富山鹿島町教会

礼拝説教

「小さな者を用いる大きな計画」
ヨナ書 3章1〜10節
エフェソの信徒への手紙 3章1〜9節

小堀 康彦牧師

 ここに一人の男がいます。牢につながれ、囚人となっている男です。名をパウロといいます。彼は主イエス・キリストと出会い、キリスト教徒を迫害する者から、キリストの福音を宣べ伝える者へと変えられた人です。彼はキリストの福音を宣べ伝え、迫害を受ければ次の町へと逃れました。そして、逃れたその町でもキリストの福音を宣べ伝えました。彼は、キリスト教徒を迫害する者から、逆に迫害を受ける者になってしまったのです。そして遂に牢につながれる身となってしまいました。しかし、彼は少しも落ちこんでいません。自分の不幸を嘆いてもいません。それどころか、大いに喜び、誇っているのです。不思議です。しかし、この不思議は私共と無縁ではありません。それどころか、私共も又、この不思議の中に生きるようにと召されているのです。

 人は誰でも、自分の物語を持っています。こういう家に生まれ、こんな町で育ち、学校を出て働き、結婚し、子どもが与えられ……。それは、その人だけの物語であり、大切なものです。そして、その物語はもう少し大きな時代というものによって大きく色づけられるものでもあるでしょう。今の70歳代以上の方々には、先の戦争そして戦後の混乱というものを抜きに自分の物語を語るということは出来ないかもしれません。又、人によっては病気との闘いというものを抜きには語れないということもあるでしょう。あるいは、子どもとの関係を抜きに語れない、仕事を抜きに語れない、いろいろあるだろうと思います。そして、その物語は多くの場合、つらいこと、大変だったこと、苦しかったことに彩られているのではないかと思います。
 私共は、どうでも良いことや楽しかったことは忘れて、つらく苦しかったことだけを覚えているという習性を持っているようなのです。先日、ある牧師の話しを聞きました。その牧師はアレルギー体質だったらしく、小さい時から食べることが出来ないものが多かったそうです。そして、年に何回かじんましんが出て、学校を早退して家に帰ってくると、お父さんもお母さんも仕事に行って誰もいない。かゆくて、苦しくて、たった一人で家にいる。その時の印象が強くて、自分は小さい頃から親に放っておかれた、そう思っていたそうです。もちろんそんなわけはないので、食べられる物が少ない我が子の為に、親は毎日どれだけ気遣っただろうか。年に数日、学校から帰って家に誰もいないことはあっても、それ以外の360日はどうだったのか。それはみんな忘れているのです。もちろん、その牧師は今では自分は親に放っておかれた訳ではないということが分かって、親の愛というものを受け取り直しているのですけれど、私はこの話を聞きながら、人というものは難しいものだと思いました。そして、これが罪というものかと改めて思わされたのです。罪というものは、光を見ないのです。辛いこと、苦しいこと、その闇の方にばかり目がいってしまう。だから、人はみんな不幸なのです。不幸の話をすると大合唱が起きる。このような私共が救われるとすれば、それは大きな光に包まれる以外にないのでしょう。私共が自分の小さな物語の中に捕らわれ、その中にとどまっている限り、私共の中に光はないのだと思います。

 パウロはここで、自分は囚人となっていると言います。しかし、この人生のどん底とでも言うべき状況の中で、彼はなお自分の境遇を嘆いているのではないのです。彼は、喜びと誇りを持って、「私はあなたがたの為にキリスト・イエスの囚人となっている」と告げるのです。ここで大切なことは、パウロは単なる囚人ではなく、自分を「キリスト・イエスの囚人」だと言っているということです。パウロが囚人となったのは、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたからです。主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるということをしなかったのならば、囚人になってしまうこともなかったでしょう。しかし、彼は囚人となってしまった。彼はそのことを少しも後悔していないのです。それどころか、喜び、誇りに思っているのです。
 どうしてでしょうか。それはパウロが、自分の小さな物語がもっと大きな神様の救いの物語の中に組み込まれていることを知っていたからです。3章1節「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。」とありますが、「こういうわけで」というのは、1章2節で語ってきた、神様の救いの御計画、救いの御業の全てを指しているのでしょう。神様は天地創造の前から私共を選び、キリスト・イエスの血によって罪赦され、救われました。そして、神の怒りを受けるべき私共を愛して下さり、異邦人もユダヤ人も一つにされるという平和の中に生きる者とされたのです。このような神様の救いの御計画、救いの御業の故に、私は囚人となった。そうパウロは言うのです。彼は、この神様の救いの御業という大きな光の中で、囚人となっている自分を受けとめているのです。今自分は囚人となっているというパウロの苦しい小さな物語は、神様の救いの御計画という大きな物語、光の物語の中に飲み込まれ、意味を持つものとなっているのです。

