富山鹿島町教会

礼拝説教

「死から命へ」
詩編 111編1〜10節
エフェソの信徒への手紙 2章1〜6節

小堀 康彦牧師

 使徒パウロは、エフェソの教会の人々に向かって、こう語りかけます。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」(2章1節)強烈な言葉です。「あなたがたは以前は死んでいたのだ」と言うのです。以前というのは、主イエス・キリストによって救われる前ということです。つまり、パウロはエフェソの教会の人々に対して、主イエスに出会い救われるまでは死んでいたけれど、今は死んでいない。主イエスによって救われて、生きる者となった。そう言っているのです。しかもパウロは、3節において、自分たちもそうであった。そう言うのです。パウロは、自分だけ偉そうにして、上から「お前たちは以前は死んでいた」と言っているのではないのです。パウロは、テモテへの手紙一1章15節において、「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」と言っています。自分は罪人ではないなどとは、考えたこともないのです。パウロはここで、私もあなたがたも、以前は死んでいた。しかし今は、私もあなたがたも、生きる者となっている。何という幸い、何という喜び。まことにありがたいことだ。そう告げているのであります。

 しかし、それにしても「以前は死んでいた」というのは言い過ぎではないでしょうか。主イエスの救いに与る前であっても、私共は泣いたり笑ったり、一生懸命働いたり、その時その時を懸命に生きていたのではないでしょうか。それを「死んでいた」と言い切られたのでは、あの時の自分の人生は何だったのでしょうか。まったく無意味なものだったのでしょうか。これは実に重大な問題であります。主イエスによって救われたとはどういうことなのか。救われる前の過ちと罪の中にいたとはどういうことなのか。それが、この「以前は死んでいた」という一句に言い表されているからです。よくよく考えてみなければなりません。
 まず、「以前は死んでいた」ということを、パウロは「自分の過ちと罪のために」と言っています。この「過ち」という言葉は、ギリシャ語でπαραπτωμα(パラプトーマ)という言葉ですが、これは「道を踏み外す」「落ちる」という意味の言葉です。そして「罪」というのは αμαρτια(ハマルティア)という言葉ですが、これは的に向かって矢を射るけれども「それる」「的を外す」という意味の言葉です。つまり、主イエスに救われるまでの私共は、本来のあるべき姿から道を踏み外して、あるべき姿に向かっていない、そういう状態にあったと、パウロはここで告げているのです。私共は過ちや罪といいますと、すぐに犯罪とか、人を傷つけるとか、不品行とか、そのよういったことを考えますけれど、それだけのことではないのです。もっと深い、私共の存在の有り様そのもの、私共の根本が問題なのです。私共の過ち・罪というものは、その根本において、私共がその「本来あるべき姿」から外れているということなのであり、目に見えて分かりやすい過ち・罪もまたそこから生じるものなのです。
 では、私共の「あるべき姿」とは何なのか。それは、神様の似姿に造られた者として、天地を造られた神様を愛し、この方を拝み、この方の戒めを守り、この方との生き生きとした交わりの中に生きることであります。この方の栄光を求め、自らの栄光を少しも求めず、この方にお仕えして生きることであります。ここまで言えば誰でも、自分はあるべき姿を見失い、道を踏み外し、方向違いをしていたと言わざるを得ないでしょう。しかし、だからといって、本当にその自分の過ちや罪を悔いることが出来るかといえば、ことはそれほど簡単ではありません。何故なら、そのような方向違いが自分にあったとしても、自分だけが間違っているわけではないからです。「赤信号みんなで渡ればこわくない」ということでしょう。この罪の問題は、人と比べている限り、本当の深刻さは決して分からないのだろうと思います。皆同じじゃないかとか、あの人に比べればそれ程悪くないとか、そういうところから私共はなかなか抜け出せないからです。ただ、神様の御前に立つ時、私共は初めて、自らの罪の姿を知らされるのでしょう。

