洗礼を受け、キリスト者となった私共は、日々の歩みをどのように整えていくのか。そして、そのことをどこで学ぶのか。答えは明解です。教会で学ぶのです。聖書を読み、神の言葉を受け、祈りを合わせ、共に神の国に向かって歩むこの教会において、私共はキリスト者としての歩みを学び、整えられていくのです。私共は、独りで聖書を読み、独りで祈り、キリスト者としての歩みを確立していくのではありません。もし、それで良いのであれば、教会というものは、あってもなくても良いようなものになってしまうでしょう。教会がキリストの体であるということは、この目に見える教会の交わりの中にキリストの霊である聖霊が臨んでおられ、この交わりの中で私共の信仰の歩みが導かれ、整えられ、確かのものとされていくからなのであります。聖霊なる神様は、礼拝の上にだけ臨まれるのではありません。もちろん、この教会の交わりの中心には主の日の礼拝があります。そして、更にその主の日の礼拝の中心には、見える御言葉としての聖餐と、聞く御言葉としての説教があります。教会の中心には、主の日の礼拝、神の言葉があります。この中心をしっかりと捉えることは大切です。しかし、教会という存在を中心にだけ限定して、その豊かさをそぎ落としてはならないでしょう。それでは、真実に教会を建てることにはならないし、私共自身、新しい人を身に着けていくことにはならないからです。
今日は、礼拝後に壮年会・婦人会・青年会の新年会があります。この交わりにも、聖霊なる神様は臨んで下さるのです。礼拝の上にだけ聖霊は臨まれ、壮年会や婦人会や青年会といった交わりの上には聖霊は臨まないと考えてはなりません。そのように考えますと、礼拝は主にある交わり、聖なる交わりだけれども、壮年会・婦人会・青年会といったものは人間の交わり、俗なる交わりといった風に理解しかねないのです。それは間違いです。私共はキリスト者のなのです。キリストを着た者なのです。このキリストの名によって呼ばれる私共一人一人の交わりは、聖霊の御支配の中で清められていかなければならないのです。教会にこそ、人間同士の交わり、関わり方のあるべき姿があるのです。確かに、人と人との関わりというものは難しいものです。それは私共が罪人だからです。しかし、その罪を乗り超えて、私共は主にある真実な交わりが形作られていかねばならないのです。それは面倒なことです。しんどいことです。しかし、それをしなければならないのです。何故なら、教会はキリストの体だからです。聖霊が御支配する所だからです。私共は罪赦され、新しくされた者だからです。
このことを真剣に受けとめる時、大切になってくるのが言葉なのです。私共が互いに何を語るのか。どのように語るのか。このことが大切なのです。
パウロは、「新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」と24節で告げて、最初に告げるのがこのことなのです。25節「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」真理に基づいた正しく清い生活を送りなさいと言われて、次に何が告げられるのかというと、「隣人に対して真実を語れ」ということなのです。「真理に基づいた正しく清い生活」などと言われると、何かとても出来そうもないような、高い目標がかかげられるかと思うと、そうではないのです。「真実を語る」、実に単純なことです。嘘、偽りを捨てて、真実を語る。これが第一に挙げられなければならない程に大切なことであるというのです。それは、これがなければキリストにあっての交わりが出来ないからであります。「真理に基づいた正しく清い生活」というのは、キリスト者個人の生活というよりも、教会の交わりを指していることなのです。教会の交わりが真実に主にある交わりとして形成されるとき、キリスト者の正しく清い生活が全うされるということなのです。
この「真実を語る」ということは、何でも本当のこと、心に思ったことを語るということではないでしょう。キリストによって新しくされた者、キリストを着た者が語る真実というのは、福音の真理であり、キリストの救いの真実ということでありましょう。キリストに救われ、生かされていることの真実を語るということです。それは、恵みの喜びを語るということになるのだと思います。この「真実を語」らなければならない理由は、「わたしたちは互いに体の一部」であるということです。キリストの体である教会に連なり、一つとされている者同士であるということなのです。共に同じ救いに与り、同じ命に生かされている。このことに基づいて、真理を語るのです。ですから、この「隣人」というのは、何よりもまず教会員のことなのであります。ここでパウロが告げているのは、教会の中におけるキリスト者のあり様ということなのです。もちろん、教会の外では何を言っても良いということではないでしょう。しかし、何よりもまずこの教会における交わりにおいてこそ、キリスト者のあるべき姿は全うされなければならないということなのです。