 7〜9節を見てみましょう。「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。」パウロは自分を、「福音に仕える者」とされたと言います。この仕える者というのは、口語訳では僕(しもべ)です。彼はこの「福音の僕」とされていることを喜び、誇りとしているのです。彼は、自分が大した者であると思っているのではありません。「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者」、最も小さな者である私に与えられたと言うのです。確かに、パウロは元々はキリスト者を迫害していた者なのですから、ペトロやヨハネといった十二使徒とは比べようがないでしょう。しかし、それも又、パウロに劣等感を抱かせるものではありませんでした。劣等感、これも又、私という小さな物語の中では大きな場所を占めるものの一つでしょう。しかしパウロは自分で、最もつまらない者、最も小さな者と平気で言うことが出来るのです。それは、自分に与えられた福音を告げ知らせる、神様の救いの御計画を説き明かす務めという栄光に比べたら、自分がどんな者であるかということなど、つまらないこと、取るに足らないこと、どうでも良いことだからなのでしょう。
 パウロはここで、神様の救いの御業という大きな物語の光に包まれているのです。ここでこそ、私共の小さな物語は、苦しみ、悲しみ、嘆きという闇に支配されるものから、喜びと栄光と誇りという光に支配されるものとなるのであります。私共は、自分の小さな物語の本当の語り方をまだ知らないのかもしれません。私共は自分の小さな物語を、この神様の救いの御業という大きな物語の1ページとして位置付け、語られなければならないということなのでありましょう。
 来週からアドベントに入ります。アドベントには、アドベント祈祷会が開かれます。婦人会・壮年会・青年会から奨励する方が立てられます。そこで語られる「証し」とは、まさにこのことなのでしょう。「証し」というものは、単なる思い出話をすることではありません。それは小さな物語です。その私の人生に起きた出来事が、どのように神様の救いの御業の現れとなるのか、そのことが告げられなければならないのでしょう。神様は小さな者を用いて、全ての者をキリスト・イエスにあって救うという大きな御業を為されるのです。私共の小さな物語を用いて、神様は大きな物語を綴られていくのです。
 いくつもの集会でも話していることですが、来年は日本の宣教150年という節目の年を迎えます。1859年(安政6年)にヘボン、ブラウン、シモンズが神奈川に、フルベッキ、リギンス、ウィリアムが長崎に、宣教の為に来日したのです。この年は、11月に安政の大獄があった年です。よいですか、たった150年前、この日本には一人のキリスト者もいなかったのです。あれからたったの150年。今、日本の町でキリスト教会が一つもないなどという町はほとんどありません。この富山には、10を超える教会がある。偉大な伝道者によって、この150年間の日本伝道が進められてきたのではありません。もちろん、有能な伝道者、信徒もいたでしょう。しかし、大半は小さな者たちです。その小さな者たちが、神様に用いられ続けてきたのです。それは今も変わりません。教会は高齢化が進んでいる、受洗者も少ない。そんなことばかりが語られる。それは現実として受けとめなければなりません。しかし神様の大きな救いの御業というものは、そんなことで計ることが出来るものではないのです。

 パウロはここで、計画ということを何度も言います。3節「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」4節「キリストによって実現されるこの計画」5節「この計画は」ここで計画と訳されている言葉は、口語訳では「奥義」と訳されていました。ギリシャ語のミステリオンという言葉です。英語のミステリーの語源となった言葉です。これは奥義ですから、なかなか分からない。主イエス・キリストによって異邦人も共に救われるという、神様の大いなる救いの御計画であります。これが、今や明らかになった。そして、自分はそれを知らされた。知らされただけではない。宣べ伝える者とされた。ここにパウロの喜び、誇りがあった。キリスト・イエスによる救いという恵みは、奥義なのです。天地を造られて以来の最も深い真理、神様の御心そのものなのです。私共は、この奥義を知っている。これはまことに大変なことだと言わなければなりません。これは、どうでもよい知識の一つではないのです。これを知ることによって、私共の人生が光に包まれ、生きることの意味と目的が与えられる、まさに奥義と言うべきものなのです。これは神様の奥義でありますが、同時に私共の人生の奥義でもあるのです。私共自身が、闇の支配から光の支配へと移される奥義です。
 キリスト教というものは、数ある生き方や価値観の一つを与えるというような小さなものではありません。神の奥義を知らせ、この神の奥義によって人を新しく生まれ変わらせ、この奥義に人々を参加させるものなのです。パウロが囚われ人となっていながら、なお闇の力に支配されなかった理由はここにあるのです。パウロはこの神の奥義を知っていたからです。私共も知っています。そうである以上、最早この奥義を知らない者のように生きることは出来ないのです。
 150年前に日本に来た宣教師たち、彼らの多くは信徒でした。彼らも又、この奥義を知り、この計り知ることの出来ないキリストの恵みを伝える為に、無事に着けるかどうか分からない船に乗り込み、日本にやって来たのです。

 6節を見ますと、「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」とあります。つまりこのキリストの奥義は、ユダヤ人と異邦人の区別をなくし、共に神の国を受け継ぐ者となり、共に一つの体となり、共に約束に与る者となるということなのです。この日本に、この富山に、私共の隣り人に、私共の愛する者に、この奥義が与えられていかなければなりません。そして、共にこの奥義に与らなければならないのです。
 この奥義は、この6節では「共に」ということが3回繰り返されて告げられているのです。「共に受け継ぎ」「共に体に属し」「共に約束に与る」のです。この奥義は、決して私一人が与れば良いというようなものではないのです。共に与らなければならないものなのです。だから、宣べ伝えるのです。自分が救われ、心が平安であれば良いなどと言うのは、おおよそこの奥義を知った者の信仰のあり方ではありません。この奥義は「共に」与るものなのです。自分だけの救いでよいのならば、どうしてパウロは囚人となったでしょう。それで良いなら、どうしてヘボンは、フルベッキは、ブラウンは日本に来たでしょう。それで良いなら、どうして私は富山に来たでしょう。この奥義とは、異邦人が、つまり全ての人が、私共が出会う全ての人が、キリスト・イエスの福音において、共に神の国を受け継ぎ、共に一つの体となり、共に約束に与る者となるというものなのです。この大いなる神様の救いの御業に仕える為に、まことに取るに足りない私共一人一人が召されたのです。ここに、私共の喜び、私共の栄光、私共の誇りがあるのです。

[2008年11月23日]

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