 パウロにしても、エフェソの教会の人々にしても、始めから自分の罪を知っていたわけではないのです。パウロは、キリスト者を迫害している時でさえ、自分は正しいことをしているのであって、罪を犯しているとは考えていなかったのです。エフェソの教会の人々にしても、主イエスと出会って救われるまで、自分が罪の中にいる。それはすでに死んでいることだ。そんなことは考えてもいなかったはずです。ただ、心の欲するままに、肉の欲に引きずられて生きていた。その時、それが罪であるとは考えたこともなかったはずなのです。周りのみんながそうなのですから、そういう中で自分の罪に気付くなどということは起きないのであります。
 このような状態を、パウロは2節で、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」と言っているのです。少し分かりにくいかもしれません。ここには、様々な霊力がこの世の中にはいつも働いていて、その支配の中で、人は罪の奴隷となっているという理解があるのです。「この世を支配する者」というところは、口語訳では「この世のならわしに従い」と訳しておりました。つまり、この世の考え方とか価値観とか、その時代の当たり前とされていることとか、そういうものの背後には、神様に従わない、従わせない悪しき霊が働きがあり、その霊のもとで人は罪と過ちを犯して生きているとパウロは指摘しているのです。
 私は、この罪の現実に対する洞察は深いと思います。私共は何でも自分で考え、自分で決め、自由に生きていると思っていますけれど、案外その時代の常識とか考え方といったものに支配されているのだと思うのです。例えば、先の大戦の最中に、戦争は罪であり過ちであると確信を持つことが出来た人がどれほどいたでしょうか。あるいは、その後の米ソの冷戦の時代、ソ連や北朝鮮はこの世の楽園だと考えた日本人は少なくなかったはずです。そんな大きな事ではなくても、この日本に生まれ育てば、お地蔵さんに手を合わせ、初詣をし、仏滅には結婚式を挙げず、子どもに名前を付ける時には画数を調べ、車にはお守りを下げる、それが当たり前なのでしょう。しかし、これらは全て、天地を造られた神様に従おうとしない霊の産物なのです。しかし、私共はそんなことを知らずに歩んでいたのでしょう。これが罪なのです。しかし、実に巧妙にそれとは気付かないように仕組まれているのです。
 そのような罪の現実を見据えた上で、パウロは3節で、自分もそうだったと告げているのです。3節「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」ここでパウロは「肉の欲望」とか「肉や心の欲するまま」と言っておりますが、この「肉」というのは、パウロがこの言葉を使う場合には「霊」との対比で用いられるのです。「肉の欲」というのは、食欲とか性欲とか、そういうものだけを示しているのではなくて、神様の栄光を求めず、自分のことしか考えない欲のこと全てを指しているのです。物欲、名誉欲から、自己保身、好き嫌いだけで何でも決めようとする心、そういうものまで含んでいるのです。そういうものに支配され、それを満足させる為に生きていた。パウロは、自分もそうだったし、それは生まれながらにして神の怒りを受けるべき者であったと告白しているのです。まことにどうしようもない、神様なんか関係ない、目に見えるものにしか心が向かない、そういう人間であった。皆がそうだったではないかと、パウロは自分を含めてそうであったと言っているのです。例外はないのです。ある牧師が、こう言っていたことを思い出します。「人は皆違う。才能も生まれも育ちも性格も容姿も、何一つ同じものはない。しかし、罪人であるというこの一点においては、皆同じである。」本当にそうだと思う。この罪人であるということは、あの人は良い人だ、悪い人だ、そんなレベルの話ではないのです。自分を造り、支え、導いて下さっている神様なんて知らない、関係ない。そう思って生きてきた、私共の有り様の根本を指しているのです。

 ところが、そのように生きていた私共を、神様はお見捨てにならず、愛して下さり、救って下さった。それは具体的に言えば、神の独り子イエス・キリストを私共に与えて下さり、私共の為に、私共に代わって十字架におかけになり、一切の罪を赦して下さったのです。このキリストに、神様の愛が現れたのです。パウロもエフェソの教会の人々も、そして私共も、このキリストを信じました。そのことによって何が起きたのか。主イエス・キリストと一体とされるということが起きたのです。それが救われるということなのです。キリストは十字架におかかりになり、三日目に復活されました。キリストと一体とされた私共は、その復活のキリストと共に復活したのです。罪の中に死んでいた私共が、キリストと共に生きる者となったということは、復活したということです。復活しなければ、死んだ者が生きることにはならないでしょう。そして、キリストが天に昇り、父なる神様の右に座することにより、私共も又キリストと一体となり、天の王座につかせて下さったのです。この天地を創られ、永遠に生き給う、父なる神様の独り子である主イエス・キリストと一体とされることにより、私共も又、神様の命、永遠の命に与る者になったのです。この命は、肉体の死によって終わることのない命です。主イエス・キリストと出会うまで、主イエス・キリストの救いに与るまで、私共はそのような命があることも知らず、ただ目の前の目に見えるものばかりを追いかけておりました。それは肉体の死によって終わるしかない命であり、死に定められていた日々でありました。それはちょうど、死刑囚がいつ来るか分からない処刑の日を待っているような状態です。だからパウロは、「死んでいた」と言うのです。永遠を知らず、どこに向かっているのかも知らず、ただその日その日を過ごしているに過ぎない日々。それをパウロは「すでに死んでいた」と言ったのです。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマの信徒への手紙6章23節)本人が自覚していようとしていまいと、罪は私共を死へと、永遠の滅びへと連れて行くのです。これから逃れることは出来ません。

