富山鹿島町教会

礼拝説教

「キリストの霊を注がれて」
民数記 9章15〜23節
コリントの信徒への手紙一 12章4〜11節

小堀 康彦牧師

 聖書には、神の民についてのいくつかのイメージがあります。その代表的なものとして、「旅する民」というものがあります。神の民の最初の人となったアブラハムは、神様の召命を受けて、故郷を離れ、神様が示す地へと旅立ちました。又、その孫である、イスラエルという名が与えられたヤコブも、その生涯は旅から旅へというものでありました。そして、主イエスとその弟子たちも、ガリラヤからエルサレムへの旅の途中での出来事が福音書に記されておりますし、主イエスの福音を宣べ伝えたパウロも又、伝道の旅に終始しました。しかし、何よりも神の民の歩みが、神様が与えて下さった約束の地への旅であることを明確に示しているのは、出エジプトの出来事でありましょう。神様との契約をシナイ山で結び、十戒を与えられた、あの奴隷の地エジプトからモーセに率いられての、出エジプトの荒野の四十年の旅。これこそ、神の民とは旅する民であることを、私共に最も明確に示しております。
 今、民数記9章15節以下をお読みいたしました。ここには、旧約以来の神の民の姿が明確に示されております。神の民というものは、神様の御臨在のもと、神様の御命令に従って歩むものなのであります。ここで雲によって示されているのは、神様の御臨在であり、神様の御命令であります。神の民は、自分が行きたい時に出発し、とどまりたい時にとどまったのではないのです。出発するもとどまるも、神様の命ずるままに歩んだのです。自分の都合で、出発したりとどまったりしたのではないのです。ただ御臨在される神様の御命令に従ったのです。神の民の主は、神様だからであります。そもそも、出エジプトの旅そのものが、神様によって企てられた旅でした。もちろん、エジプトにおけるイスラエルの民の嘆きの声が天に達したからでありますけれど、モーセを立て、モーセに率いられてエジプトを脱出し、カナンの地まで導く旅を与えられたのは、神様ご自身でありました。私共もそうです。自らの罪を知らず、それ故おのが腹を神としていた私共が、主イエス・キリストの十字架の救いに与り、神の子とされました。そして、それぞれの場から、この教会へと呼び出され、共に神の国への旅をする者となりました。この神の国への旅を、私共に、そしてこの教会に与えられたのは神様です。神様だけが、この旅をゴールに導くことが出来るのですし、この旅を終わりにすることも出来るのです。私共は、自分達がこの神様の導きの中で歩む民であるということを、よくよく心に刻んでおかなければなりません。私共は神様の御支配のもとに歩む群れなのであり、神様の主権に服する民なのであります。これは、「何でもみんなで話し合ってやっていきましょう」というのとは、少し違うのです。神の民は、皆で話し合って、出発したりと留まったりするのを決めたのではないのです。長く留まらなければならないときもあれば、すぐに出発しなければならないときもあったのです。その時を自分で決めたのではなくて、神様の御臨在を示す雲によって導かれたのです。神の民は、どこまでも神様に従っていくのです。
 私は何も話し合いが必要でないと言っているのではありません。皆で話し合い、教会全体で合意を形成していくことは大切であり、それなしでは教会は何も出来ないでしょう。しかし、その話し合いというのは、何をどうすることが神様に忠実にお従いすることになるのか、ただそのことの為に為されるものであるということなのであります。どうするのが自分達に都合がよいかということを話し合うのではないのです。堅固な教会とは、そのことをよくわきまえている教会のことでしょう。自分たちが、神の国に向かって、神様の御支配のもとで旅をしている神の民であるということをよくわきまえている教会です。自分がどこに向かって歩んでいるのかを明確に自覚し、それ故に、従うべき方をはっきりと知っている群れ、それが堅固な教会なのです。

