礼拝説教「栄光としての苦難」イザヤ書 52章13節〜53章12節 エフェソの信徒への手紙 3章10〜13節 小堀 康彦牧師 今日からアドベントに入りました。いよいよクリスマスのシーズンに入ったわけです。さっそく今週の水曜日にはアドベント祈祷会が開かれますし、金曜日には市民クリスマスが行われます。主イエス・キリストの御降誕を喜び祝う。それは、この主イエス・キリストというお方によって救われた者、主イエス・キリストによって現れた神様の御計画を知っている者の特権であろうかと思います。私は毎年クリスマスが来るたびに思うことは、このようにクリスマスを喜び祝うことの出来る幸いであります。キリストに救われるまで、私にとりましてクリスマスというものは一年に幾つかあるイベントの一つに過ぎませんでした。世間でクリスマス、クリスマスと騒いでいても、何が嬉しいのか、楽しいのか、少しも分かりませんでした。しかし、主イエスの救いに与ってからは違います。クリスマスは本当に嬉しい、圧倒的に楽しい時となりました。リースを作ったり、クリスマス・カードを作ったり、忙しさは倍増するのですけれど、主イエスがお生まれになり、十字架におかかりになり、復活されて、今日の私がある。そのことを思うと、喜び祝う為に何かをしないではいられなくなるのです。青年会の時代は、クリスマスになると俄然張り切るものですから、「クリスマス男」などと呼ばれたりしていました。クリスマスの様々な行事や習慣というものは、「喜び祝わずにはいられない」という私共の自然な思い、そこから生まれたのだろうと思うのです。このことがはっきりしておりませんと、クリスマスに為される様々な行事や習慣というものが何なのか、よく分からなくなってしまうのだろうと思うのです。クリスマスの喜びとは、自分の救いの喜びであり、神様の救いの御心に触れた喜びに他ならないのであります。
今日与えられております聖書におきまして、パウロはこう語ります。13節です。「あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。」パウロは、主イエスの福音を宣べ伝えて囚人となりました。このことは、パウロによって福音を伝えられた者には、少なからぬショックを与えたであろうことは想像出来ます。自分が知っている人が囚人となったと聞いただけでも驚きであり、その人が何も悪いことをしたわけでもないことを知っていれば、心から同情するでしょう。しかし、エフェソの教会の人々にとっては、パウロが捕らえられたということは、もっと深刻な動揺を与えるものであったと思います。それは、パウロは福音を宣べ伝えて捕らえられたのだから、そのパウロの福音を聞いて信じた自分たちも同じような目に遭うのではないか、という心配もあったかもしれません。そして、もっと重大な動揺は、信仰の動揺ではなかったかと思います。それはこういうことです。パウロは神様に選ばれた伝道者ではないか、だったらどうして神様はパウロが囚人になるのを放っておくのか、パウロを守らなかったのか、というものです。もっとも、パウロは囚人になったといっても、自由に人と会うことも出来るもので、私共がイメージする牢獄に入れられている囚人というのとは少し違っていたようです。しかし、囚人であることには変わりません。この神様の救いを宣べ伝える者が、神様に救われているはずの者が、囚人となるとはどういうことなのか。この感覚は判るでしょう。私共の中にもあると思います。信仰するということは、神様に守られるということを前提としているところがあるでしょう。だから、苦しいこと、困難なことに出会いますと、「神様は私を守ってくださらないのか。こんな信仰は意味がないではないか。無駄ではないか。」そんな呟きが湧いてくるのです。
そして更に言えば、この苦難によって、神のもとにある目標、救いの完成に向かって歩む者を励ますことになるからです。自分の苦しみが、同じ目標である救いの完成へと歩む人々を励ます。これは実に驚くべき、苦難の理解でありましょう。キリスト教は、その人の今ある困難を取り除くことを約束するような宗教ではありません。そうではなくて、その困難の中にあって、なおも生き抜く力を与える宗教なのです。生きる力と勇気とを与えるのです。
何故、キリスト者は苦難の中でも生き生きと喜んで、雄々しく生きることが出来るのか。今日の聖書の箇所に従って三つのことを挙げることが出来ると思います。 キリスト者が苦難の中でも生き生きと喜んで、雄々しく生きることが出来るの第二の理由は、「私共に与えられている救いは、神様の子とされ、神様と和解し、神様に近づけることにあり、この神様との交わりの完成は神の国にあるということを知っているから」です。私共の救いは、この地上の生活において安泰な日々を送るというところにあるのではないのです。このことは、私共が生きる上で、日々の生活の安泰を必要としないということではありません。誰しも病気にはなりたくないし、苦しい目には遭いたくない。当たり前のことです。しかし、私共が求めるものはもっと大きなものです。もっと輝かしい、救いの完成なのです。父なる神様との永遠の交わりであり、キリストに似た者となることであり、何にも破られることのない全き平安です。これは終末における神の国において完成されるものです。私共の信仰の歩は、そこを目指しているのです。苦難の中で、私共は自らが目指しているものが何であるか、いよいよはっきりさせられていくのではないでしょうか。私共の地上の命は、やがて必ず閉じられなければならないのですから。パウロが囚われ人となりながら、喜びと希望の中で目指したものこそ、神の御国でありました。「どうして私はこんな苦しい目にばかり遭うのか。」というつぶやきが湧き上がってくるならば、私共は自分に対してこう答えなければなりません。「信仰において私に約束され、私が求めているものは、神の国における永遠の命である。」
キリスト者が苦難の中でも生き生きと喜んで、雄々しく生きることが出来るの第三の理由は、「神様の永遠の救いの御計画というものがあり、私共はその中で今という時を生かされているということを知っているから」です。私共の救いは、神様の永遠の救いのご計画によるものです。どんな困難、苦難があったとしても、私共はこの確かな神様の救いの御計画の中に生かされているのであって、この御計画は決して破綻することはありません。神様のご計画だからです。この永遠の神様の救いの御計画の故に、全く神様から遠く離れて生きていた私共が、主イエス・キリストに対する信仰を与えられ、洗礼によりキリストと結ばれ、主の日のたびごとにこのように大胆に神様の御前に近づき礼拝する者とされているのであります。天地を造られた神様に向かって「アバ父よ」と呼びまつることが許されものとされているのです。
私共は、生きていく上で困難や苦しみというものと無縁ではあることは出来ません。隣の芝生は良く見えるかもしれませんが、何の困難や苦しみもなく生きている人などいないのです。もしいたとしても、今はたまたまそうだというに過ぎません。しかし、私共はすでに主イエス・キリストというお方の救いに与ったのです。十字架にかかり、三日目に復活された主イエス・キリストと一つに結び合わされた者なのです。そうである以上、私共も又、復活の命が我が身に満ちるようにと歩んでいる者なのです。私共は安心して良いのです。どんな困難も苦しみも、私共を主イエス・キリストの救いから引き離すことは出来ないし、私共への神様の愛を反古にすることなど出来はしないのです。神様の救いのご計画を無しにすることなど決して出来ないのです。 [2008年11月30日] |