 しかし、今や私共はそうではありません。神様に造られた本来の姿を知らされ、神様と共に永遠の命に生きる希望を与えられ、諸々の霊力から解き放たれ、神様の自由の中を生きる者とされたのです。何という幸い、何という恵み。私共は、この救いに与る為に、何もしませんでした。いや、何も出来ませんでした。ただ、神様が私共の為に主イエス・キリストを送って下さり、救いへの道を拓いて下さり、私共をそこへと召し出して下さったのです。私共は、ただその召しに応えただけです。実に「私共が救われたのは恵によるのです。」(5節b)
 私共は皆、神様を知らず、罪人であることも知らず、死に向かって歩んでおりました。そのような私共を、神様は召し出して下さった。私共は確かに、自分で教会の門をたたいたのかもしれません。自分で選んで、自分で決断して、この教会の門をくぐったのかもしれません。しかし、私共はこの教会に何があるのかを知っていたわけではないでしょう。何となく、ここに来れば何かがあると思った。それが正直なところではないでしょうか。そこにすでに神様の召し、神様の導きがあったのです。神様が私共を呼んで下さったから、私共は今ここにいることになったのです。
 人は罪の中を歩んでいる時、多くの場合自らの罪に気付くことはありません。しかし、何かのきっかけで、自分の人生は本当にこれでいいのかという問いが生まれることがあります。それは、少しも明確な問いではありません。淡い、ぼんやりした問いです。この問いが生じる時は、人によって全く違うでしょう。友人や愛する者の死であったり、病気であったり、特別に何かがあったわけでもない人もいるでしょう。しかし、この問いの背後には、私は神様が働いて下さっているのであり、神様が私共を呼び、私共を招いて下さっているのだと思うのです。私共は、この問いと共に教会の門を叩き、主イエス・キリストとの出会いへと導かれてきたのではないでしょうか。
 この主イエス・キリストというお方と出会った時、私共は自分が本当に罪人であることを知りました。キリストの光に照らされなければ、私共は自分が罪人であることも、本当のところでは分からないのでしょう。主イエスと出会い、神様がどんなに自分を愛して下さっているかを知った時、自分がどれほど神様から離れ、神様に敵対し、的外れな人生を歩んでいたかを知ったのです。そして、今まで自分が求めていたものがいかにつまらないものであり、本当に大切なものが何であるかをはっきりと知らされたのです。
 これは、親子の関係と似ています。私共は、自分が親に愛され、どんなに大切にされているのか、子どもの頃は判りません。しかし大人になり、自分でも子を持つようになり、どんなに自分が親に愛されていたか、どれほど心を使い、時間を使い、嫌な顔一ツせずに労苦を担ってくれていたかを知るのでしょう。そしてその時、自分がどんなに親に対して感謝知らずの者であったか、親を愛していなかったか、愚かな者であったかを知るのでしょう。私共は、愛というものをきちんと受け取れたとき、心から感謝を捧げることが出来たとき、それまでの自分がいかに感謝知らずであったか、自らの愚かさ、罪を知るのでしょう。
 ここで起きるのが回心なのです。悔い改めが起きるのです。回心とは、文字通り、心が回転することです。方向違いをしていた方向が正されることです。神様に向かって、神様の御前に生きる者となるということであります。闇の中から光の中へと歩み出すということです。自らの栄光を求めず、ただ神の栄光を求め、何よりも神様をほめたたえ、神様にお仕えすることを喜びとする者となるということであります。

 もちろん、私共はすでに完全にそのような者になったわけではないでしょう。なお、諸々の悪しき霊との戦いはあるのです。自らの中にふつふつと湧いてくる罪との戦いがなくなったわけではありません。しかし、もうすでに私共は神の国に向かっての歩みを始めているのです。まことの命の主であられる、主イエス・キリストと一体とされているのです。私共はそのことを信じ、そのことを心に新しく刻む為に、聖餐に与るのです。サタンは、悪しき霊は賢いのです。彼らは私共にこうささやきます。「どこが新しくなったというのだ。昔と同じじゃないか。さあ、神様なんか放っておいて、肉の欲を満たそうじゃないか。どうせ死んだらおしまいさ。」このようにささやきかけてくる悪しき霊どもに対して、私共は断固こう告げなければなりません。「サタンよ退け。お前の時代は終わった。私はキリストのものだ。神の子だ。天の御国、永遠の命へと招かれている者なのだ。その証拠に、キリストの肉とキリストの血潮に、キリストの命に、私は与っている。最早お前は、私に指一本触れることさえ出来はしない。」このように戦いつつ、父なる神様に、守りと支えと導きとを祈り、死から命へと方向転換した新しい道を、この一週も歩んでまいりたいと心から願うのであります。

[2008年11月2日]

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