アドベントの第二の主の日を迎えております。先週の金曜日に市民クリスマスが行われました。今年も市内の教会の合同の聖歌隊によって、メサイアが歌われました。私は初めて、聴く側に回りまして、正面の真ん中の一番良い席で聴かせていただきました。もう何百回と聴いている曲なのに、メサイアとはこういう曲だったのかと、初めて少し分かったような、とても嬉しい時でした。当たり前のことですが、イエス・キリストがお生まれになったことは本当に素晴らしいことであり、神様をほめたたえないではいられない、「ハレルヤ、アーメン」と歌わないではいられない、そういうことなのだと思わされました。メサイアという曲は、全てが聖書の言葉から出来ています。旧約における救い主誕生の預言、イエス・キリストの誕生、そして終末における御子の御支配が、次々と聖書の言葉を歌い上げることによって告げられていくのです。そして最後に、ハレルヤとアーメンの大合唱によって終わる。神様の御業を知らされ、神様の御業に思いを向けた時、私共はハレルヤとアーメンと神様をほめたたえないではいられないということなのでありましょう。私共が毎週ささげております礼拝も又、父・子・聖霊なる神様をほめたたえる頌栄を歌って終わる。それは、そうしないでは終われないからなのだと思うのです。ここには、私共の「信仰の必然」とでもいうべきものがあるのだと思うのです。
今朝与えられております聖書においても、20〜21節においてパウロは神様をほめたたえております。パウロもまた、神様の救いの御業に思いをめぐらしてきた時、どうしても神様をほめたたえないではいられなかったのでしょう。今朝与えられております御言葉において、パウロは祈りをささげているのですけれど、祈りというものは私共の思いを神様に向けることです。祈るということにおいて、神様に思いを向け、神様の御業に思いを巡らしていくならば、私共はどうしても、主なる神様をほめたたえないではいられなくなる。それが、私共の信仰の自然な姿なのでしょう。
祈りといえば、自分の願いを神様に申し上げることだとばかり思っていると、このことはよく分からないかもしれません。もちろん、私共は祈りの中で自分の願いを神様に申し上げて良いのです。しかし、祈る相手である神様をしっかり見つめることがなければ、それは独り言と変わらないことになってしまうでしょう。祈る相手である神様をきちんと見上げる。そうすれば、神様をほめたたえるということにならざるを得ないということなのだと思うのです。
さて、パウロは14節で「わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。」と申します。旧約における普通の祈る時の姿勢は、立ったまま両手を広げて、目を天に上げて祈るというものでした。祈る時の姿勢というものは、特に決まった型のようなものがあるわけではありません。国により、時代により、形は違います。私共の礼拝では、祈る時は座り、讃美歌の時は立ちます。しかし逆に、祈る時は立ち、讃美歌の時は座るという国もあります。手を合わせて祈るのか、合わせ方はどうなのか。目をつぶるのか、開けているのか。それもどちらでも良いことです。求道者の方や洗礼を受けたばかりの方と話しておりますと、この祈る時の姿勢、形はどうすれば良いのかということを聞かれることがよくあるのです。しかし、これが良いという形があるわけではないので、自分が一番自然で落ち着く形で良いでしょうと私は答えています。首を振らないと、体を揺すらないと落ち着かないのなら、そうしたら良いのです。しかし、パウロがここで告げているように、まことに神様の御前にひざまずき、ひれ伏すという思いなくして、神様の御前に祈りをささげることは出来ないだろうと思います。そのことがはっきりしている中で、自分の祈りの形が出来てくるなら、それで良いのです。この祈りの形というものは、祈り続けていく中で身に付いていくものだからです。
続いて15節で言われていることは、この訳ではよく分からないのではないかと思います。口語訳では「天上にあり地上にあって、父と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。」と言っていました。二つを読み比べてみますと、何となく分かるかもしれません。ここでパウロは、父なる神様という方は、天にあり地にある全ての家族の中に父と呼ばれる者がいるが、その父と呼ばれる全ての者はこの方によって名付けられ、この方によってそのありようを定められているのであり、全ての者の父なのだと言おうとしているのでしょう。
父というものは、現代の日本ではあまり権威も力もなくなってきているようです。これも問題だと思いますけれど、聖書が記された時代、父というのは大変な力を持っていたのです。文字通り、家族の全ての人の生き死にを支配していたのです。ローマにおいては、家長である父が、その息子や娘に対して、彼らが何か大きな罪を犯した時、公の裁きを受ける前に、「お前は死なねばならない。」と宣告すれば、それは死なねばならなかったのです。父とは、そのように力を持ち、権威を持っていたのです。私はそれが良いとは思いません。しかし、ここで言われているのは、神様というお方は、そのように全ての人に対して、力と権威とを持って支配しておられるということなのであります。そして、父なる神様が、全ての父と呼ばれる者の源であるとするならば、私共は「父」としての神様の姿を手本として、あるべき姿を整えていかなければならないということなのでありましょう。人間の父の姿から父なる神様をイメージするのではなくて、父なる神様によって私共人間の父は、そのありようを整え変えられていかなければならないということなのであります。では、その父なる神様の特性といいますか、本質と申しますか、それは何であるかと言えば、愛なのであります。私共人間である家族の中で父と呼ばれる者は、何よりも愛において豊かであり、愛において家族一人一人をきちんと立っていけるようにさせなければならないということなのであります。