私共の口は、福音の真理を語り、神様の恵みを語り、愛を語り、神様をほめたたえる為に開かれなければならないということなのであります。それは、29節においても、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」と告げられています。私共の口は、放っておけば、不平や不満や人を非難する言葉で満たされてしまうものなのです。人の悪口などというものは、放っておけば次々と出て来ます。しかし、それは教会の交わりの中であってはならないものなのです。では放っておけば出て来てしまう悪口を、どうすれば口にしないようになるのか。それは真実な言葉、良い言葉で口を満たすということ以外にないのです。幸いなことに口は一つしかありませんから、良い言葉を語っていれば、悪い言葉は語れません。29節の「その人を造り上げるのに役立つ言葉」とは、口語訳では「人の徳を高めるのに役立つ言葉」と訳されていました。この「人を造り上げる」「人の徳を高める」と訳されている言葉は、元々「建物を建てる」という意味の言葉であり、教会を建て上げると読むことも出来るのです。教会を建て、人の徳を建て、その人を造り上げていく言葉。それこそ、主イエス・キリストによる救いの恵みの言葉、主イエスの愛の言葉、信仰による言葉、真実な言葉しかないでありましょう。これが証しというものです。私共は、自分の口というものを制御する責任があるのです。しかしその為には、繰り返して申しますが、私共は嘘、偽り、悪口を口にしない、それを捨てるということに心を向けるよりも、神様の恵み、福音の真理、救いの喜びを語るという方に心を向けていくことが大切なのです。そうすれば、自然と悪い言葉は私共の口から追い出されていくからです。
次に語られるのは、「怒り」です。教会も罪人の集まりですから、腹に据えかねて怒りたくなるようなことだって起きるのです。傷つくこともあるのです。真実な言葉を語ろうとしつつも、悪い言葉がつい出てしまう。そういうつもりがなくても傷つけてしまう。そういうことも起きるのです。しかし、だからといって、教会に集うのはもうやめたと言うわけにはいかないのです。パウロはこういう現実があることを、伝道者としてよく知っていました。彼が書いた手紙の中にも、そのような教会の状況に宛てたものがいくつもあります。例えば、コリントの信徒への手紙一1章10節以下には、当時のコリントの教会に、パウロ派、アポロ派、ペトロ派、キリスト派というような対立があったことが記されています。又、フィリピの信徒への手紙4章2節以下には、エボディアという婦人とシンティケという婦人、この二人は共にフィリピの教会の重要な働き手であったと思いますが、互いに対立してしまったことをうかがわせる文章があります。それらの手紙の中で、パウロは心を一つにし、思いを一つにするように勧めています。これは、同じ考えになれということではないでしょう。私共には様々な考えがあるのです。具体的にどうしたらよいかという時に、こうしたらよい、ああしたらよい、色々な考えがある。そしてこの違いが、しばしば対立を生むのです。しかしパウロは、それを何のためにするのか、何故するのか、それはキリストのためではないのか、そのことを確認すればよい。それが神様のため、教会のためであることがお互いに確認されるならば、それは決して深刻な対立にはならない。心を一つにし、思いを一つに出来ると言っているのです。本当にそうだと思う。この一つであることを確認できる道を持っている、それが教会の交わりなのです。
この「怒り」というものは、誰にでも生じるものです。しかし、この怒りを放っておくと、悪魔が働く隙を与えることになると、パウロは言うのです。これは、人間に対する大変鋭い洞察だと思います。怒りを放っておくと、その怒りが澱のように心の底に溜まっていって、どうにも赦せないものにまで固まってしまうのです。赦せなくなる。それが罪を犯すということです。怒りが生じるのは仕方がありません。それは喜んだり、悲しんだりするのと同じです。しかし、それを放っておいて、赦せないものにまでしてはいけない。何故なら、30節の終わりにあるように、私共は主イエス・キリストの御業によって、神様に赦していただいた者だからです。この神様の赦しに与り救われた私共は、何よりも赦す者でなければならないのです。それをさせないようにするのが悪魔、サタンです。このサタンが働く隙を与えない為にはどうするのか。パウロは具体的に語ります。「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」と言うのです。これは日が暮れるまでに赦す、あるいは和解するということでしょう。いつまでも怒ったままでいて、心の底に赦せない固いものを作ってはならないというのです。もちろん、正しい怒りというものもあるでしょう。しかし、それとてもきちんと相手と話し合って、共にキリストの御前に立って、理解し、和解しなければなりません。ここでも大切なことは、話すということでしょう。今の言葉で言えば、コミュニケーションということです。これは人によって、得意だったり、苦手だったりということはあるでしょうけれど、教会においては主にあって真実に語るということにおいて、この怒りも又、乗り超えていかねばならないのでしょう。
