富山鹿島町教会

礼拝説教

「神に倣う者」
申命記 18章9〜14節
エフェソの信徒への手紙 5章1〜5節

小堀 康彦牧師

 今朝、聖書は私共に「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」と告げます。このように告げられて、私共はいささか戸惑いを覚えるのではないかと思います。「神に倣う者となりなさい」と言われても、天地を造られた神様に、聖なる神様に、罪人である私がどうやって倣うことが出来るのか。それは話にならない程の無理難題ではないのか。そう思います。確かに、聖なる全能の神様にどのように倣うことが出来るのか。出来るはずがありません。これは文字通りに、神に倣う、神様の真似をする、神様のようになる、そういうことを意味しているのではないでしょう。そうではなくて、神様に愛されているのですから、神様に救われたのですから、神様に愛されている神の子として、神様の救いに与っている者として、その恵みに応えるふさわしい歩みをしなさいということなのであります。それは、直前の「神がキリストによってあなたがたを赦して下さったように、赦し合いなさい。」というのと同じことなのです。神様が赦してくださった、だから赦し合いなさい。これと同じように、神様に愛されたのですかすら、神様に倣う者となりなさいと言われているのです。とするならば、神様に倣う者となるということは、神様に愛されている子供としてふさわしく生きるということ、愛する者として生きるということになるはずです。聖書は確かにそのように言葉をつないでいっています。5章2節は「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」とありますが、翻訳の都合上「愛によって歩みなさい」というのは、2節の最後に来ています。しかし、原文のギリシャ語では、「愛によって歩みなさい」は2節の冒頭にあるのです。1節から直訳すればこうなります。「神の模倣者であれ。愛されている子として。そして愛に生きよ。キリストはあなたがたを愛し…」となります。愛によって生きる。それこそ、神様に愛されている子、神の子としての歩みなのであります。
 この愛に生きるということは、もっと具体的には、キリストの愛、私共の為に十字架におかかりになって下さった愛、この十字架によって示された愛に生きるということなのです。ですからそれは献げる愛、仕える愛と言っても良いでありましょう。

 先週の説教において私共は、ここで聖書が告げているのは、単なるキリスト者個人の生き方ではなくて、教会の交わりのあり方であるということを知らされました。このことは今朝与えられているこの御言葉においても言えることなのです。私共一人一人が愛することにおいて豊かな人になるということは大切なことですし、ここで告げられていることもそういうことなのですけれど、しかしまずそれは教会の交わりにおいて実現されなければならないことなのです。
 愛するということは、誰にも教えてもらわなくても皆が分かっているかのように考えるかもしれませんが、そうでもなかろうと思うのです。私が結婚の準備会において必ずお話しすることの一つは、愛は自分の要求を突きつけ合うような関係ではないということです。お互いに好きだから、引かれるから結婚するのでしょう。しかし、好きだというだけで、お互いに愛することにおいて未熟であれば、一つ屋根の下に生活するということは本当に難しいのです。相手にこのようにして欲しい、このようであれと要求ばかりしていて、自分のことは棚に上げたまま。お互いがそういうことであれば、それは愛に生きるということにはならないでしょう。愛に生きるということは、仕える者として生きるということなのです。喜んで仕えるということなのです。この喜んで仕え合う交わり、喜んで仕える愛を、私共はどこで学ぶのか。教会です。あのキリストの十字架の愛を知り、あのキリストの十字架の愛によって生かされた者の交わり。そこには、この仕え合う愛があるはずだからです。
 私は正月に帰省しましたけれど、そこで何人かの友人に会いました。その友人との話の中で、教会というのはどうやって運営されているのかということを尋ねられました。隠すことは何もありませんので、教会の財政、献金のこと、私の謝儀のこと、聞かれるままに全部話しました。ヘー、ホーといたく感心しておりましたが、一番感心したのは、長老・執事の話になった時です。教会の運営はこの方々による会議が毎月あって、そこで決められ、実施されていると言いましたら、「それはみんなボランティアか。」と聞くのです。もちろんそうですと答えますと、「その人たちは普通の仕事を持っているのだろう。大変だなあ。大したもんだなあ。」としきりに感心するのです。私は改めて、教会という存在が、この世間一般の常識とは違うのだということに気付かされました。報酬など少しも求めないで仕える。これは、キリストの愛によって生かされている私共にとっては当たり前のことです。しかしこれは、キリストによって新しくされた者として当たり前なのであって、世の中の当たり前ではないのです。
 この世間とは違う、仕える愛、その愛に生きるというあり方を、私共はこの教会において学び、訓練され、育まれていくのです。
 もう一つ具体的なことを考えてみましょう。私共が自分のことしか考えられなくなってしまう、人のことなど考えられなくなってしまう。それは自分が大変な時、病気もあるでしょうし、生活の様々な課題が山積の時です。仕事のこと、家庭のこと、いろいろあるでしょう。しかし、この教会という所に身を置いておりますと、自分が大変な状況の中にあるにもかかわらず、あの人のこと、この人のことを心に掛け、その人の為に祈るという心の動きが身についてくるのです。これは実に驚くべきことです。目に見える奉仕というものは、体調のこと、老いるということもあって、いつでも誰でもすることは出来ないかもしれません。しかし、心を使い、祈りをささげることは出来る。私は、この自分が大変な時でもなお、あの人のこと、この人のことと心を使い、祈りをささげることが出来る、これも又、愛に生きるということの具体的な姿なのだと思うのです。いつでも自分のことで精一杯という状態にならないのです。愛というものは、自分のことで精一杯という心に穴を開けるのです。

