富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の家族、聖なる神殿となる」
エズラ記 3章8〜13節
エフェソの信徒への手紙 2章14〜22節

小堀 康彦牧師

 私共は、今朝もこのように一つ所に集まり、礼拝をささげております。この六日間、全く違う所で生活していた私共です。ほとんどの人とは、この六日間、顔を合わせなかったでしょう。全く違う場所で、全く違う営みをしていた。仕事も違えば、環境も違います。その全く違う者たちが今、一つ所に集められ、ただ一人の神様に向かって礼拝をささげています。いえ、この教会だけのことではありません。今朝、世界中で何億という人が、主の日の礼拝をささげているのです。国も違えば、言葉も違います。置かれている状況も、政治的立場も違うのでしょう。しかし今、父・子・聖霊なるただ一人の神様に向かって礼拝をささげている。何億という人が礼拝している。これは実に驚くべきことであります。国という枠を超え、民族という垣根を超え、言葉や文化という隔たりを超えて今、何億という人々が一つになっているのです。そしてこのことは、日曜日のたびごとに繰り返されていることなのです。これは驚くべきことではないでしょうか。
 主イエス・キリストは自らの十字架の血潮によって、ユダヤ人と異邦人との間の隔ての壁を打ち壊されました。そしてこの二つを、御自分の体である教会において一つとされました。この一つとされたということが最も具体的な形で現れる場、それがこの礼拝なのです。この礼拝において、私共はまず沈黙します。自分の主張、自分の考え、自分の好み、自分の立場、そのようなものを口にしません。ただ神の言葉の前にひれ伏します。そして、父・子・聖霊なる神様をほめたたえます。ここに平和があるのです。

 18節「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」とあります。私共は、この父なる神様に近づき礼拝をささげる時、お互いがキリストの霊によって一つに結ばれていることを知るのです。主イエス・キリストは十字架にかかり、三日目によみがえり、天に昇られました。そして、御自身の霊、聖霊を私共に与えて下さいました。私共は、この聖霊を与えられることによってキリストを信じる者とされたのであり、この聖霊を与えられることによって神様の言葉の前に沈黙して聞く者とされたのであり、この聖霊によってキリストと共に生き、キリストに従う者とされたのであります。
 私共に与えられた信仰というものは、自分の生き方、考え方の一つというようなものではないのです。私共の信仰がそのようなものであるとするならば、私共は決して一つに結ばれることは出来ないでしょう。人は皆違うのです。環境も立場も考え方も違うのです。信仰というものは、私共の生き方や考え方も生み出しますけれど、何よりも聖霊の導きの中で父・子・聖霊なる神様を拝むということなのであります。この信仰は、私共の内側から湧き上がってくるようなものではありません。信仰は、私共の外から、神様の側からやって来るのです。聖霊によって与えられるものなのであります。だから私共は、国や民族や言語を超えて一つとなって、日曜日のたびごとに世界中で礼拝をささげることが出来るのです。

 さて、この聖霊なる神様によって一つとされた私共を、今朝与えられた聖書は三つの言葉で言い表しています。一つは「聖なる民に属する者」、もう一つは「神の家族」、そして「聖なる神殿」です。この三つは、キリストの教会という同じものを指しているのですが、一つずつ見ていきましょう。
 第一に「聖なる民に属する者」ということですが、これは別の言い方をすれば「神の民」ということです。「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもない」と言われています。外国人や寄留者というのは、その国の法律によって守られるということがありません。そこに住んではいても、本当の恩恵を受けることが出来ない、周辺的存在ということでしょう。しかし、あなたがたはそうではない。神様の恩恵を十分に受ける者となったというのです。
 この「聖なる民」という言葉で思い起こすのは、出エジプト記19章6節「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」という言葉です。イスラエルがモーセに率いられて出エジプトをし、シナイ山において十戒による契約を結ぶ直前の言葉です。イスラエルは、神様と契約を結んだのですが、それによって何が起きたかというと、「聖なる民」となったということです。この「聖なる民」というのは、何もイスラエルが潔く正しい民になったということではありません。聖書において「聖なる方」は神様しかいないのであって、「聖なる民」というのは、聖なる神様のものとされた民ということなのです。つまり、「神の民」ということです。旧約における「神の民」とはイスラエルのことでありました。しかし、主イエス・キリストの救いの御業によって、その民族的枠は壊され、ただ聖霊の導きによって、キリストを信じる全ての者へと広げられたのです。そして、私共も又、聖なる民、神の民に属する者となったのであります。
 この神の民に属する者となったということは、神様との親しい交わりを与えられるようになったということでありますけれど、ここには旧約の民が「十戒」という律法を与えられたことからも分かりますように、ただ良かった良かったというだけでは済まないことを含んでいるのです。それが、使命ということです。神の民には神の民としての使命があるのです。神様は、私共にその使命を果たさせる為に、神の民へと召して下さり、救って下さったということなのであります。私は、このことをきちんと受けとめなければいけないと思っています。このことについては、後でお話しします。

 第二に「神の家族」です。これは、神様に対して、「父よ」と呼び奉ることが出来る者とされたということでありましょう。同じ一人の神を父と呼べるのでありますから、まさに「神の家族」であります。しかし、家族であるということは、皆が一人一人父なる神様と結びついているだけではないでしょう。勿論、このことが何よりも大切であることは言うまでもありません。しかし、それだけではない。家族ということは、お互いが兄弟姉妹とされているということでもあるのです。この兄弟姉妹としての交わりがなければ、ただ名前だけの家族ということになってしまうのではないでしょうか。この手紙が書かれた時は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間に深刻な対立があったわけです。パウロはここで、それは神の家族としてふさわしくないことだと言っているのでしょう。そして、それは私共においても同じことであります。