ここで私共は、聖霊の働きというものを信頼することが求められます。30節に「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」とあります。聖霊は、私共がキリストを着た者として歩む為に導き、力を与えて下さるのですから、私共が怒りを乗り超えられないのならば、聖霊なる神様を悲しませることになるのです。私共は聖霊の証印を受け、保証を受けているのです。神様のものとされた印を受けているのです。ですから、必ず聖霊なる神様が和解へと導いて下さるのです。このことを私共は信じて良いのです。いや、信じることを求められているのです。この聖霊の守りと導きを信じて、怒りをも制御し、乗り超えていく歩みを為していくのであります。
次に語られているのは、28節「盗んではいけません。」ということです。これは改めて言われなければならないようなことではない、当たり前のことではないかと思われるでしょう。その通り、当たり前のことです。逆に言えば、盗みをした人とか、盗みをしているような人が教会にはいたということでしょう。教会というのは、善男善女の集まりというわけではないのです。文字通りの罪人の集まりだったのです。しかし、そのような者たちが変えられるのです。教会という所は、その人の前歴や過去を問わない所なのです。何故なら、新しく生まれ変わる所だからです。
現在、中国ではキリスト教徒が大変な勢いで増えています。その中国での伝道リポートで、こんな話を聞いたことがあります。あるキリスト者のお肉屋さんの話なのですが、キリストを信じるようになって、店がどんどん繁盛するようになったというのです。その理由は、肉の重さを量るのにごまかさないようになったからだというのです。それまでは、他の肉屋と同じように、少しずつ重さをごまかして売っていた。それが当たり前だと思っていた。しかし、キリストを信じるようになって、それが盗みだと分かった。だから、正直に売るようになった。そうしたら繁盛するようになったというのです。これも又、一つのキリスト者の証しでしょう。不正が当然のように行われている所で、自分は不正をしない。大切なことです。
しかし、ここで告げられているのは、もっと重大なことです。28節の後半です。「労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」と告げるのです。これは、私共の労働の意味を根本から変えてしまうものです。一生懸命働いて、収入を得て、少しでも楽な生活、快適な生活をする。その為に働く。それがいつの時代でも当たり前の考えです。しかし聖書は、私共が一生懸命働いて収入を得るのは、困っている人に分け与える為だというのです。
近代国家はヨーロッパで生まれました。ですから近代国家の予算の組み方や役割というものには、この考え方が反映していると考えて良いと思います。社会福祉というもののベースには、これがあると思います。今は、国や地方自治体がその多くの部分を行っていますので、この分野で教会が果たす所は少なくなっていると思いますけれど、この労働に対しての考え方、理解はきちんと受け継がなければならないと思います。私共キリスト者にとって、労働というものは、単に収入を得て自分の生活の為にする、というだけではないのです。困っている人を助ける為でもあるのです。ここには、富の誘惑から自由になった者の姿があります。私共は、富やお金の神マモンに仕える者ではなく、天地を造られ、それ故、貧しい者も困っている者もその愛の御手の中に置かれる、唯一人の神に仕える者だからです。私共は損得によって動くのではなくて、愛と真実によって動くということなのです。そして、これも又、聖霊なる神様の導きの中で私共の中に確立されていく生き方ということなのです。
キリストによって新しくされた者の共同体、それが教会です。この教会には、新しい言葉、新しい生き方、価値観、そういうものが生み出され、形作られていくのです。そして、そこに新しく集う者を、そのように教育し、整えていく力があるのです。教会が本当にキリストの体として形作られていく中で、そこに集う私共一人一人がキリストを着た者として整えられていく中で、この世界は変えられていくのです。教会には、神様から与えられたそのような使命があるのです。こう言っても良い。この世界が堕落し、愛に冷え、どこにも希望が見出せなくなったとしても、この教会には希望があります。教会には、人間が人間として真実に生きる交わりがあるのです。それが、世の光、地の塩としてのキリストの教会なのです。この教会が真実な教会として、この地にキリストの愛と救いを証しする交わりとして建っていく為に、いよいよ聖霊の導きによる歩みを為してまいりたいと心から願うのであります。
31〜32節を読んで終わります。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」
[2009年1月11日]
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