ここでパウロが父なる神様に向かってエフェソの人々の為に祈っていることは、要約すれば三つのことになるでしょう。第一に、それはエフェソの人々が「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者となる」ということです。これは、口語訳では、「愛に根ざし、愛を基として生活する」となっていましたが、この方が分かりやすいでしょう。第二に、「キリストの愛を知る」ということです。そして、第三に「神様の豊かさにあずかる」ということです。この神の豊かさとは、つまるところ、愛の豊かさということでありましょう。
今、説明する為に私は、第一に、第二に、第三にという言い方をいたしましたけれど、実際の私共の信仰の歩みからいえば、第一に、第二に、第三にというように分けることは出来ないでしょう。愛に根ざし、愛を基として生活することなくして、キリストの愛を知ることは出来ませんし、逆にキリストの愛を知らずに愛を基とした生活をすることは出来ないでしょう。又、キリストにあっての愛の生活と愛を知ることなく、神様の豊かさに与ることなどあり得ないことであります。この三つは、いつでも一つとなって、私共の信仰の歩みを形作っていくものなのであります。こう言っても良いでしょう。この三つは、いつもつながっていて、愛の生活の中で、愛を知り、神様の愛の豊かさに与る。神様の愛の豊かさに与れば、いよいよ愛の生活は確かとなり、その中でいよいよキリストの愛を知らされていく。そのような動きの中で、私共の信仰の歩みは一歩一歩進んでいくということなのでありましょう。
このことを踏まえた上で、順に見てまいりましょう。
第一に「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者となる」ということですが、16〜17節に「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」とあります。私共が愛に根ざし、愛にしっかり立って生活していく為には、「内なる人が強められる」ことと、「心の内にキリストが住む」ことがなければならないというのです。
「内なる人」とは、いわゆる精神面を指しているのではありません。聖書をあまり知らない人は、「外なる人」は肉体、「内なる人」は精神というふうに考えがちですけれど、聖書が語る「内なる人」・「外なる人」とは、そういう意味ではないのです。「内なる人」というのは、信仰によって新しくされた人、もっとはっきり言えば、信仰生活ということなのです。ですから「外なる人」というのは、信仰によって新しくされる前の私、罪人としての私、信仰抜きの生活ということなのです。この「内なる人」が強められる為には、聖霊なる神様によって、神様の力によって強められなければならないのです。私共の信仰生活というものは、私共の努力や力によって強められるものではないのです。もちろん、意識としては、「頑張らなきゃ。」というものはあるでしょう。しかし、その頑張りによって私共の信仰生活は支えられ強められるのではないのです。そうしないではいられないように、不思議なように導かれ、支えられ、強められるのです。それは聖霊の働きによるのです。ためしに、長老や執事をされている方に聞いてみると良いと思います。「毎週、礼拝に集い、教会の為にご奉仕なさって、頑張っておられますね。大変じゃないですか。」「いや、本当に大変なんですよ。」そう答える方は、まずおられないと思うのです。確かに大変だと私も思います。しかし、それをさせているのは、本人の頑張りではないのです。聖霊の働きの中で、守られ、支えられ、導かれ、何とかやらせていただいている。それが実感なのだと思うのです。立派な信仰生活をなさっているように見える人でも、本人としては「たどたどしい歩みをしている」としか思っていない。それは、聖霊なる神さまの助け、守りの中で支えられているということをきちんと受けとめておられるからなのだと思うのです。
この内なる人が強められるということは、実は、キリストがその人の心の中に住んで下さるから起きることなのです。「私の中にキリストが住んで下さっている。」何という光栄でしょうか。このことは、実感するということではないでしょう。しかし、確かなことです。それはこういうことです。私共は、自分の思いや願いよりも、キリストの御心にかなう者として生活したいと思っているのではないでしょうか。実際にそれがどれほど出来ているかということは問題として残るにしても、私共はそう思い、そう願い、祈っている。それは、すでにキリストが私共の中に住んで下さり、御支配し始めて下さっているから、そのような願いが与えられているのです。今朝は寒い朝でした。天気予報は朝方は雪となると言っていた。こんな日は外に出ないで家にいようと思う。ところが、私共はこうして主の日の礼拝へと集まってきたのです。何故か。そうすることが、キリストの御心にかなっているからです。ここに、私共がすでに我が内なるキリストの御支配の中に生きている「しるし」があるのです。