 第三に「聖なる神殿」ということです。私共は互いに組み合わされていって、聖なる神殿となるのです。互いに組み合わされる為には、ごつごつした所も削られていかなければならないということでしょう。「キリストにおいて、組み合わされる」のですから、キリストによって削られ、寸法に合わせられていくということが起きるのでしょう。個性は大切ですけれど、それはキリストにあっての個性です。キリストを愛し、キリストにお仕えする中で、私共は変えられていかなければならないのであります。そうでないと、互いに組み合わされるということが起きないからであります。私共は、そのままで神様に愛され、赦され、神の子とされました。しかし、いつまでもそのままではないのです。聖なる民に属した者として、神の家族の一員として、一人一人変えられていくのです。私共は、わがままな自分のままで良いのだ、そんなところに胡座をかいているわけにはいかない。それでは、キリストの十字架を無駄にしてしまうからです。
 この私共が互いに組み合わされて建て上げられていく建物は、丈夫にしっかり建っていれば何でもいいというのではないのです。この建物には目的がある。使われ様があるのです。この建物は神殿なのです。神殿というのは、神様の住まいということです。つまり、神様がここにおられるということが明らかになるというあり方で建てられていかねばならないということなのであります。ここで思い起こすのは、コリントの信徒への手紙一14章24〜25節です。「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人が、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」これは、私共の目指す礼拝の姿としてしばしば引用される所です。私共が組み合わされるというのは、このような礼拝を形成することとなるのです。しかし、これはただ礼拝のことだけではないでしょう。信者ではない人、キリストを知らない人がここに来たならば、自らの罪を知らされ、ひれ伏して神を礼拝するようになる。「まことに、神はあなたがたの内におられます」との告白へと導かれる。こういうことが起きる。これこそ、私共が神の住まい、神の神殿として、組み合わされ建て上げられていくということなのであります。
 この建物は、私共がキリストによって組み合わされた交わりです。これが教会であります。そして、この土台は使徒や預言者であり、この石を取り除いたら全てが崩れてしまうというかなめの石は、主イエス・キリスト御自身なのであります。教会は、主イエス・キリストというお方の救いの御業・十字架・復活・昇天・聖霊降臨という出来事によって生まれたのです。この方を横に置いたところでいくら仲良しになっても、それは決して神殿とはなりません。教会は、この主イエス・キリストというお方によって、そして、その方の救いを宣べ伝えた使徒や預言者(この預言者というのは、使徒と同じ時代に伝道者として立てられていた人を指していると考えられます)、彼らの教えによって立っているのです。主イエス・キリストを取り除いて教会は建たないように、使徒たちの教えを取り除いてしまっては、やはり教会とはならないのです。第一、新約聖書そのものが、使徒たちが記したものです。使徒や預言者という土台ということは、聖書という土台と言い換えても良いと思います。これを抜いてしまったら、それは単なる人の集まりに過ぎませんし、私共が選ばれ、召された神様の御心にかなわないことであることは明らかでありましょう。

 さて、先程、聖なる民に属する者とされた、神の民とされた私共には、使命があると申しました。その使命というのは、この神の住まいである神殿というキリストの教会を、御心にかなったものとして建て上げていくということなのであります。この聖書の言葉で言えば、21節「この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」とあるように、この教会が成長していく為に仕えるということなのであります。もちろん、この教会が成長するというのは、数が増えれば良いというものではないことは明らかです。この教会が、神様の住まいとして成長するということであります。全ての人に向かって、ここに神様がおられますということが明らかになるような存在になっていくということであります。その為にお仕えするのです。それが私共の使命なのです。それは、主の福音を宣べ伝えていくということでもありましょう。キリストにあっての愛の交わりを形作っていくということでもあるでしょう。そして何よりも、この礼拝において、沈黙して神様の言葉に聞き従うということなのでありましょう。
 ここで大切なことは、これらのことは独りでするものではないということです。22節「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」とありますように、一人一人にキリストが宿り、神殿となるというだけではなくて、この組み合わされ共に建てられる教会という交わり、神の家族という交わりにおいて、神様の御臨在が現れるということなのであります。まさに神様が共におられるとしか言いようのない交わりが、ここに建てられていくということなのであります。この交わりにおいてこそ、主イエス・キリストがお語りになった最も大切な教え、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」(ルカによる福音書10章27節)が全うされていくのであります。そしてこのことにより、神がここにおられるということが明らかになっていくのであります。
 教会というものは、キリストというかなめ石により、使徒・預言者という土台によって建てられておりますが、まだ完成されてはいません。完成するのは終末の時です。ですから、全ての教会はみな完成への途上にあるのです。私共の教会もそうですです。そうである以上、欠けはあるです。しかし、このキリストの教会という存在は、常に完成に向かって建て上げられ続けているのです。新しい民を加え続け、常に新しく組み合わされ続けているのです。良いですか皆さん、どんなに欠けがある教会でも、崩壊に向かって進んでいるのではないのです。何故なら、その全ての営みを導かれているのは、聖霊なる神様御自身だからです。教会は私共の努力によって建ったり倒れたりするようなものではないのです。ただ求められていることは、この聖霊の導きに従うこと、御言葉に聞き従うことです。自分を土台とせず、キリストを、聖書を土台とするということです。キリストにお仕えし、教会にお仕えするということです。そこにこそ、キリストによって新しくされた私共の、新しい歩みがあるからです。
 この一週も、互いに心を一つにして、与えられた場において、キリストにお仕えしてまいりましょう。キリストの福音の光を放つ為に。それが私共の使命なのですから。 

[2008年11月16日]

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