなく思います。しかし、使徒たちは立派、宗教改革者達も立派、しかし私共は情けない。そういうことではないでしょう。使徒たちを強め、宗教改革者達を強めたのは聖霊なる神様です。主イエスも言われました。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(ルカによる福音書12章11〜12節)まさにこの時、使徒たちは聖霊によって語るべき言葉を与えられ、語る勇気も与えられたのです。宗教改革者達も同じです。神様が導き、神様が与えられた言葉であるが故に、自分では撤回することは出来なかったのです。もし私共は自らの情けなさを思うのなら、私共は何よりも聖霊の助けを願い求めなければならないのではないでしょう。使徒たちも、一回目に牢に入れられ議会での尋問の後で釈放された時、他の弟子たちと共に「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」(使徒言行録4章29節)と祈ったのです。そして神様は祈りに応えて、必要な時、必要な言葉を、そして必要な勇気を与えられたのです。私共とて同じです。私共も祈り、願うのならば、必ず与えられます。そのことを信じ、安んじて祈り、求め、お委ねしたいと思うのです。

4.神様の御前に責任ある歩み
 さて、使徒たちの言葉を聞いた人々の反応はどうであったでしょうか。33節「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。」とあります。まさに主イエスが十字架にかけられることになった、ほんの数ヶ月前のあの時の議会と同じような空気が流れたのだと思います。しかし、この時は主イエスの時とは違って、使徒たちを外に出して、一人の人が立って語り始めました。律法学者のガマリエルでした。彼は当時、ユダヤにおいて最も尊敬を受けていたファリサイ派の律法学者でした。ちなみに、このガマリエルの弟子の一人が、後に主イエスの弟子となったパウロです。彼はこう語ります。テウダやユダといった反乱を起こした人を例に挙げて、「彼らは一事は大した勢いがあったが、結局跡形もなくなったではないか。だから、放っておけばよい。人間から出たものなら自滅するだろうし、神から出たものなら滅ぼすことは出来ない。もしかしたら、神に逆らう者となってしまうかもしれないから。」ガマリエルの言葉は穏健で、知恵がありました。彼は律法学者でありますから、先程お読みいたしました箴言の言葉をよくわきまえていたのでしょう。しかし、この知恵には、何か美しくない、不純なものを私は感じるのです。
 ここでガマリエルが語りました二つの反乱について、少しお話しします。テウダとガリラヤのユダの反乱についてですが、ガリラヤのユダについては紀元後6年頃にあった反乱で、神様だけがイスラエルの王であるのだからローマへ税を納めることは神を冒涜するものであるという主張をして鎮圧されました。テウダについては、ヨセフスという歴史家が紀元後44年、45年頃の反乱として報告していますが、それとは別のものと考えたほうが良いでしょう。この頃、ユダヤでは反ローマの反乱がいくつも起きていたのです。ローマ帝国はその為に、ユダヤの治安用に軍団を配置していた程なのです。つまりガマリエルは、生まれたばかりのキリストの教会を他の反ローマの反乱と同じレベルで見ていたということなのでしょう。
 ここで彼は、決して使徒たちや主イエスの弟子たちに同情したということではなかったのです。彼の弟子の一人のサウロ(後のパウロ)がキリスト教徒迫害の先頭に立っていたことからも分かるように、彼は少しもキリスト教徒たちに同情するような人ではなかったのです。彼は、「もしかしたら神に逆らう者となるかもしれない」とまで言っていますけれど、そんなことは少しも思っていなかったと思います。人から出たものなら自滅するだろうし、神から出たものなら滅ぼすことは出来ない。それは本当でしょう。ガマリエルが言うように、歴史というものには、そのようなリトマス試験紙のような働きがあるとも言えるでしょう。この言葉は一見、知恵に満ちた言葉に思えます。だから、最高法院の人々はこの言葉に説得され、納得したのでしょう。しかし、このガマリエルの考え方、判断の仕方というものには、神様の前に自らの歩みの責任を取ろうとしないずるさを感じるのは、私だけでしょうか。聖書は私共に知恵を与えます。しかしその知恵は、神様の御前に真実に歩む為に与えられるものであって、責任逃れをする為に用いられるものであってはならないと思うのです。
 私はここで、聖書は自らの命をかけて主イエス・キリストの真実を語り続けている使徒たちの姿と、ガマリエルの姿を対照的に記しているのではないかと思うのです。そして、聖書はもちろん、私共にガマリエルのように生きるのではなくて、使徒たちのように生きるように告げているのです。
 明日のことは分からない。それは使徒たちもガマリエルも同じことです。ガマリエルは、分からないから判断しないのです。しかし使徒たちは、分からないけれど今自分がしなければいけないこと、語らなければいけないことを語っているのです。ガマリエルの知恵は人間の知恵であり、使徒たちを導いているのは神の霊です。私共は人間の知恵によって歩むのではなくて、神の霊の導きによって歩むのです。使徒たちには恐れがありません。しかし、ガマリエルには「神に逆らう者となるかもしれない」という恐れがあるのです。私共も明日を知りません。しかし、神様の御心に従い、神様の御業にお仕えしていくならば、私共にも恐れはないのです。神の国と神の義とを求める中で、「明日のことまで思い悩むな。」との主イエスの御言葉の中に生きることが出来るからです。そして、この明日を知らぬ私共に与えられている平安こそ、私共が神から出たものであることの確かなしるしなのでありましょう。

5.迫害さえも喜ぶ
 ガマリエルの態度は、神様の御前に決して正しいとは言えないと思いますが、しかしこの時彼が図らずも神様によって用いられ、使徒たちを助けることになったことも事実です。彼は使徒たちが神から出ているなどとは少しも信じていなかったし、ただ人々が興奮して過激になるのを押さえようとしただけなのだと思います。しかし、彼の行動は使徒たちを助けることとなった。ここにも、神様の御旨だけが固く立つということが示されているのでしょう。ガマリエルの意思とは別に、神様が働き、彼を用いたのです。神様は信仰のある者だけを用いられるのではありません。御心を為す為には、誰でも用いるのです。
 使徒たちは鞭で打たれて、イエスの名によって話してはならないと命ぜられて、釈放されました。もちろん、このような脅しは何の効果もありませんでした。それどころか、41節「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んだのです。何ということでしょう。彼らは恐れ、怯えたのではなく、喜んだのです。彼らはきっと、山上の説教において主イエスが語られた言葉を思い起こしたのだと思います。「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイによる福音書5章10〜12節)
 私共は、主イエスの御名を語ろうとして相手が聞いてくれないと、もうムダだとすぐに諦めてしまうところがあります。しかし、このように使徒言行録を読んでいきますと、困難の中でなお喜び、諦めずに語り続ける使徒たちの姿に励まされます。そして、自分たちもこのように歩んでいきたい。本当にそう思うのです。この使徒言行録を読んだ代々の聖徒たちもそうだったのです。先程申し上げた宗教改革者ルターもその一人だったと思います。私共もこのような歩みが出来るよう、今、共に聖霊なる神様の支えと導きとを祈り求めたいと思います。

[2009年5月10日]

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