信仰生活が強められ、内なるキリストの御支配に生きる時、私共の生活は必ずキリストの愛に根ざし、キリストの愛にしっかり立つ生活へと整えられていくことになるのであります。もちろん、パウロがそのようになるように祈るということは、まだそのことが完全に実現していないからでしょう。それはそうなのです。私共の罪が、そのように生きることを邪魔するからです。しかし、聖霊によって、必ずこの歩みはいよいよ確かなものへと導かれていくのです。
第二の点に移りましょう。この生活の中で、いよいよはっきり私共に知らされていくこと、それがキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さなのです。キリストの愛は、自分だけに注がれているのではありません。全ての人に向けられています。そのことが分かるのです。キリストが私共を救う為に、どれほど長く忍耐されたか、忍耐され続けているかも知るでしょう。キリストの愛が、どれほど気高いものであるかも知るでしょう。キリストの愛が、どれほど深く私共を包んでいるかも知るでしょう。それは、私の為に十字架におかかりになった程です。
私共は、キリストの御心に従って生活していく中で、いよいよキリストの愛をはっきりと知るようになるのです。信仰の生活とは、キリストに従って生きる生活のことです。この生活なしに、キリストの愛を更に深く、豊かに、はっきり知らされていくということはないのです。私共の信仰というものは、少しも観念的なもの、頭の中だけのものではないのです。信仰とは生活なのです。この生活の中で、いよいよはっきりと知るのです。自らの愚かさ、罪の深さ、心の頑なさ、そういうものをいよいよ知る。しかし、それを知れば知る程、キリストがどれほど私を愛して下さっているのかということも知るのです。キリストに従って生活しようとしなければ、自らの欠け、罪、傲慢さを知ることはないでしょう。これを知ることにより、それにも関わらず赦され、生かされ、愛されていることのありがたさを知るのでありましょう。
そしてそれは、自分だけが知るようになるのではありません。18節に「あなたがたが、すべての聖なる者たちと共に」と言われているように、共に信仰の歩みをしている者が、互いにこのキリストの愛の素晴らしさを知るようになっていくのです。私共一人一人の信仰の生活が強められ、いよいよキリストの愛を知る中で、私共は変えられていく。そこに証しが生まれます。そして、その姿によって、言葉によって、いよいよ人知を超えた神の愛を互いに知るようになるのです。
先日こういう便りが届きました。若いクリスチャン農家の夫婦からの便りです。この夫婦は葡萄畑で生計を立てる為に、7年程前から山を切り開いて、苗木を植え、手入れをしてきました。そして、やっと今年、収穫出来るようになったのです。ところが、少し収穫したところで、クマに全部やられてしまったのです。どれほどの落胆だったでしょう。その夫婦が通っている教会でカンパが集められました。私も協力させていただきました。その礼状が届いたのです。その中に、こういう文章がありました。「熊がブドウを食べてしまって、初めは、悲しさと悔しさ、これからどうしようという気持ちでした。でも、皆様に励ましていただいて、熊も神様の御心だったと、はっきり分かりました。今年はやっとおいしいぶどうが実り、神様に感謝だねーと話していました。しかし、たくさんお客さんが来てくれたり、遠くからでも買いに来てもらったり、おいしいと言ってもらう度に、自分たちでここまでやってきた!!と、どんどん傲慢になってきました。熊のことで、全ては神様の恵みによるものだと立ち帰らせてもらえて、本当によかったです。それだけでなく、兄弟姉妹の皆様の心遣いによって、経済的にも満たされました。神様に対して、感謝と畏れの気持ちになりました。こんな不信仰な私たちを愛して恵みを与えて下さる神様、生きて働いている主をひしひしと感じ、「恵みを信じて歩みなさい。」と励まされました。11月5日に二人目が生まれ、今回のことから、恵信と名付けました。」
この若い夫婦は、生活の糧であるブドウを熊に食べられてしまうという困難を通して、人知をはるかに超える神の愛を知らされたのです。そして、この出来事を通して、経済的に支えた多くの人々にも又、神様が生きて働き、驚くべき愛の御業をもって私共を守り支え導いて下さっていることを知らせたのです。
第三の「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかる」ということは、神様の力、喜び、平安、祝福、命、そして愛という、実に満ちあふれる恵みに私共が与っていくようになるということであります。それらが全て満たされるのは、終末における神の国の完成の時でありましょう。しかし、私共はこの地上の歩みの中で、キリストの愛に基づいて信仰生活を為し、キリストの愛をいよいよ知らされていく中で、それらの神様の恵みの賜物にも、少しずつ与っていく者とされているのであります。
私は、今、一部お読みいたしました若いキリスト者夫婦からの便りをいただいた時、今朝与えられた御言葉通りのことが起きている、そう思わされたのです。そしてこれは、私共全ての者に備えられている道なのです。
ただ今から聖餐に与ります。この聖餐において、私共はキリスト御自身を食べ、自分の中に迎え入れるのです。そして、この方の愛に生きる者として、ここから遣わされていくのです。まことにありがたいことです。
[2008年12月7日]
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