 私共は、一人で旅をしているのではないのです。それぞれが神の民の一員として、一緒に神の国に向かって旅をしているのです。その旅のなくてはならぬ糧、それが主の日の礼拝の度ごとの、聞く御言葉である説教と、見える御言葉としての聖餐なのです。この説教と聖餐に与り、そこで告げられる神の言葉に従って、私共は共に御国への旅を続けていくのです。
 私は、最近になって、ようやくこの御国への旅人の群れということが少し分かってきました。それこそが、神様の御前で忘れられることのないことだからです。そして、一週間のこの歩みの重さを受け取る所、この一週間がまがりなりにも神の国への旅であったことを知り、新しい一週間の旅へと歩み出す所、それがこの主の日の礼拝なのです。
 さて、この神の民には、様々な人がいます。生い立ち、性格、生活環境、能力、年齢、みんなバラバラです。神の民というものは、旧約以来、ずっとそうなのです。共通しているのは信仰。それしかありません。ですから、信仰以外の所で結びつこうとしても、それはなかなか難しいのです。よしんば結びついたとしても、それはまことに危うい関係でしかありません。何故なら、私共は気が変わるからです。ほんの一言、ほんの小さな出来事で、その関係は傷つくのです。そのようなことは、教会の内でも起きることなのです。しかし、教会の交わりというものは、そのようなものによってダメになったり、壊れたりはしません。教会における交わりというものは、信仰による交わりだからです。この信仰による交わりということが分かった時、私共の交わりは本当に堅固で麗しいものとなるのでしょう。
 だったら信仰による交わりとは何でしょうか。それは、同じ神様を信じ、拝んでいる者の交わりということであります。そしてそれは、御国への同じ旅をしている神の民であるということであります。そして何よりもその交わりは、聖霊なる神様が臨んでおられる交わりであるということであります。だから麗しいのです。好きとか嫌いとか、気が合うとか合わないとかで結びついているのではないのです。聖霊に導かれた、同じ御国への旅人の交わりなのです。もっと言えば、神の家族なのです。同じ御言葉に養われ、同じ御言葉を食べ、同じ食卓に着いている神の家族なのです。
 家族の中には、同じ人はいないでしょう。お父さんもお母さんも、長男も次男も、長女も末っ子も、おじいさんもおばあさんも、みんな役割も違いますし、出来ることも違う。家族は、みんないつでも仲が良いわけじゃない。気が合うわけでもない。私など三男の末子ですから、兄から大変な可愛がられ方をしました。兄は遊んでからかっているつもりでも、私は途中から泣くしかない。兄弟喧嘩というのは、時には激しいものになるものです。しかし、みんな大切な一人一人なのです。あなたなんていない方がいい。そんな人は一人もいないのです。
 神の家族は、信仰を与えられ、「イエスは主なり」と告白し、洗礼によって新しく神の子として生まれた者たちです。この信仰は、私共に聖霊が注がれた確かなしるしです。今日お読みしたコリントの信徒への手紙一の直前の所に、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(3節)と告げられている通りです。