 こう言っても良いでしょう。愛は消耗品ではない。使っても使ってもなくならないのです。使っても使っても、いや、使えば使う程、与えられる。キリストの無限の愛が私共に注がれるからであります。私共キリスト者が為さなければならないことがあるとすれば、それは愛することです。神様を愛し、キリストを愛し、教会を愛し、隣り人を愛する。そして、それは具体的には仕えることです。自分たちがその愛の業に励み、それがどのような結果をもたらすのか。それはそれ程重要なことではありません。愛の業に励む、そのこと自体に意味があるのです。そのことを忘れてはなりません。
 私が前任地の幼稚園の先生たちにいつも言っていたのは、神様から与えられている幼子を愛すること、それがこの幼稚園の全てです。もちろん、幼児教育のプロとして技術も必要です。カリキュラムも大切です。しかし、それらは全て、愛するという最も大切な業の為に為されていくのであって、目的は目の前の幼子一人一人を愛することです。その結果、評判が良くなり、園児数が増え、経営状態が良くなるかどうか、それはこの愛するということの重大性に比べれば、どうでも良いことなのです。何も心配することはない。いつでも、愛する、そこに集中していきなさい。そう言っていました。これは幼稚園のことですが、私の中では、教会も幼稚園もあまり区別してはいませんでした。神に愛され、救われ、生かされている者は、教会であれ、幼稚園であれ、そのあり様が変わるということはないと思っているからです。正確に言えば、愛することを教会で学んだ者は、その遣わされた場において、それが幼稚園であれ、会社であれ、その愛に生きる者として歩んでいくということなのでしょう。それが証しというものです。愛は愛することによってしか伝えることは出来ないのです。キリストの愛は、その愛に生きる者によってのみ伝えられていくのです。
 言葉も大切ですが、愛を伝える言葉とは、「愛している」という言葉を何度も語ることによって伝わるというものではないでしょう。愛は、愛を物語る言葉によって伝えられるものなのでしょう。親が子に愛を伝えようとするのはなかなか難しいのですが、あの「おふくろさんよ」という森進一の歌には、物語がある。だから伝わるのでしょう。キリストの愛は、福音書という形で、キリストの物語を語ることによって伝えられたのです。このキリストの十字架の愛の物語が、私共の人生において様々な愛の物語を生み出していくのです。教会は、たくさんの愛の物語を持っているのです。そのたくさんの愛の物語の根本に、キリストの物語があるのです。世の人々はまことの神様を知らず、それ故自分が神様にどれほど愛されているかを知りません。しかし、人は傷つき、弱り果て、口に出さずとも幼子から老人まで皆、愛を求めています。その人々に向かって、私共は自らの存在をもって、具体的にその目の前にいる人を愛することによって、神様はあなたを愛している、この一事を伝えていくのです。教会にはその使命があり、私共はその為に救われたのです。

 3〜5節では、少しトーンが変わります。神様の愛によって生きる者は、不品行を避けよと告げるのです。「みだらなこと、汚れたこと、貪欲なこと、卑わいな言葉、愚かな話、下品な冗談」と色々挙げられていますけれど、この中心にあるのは性的な不品行と言って良いでしょう。性的な不品行は、してもいけないし、口にしてもいけないと言うのです。いわゆる下ネタも口にするなと言うのです。真実な愛と性的な不品行は相容れないからです。偶像礼拝という言葉と姦淫という言葉は、旧約のヘブル語では全く同じ言葉であるということは、御存知の方も多いと思います。ただ一人の神様に愛され、その神様を愛するという聖書の信仰、真実な神様との交わりは、人と人との一対一の真実な交わりを生み出すのです。日本もそうですが、偶像礼拝をする文化においては、性の倫理というものは厳しくないのです。
 偶像礼拝というものは、人間の中の貪欲が造り出したものです。自分の中にある、こうしたい、これが欲しい、この貪欲がそれを叶えてくれる神としての偶像を生み出したのです。ですから、偶像は人間の欲望の数だけあると言っても良い程なのです。
 キリストの愛に応えて、愛に生きるということは、キリストによって聖なる神様のものとされた者として生きるということと重なります。「聖なる者にふさわしく」とは、聖なる神様のものとされた者にふさわしくということです。私共は神様のものなのです。神様が、キリストの十字架の血潮をもって、サタンから買い取り、罪から救い出し、御自身のものとして下さったのです。私共はもはや、キリストによって救われる前のような歩みは出来ません。何故なら、そんなことをすれば、キリストの十字架を無駄にしてしまうことになるからです。
 私が32年前に洗礼を受ける時、試問会で「どうして洗礼を希望するのですか。」と問われ、「キリストは私を見捨てないと思った。だからこの方と一緒に生きていきたいと思った。この方をもう悲しませたくないと思った。」と答えたことは忘れることが出来ません。この方を悲しませたくない。その思いは、ずっと変わりません。もちろん、この32年の信仰者としての歩みの中で、キリストを悲しませるようなことはしなかったなどと言うつもりはありません。それどころか、どんなに悲しませているかと思うことが、しばしばです。しかし、「悲しませたくない」という思いは変わりません。神に倣う者となりなさいというパウロの言葉は、そういうことなのではないかと思うのです。神様を真似するなどということではなくて、神様の愛を受け、これに生きる者として、もう神様を悲しませたくないではないか。だったら、そう生きよう。キリストに救われる前の自分と決別して、キリストが喜ばれるように生きよう。愛に生き、仕える者として生き、不品行を避け、感謝と賛美をもって一日一日を生きていこう。私たちは、キリストと神の国を受け継ぐ者とされているのだから、そこを目指して生きていこう。そのように招いているのでしょう。この招きに応えて、この一週も神に愛されている神の子として歩んでいきたいと、心から願うものであります。

[2009年1月18日]

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