 神の民には、聖霊が注がれているのです。今朝与えられている御言葉の、コリントの信徒への手紙一12章8〜10節を見ますと、その聖霊の賜物として、「知恵の言葉」「知識の言葉」「信仰」「病気をいやす力」「奇跡を行う力」「預言する力」「霊を見分ける力」「異言を語る力」「異言を解釈する力」が挙げられています。これらの賜物は、全て同じ聖霊によって与えられたものであると告げられています。このようなリストを見ますと、自分には聖霊の賜物が与えられていないのではないかと考える人がいるかもしれません。自分には取り立てて言えるような賜物は何も無い。そう思う方もおられるでしょう。今、この一つ一つについて見ることはいたしませんけれど、ここに挙げられているのは、当時のコリントの教会において普通に為されていたことであったと思います。パウロはここで、人が見たこともないものを挙げているわけではないのです。又、ここに挙げられているものは、聖霊の賜物の全てでもありません。ローマの信徒への手紙12章6〜8節には、預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善の七つが挙げられています。この二つのリストは、完全に一致しているわけではありません。聖霊の賜物には、色々あるのです。私は、このリストの中に、現在のこの教会で普通に為されていることを加えることが出来るし、そのように読んで良いと思っています。教会で普通に為されていることは、全て聖霊なる神さまの導きの中で、聖霊の賜物を用いて為されていることだからです。例えば、ここのリストには礼拝の奏楽の賜物は出て来ませんけれど、これが聖霊の賜物であることは言うまでもないでしょう。あるいは、教会学校の奉仕もそうでしょうし、お掃除だって、家庭集会を開くことだって、みんなそうなのです。
 ここで大切なのは、7節です。「一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」とあります。ここで「一人一人に」と言われていることに注目しなければなりません。この「一人一人」は、11節でも繰り返されています。実に、聖霊の賜物は「一人一人に」与えられているのです。それは、与えられていない人はいないということです。私はこのことを、皆さんにきちんと受けとめて欲しいと思うのです。自分には何もない。そんな人はいないのです。「イエスは主なり」と告白する者には、例外なく、聖霊が注がれており、聖霊の賜物が与えられているのです。よいですか皆さん。「自分にはそんなものは与えられていない」などと言い張ってはいけないのです。それは、聖霊を侮ることになるからです。それは、少しも謙遜ではないのです。与えられているのに、与えられていないと言い張ってはいけません。自分には何が与えられているのか、よく思いを巡らして下さい。必ずあるのです。そして、それが聖霊によって与えられているものであることが分かったのならば、神様の御業の為に、教会の為にそれをささげなさい。神様から与えられた賜物は、自分の為に用いるものではないのです。教会全体の益となる為にささげるのです。それが御心に適うことです。私共一人一人に聖霊の賜物が与えられているのは、全体の益となる為だからです。
 私が17年仕えた前任地の教会に、白井のおばあちゃんという方がおられました。70代後半の方で、足が少し悪くて杖をついておられましたが、30分程バスに乗って隣町から礼拝と祈祷会に集っておられました。ご主人を長く看護され、天に送り、一人暮らしの方でした。この方が、それこそ雨の日も風の日も休まずに礼拝に集っている姿に、どれほど励まされたことでしょう。この方は祈りの人でした。いつも教会員の名簿を持って、お一人お一人の為に祈っておられました。だんだん歩くことも難しくなり、施設に入られました。今も施設におられます。この方を訪ねていきますと、教会員の名前が次々に出て来るのです。週報もよく読んでおられて、あの方は元気か、あの人は礼拝に来られているか、と尋ねられる。この人は施設に入ってからも、いつも教会員一人一人の為に祈ってくれているのだなということがよく分かりました。そして、いつも「先生の為、奥様の為、真祈子お嬢様の為に、祈っています。」そう言って下さいました。この祈りの中に、自分は牧師として、説教者として立たせていただいているのだと思ってきました。病床聖餐に行くと、みんなが慰められ、励まされました。
 福井さんという方がいました。この方は目が不自由な方でした。今は足も弱くなり、教会に来るにもヘルパーの方が一緒でないと来られません。でもこの方は、「私は、いつも教会に一人連れて来る。伝道しているよ。」と言われます。賜物はいろいろあるのです。大切なことは、それを賜物として理解し、それを神様の為にささげ、用いるかどうかです。
 皆、賜物は違うのですから、比べることは出来ません。比べることが出来ないのですから、それで優越感を持つことも出来ませんし、自己卑下することもないのです。自分の賜物は、それだけで完全となることは出来ず、必ず他者を必要としているのです。ここで組み合わされる必要が出て来ます。この賜物を組み合わせるということも又、大切な賜物でしょう。違う賜物を与えられた者同士が組み合わされる。そして、教会の業に共に仕えていく。一人が全てをする必要もないし、それは出来ないことなのです。

 教会もキリスト者も、好き嫌いで事を決め、動くものではないのです。好き嫌いで動こうとする罪に対して、私共は各々、霊の戦いをしなければなりません。それを野放しにしておいたのでは、決して全体の益となることはないからです。キリスト者も教会も、ただ神様の御命令に従い、与えられた賜物をささげ、全体の益となる為に、神様の御栄光の為に全てのことを為すのです。もちろん、イヤでイヤで仕方がないけれどもするということではないでしょうけれど、しかしそれが御旨であり、その為に自分は召されているということであるならば、それでもしなければならないでしょう。神様が召して下さるならば、必ず聖霊が働いて下さり、力を与えて下さいます。私も、別に牧師になりたくてなったわけではないのです。召命ですから、逆らうことが出来ず、この道へと進んできたのです。モーセだって、エレミヤだって、パウロだってそうです。皆、聖霊の導きの中で、これに従って歩んできたのです。教会の歴史は、全てこの聖霊の導きの中でここまで進んできたのです。全ての民が救われんが為です。福音が地の果てまで満ち満ちる為です。神の国に向かって、救いの完成に向かって、時は刻まれ、旅は続けられてきたのです。この代々の聖徒たちを生かした聖霊が、私共にも注がれているのです。
 私にも、あの人にも、この人にも、同じ御霊が注がれている。その恵みの事実によって、教会は一つとされているのです。それは、「イエスは主なり」との告白によって明らかにされていることなのです。ここに愛があります。キリストの愛が、この一つの信仰によって結ばれた交わりの中で形となるのです。どうか、神様の愛が満ち満ちる交わりを、父・子・聖霊なる神様の御支配のもとで、この地にあって建て上げていきたい。そのことを心から願うものであります。

[2008年10月19日夕礼拝]

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