富山鹿島町教会

礼拝説教

「頭なるキリスト」
詩編 8編2〜10節
エフェソの信徒への手紙 1章20〜23節

小堀 康彦牧師

 今朝与えられております御言葉において、「教会はキリストの体である」ということが23節に記されております。これは、言葉としては少し教会生活をした方であるならば、大変馴染みのある言葉でありましょう。「教会は」とくれば「キリストの体」と続く。ほとんど、「犬も歩けば」とくれば「棒に当たる」、「1+1」は「2」という感じで、何も考えることもなく、「教会は」とくれば「キリストの体」と口に出るかもしれません。そのようにこの言葉を知っている、この言葉に馴染んでいるということは大切なことであります。しかし、ただ知っているということだけならば、それは私共の力にはなりませんし、私共の信仰の歩みの助けにはならないでしょう。私は、今朝ここに集った皆さんに、これは本当のことだ、本当にそうだ、と分かっていただきたいのです。この短い「教会はキリストの体である」という言葉が本当のことだと判っていただきたいのです。このことが分かりますならば、私共の信仰の歩みは、大変強いものになる。多少のことではぐらつかない、堅固なものになるからであります。逆に申しますと、このことが分かりませんと、私共の信仰の歩みは、何か腰の落ち着かない、フラフラしたものになりかねないということなのであります。教会がキリストの体であるということが本当に分かりますと、私共はキリストを愛するように、教会を愛するようになるのでます。教会を愛し、教会に仕え、教会に生きるようになる。そしてこの歩みこそ、私共の信仰の歩みを確かなものとしていくのであります。

 私共が、この「教会はキリストの体である」という言葉で示されている事柄において、第一に心に刻まなければならないことは、「教会の頭はキリストである」ということであります。あの十字架におかかりになり、三日目によみがえり、天に昇り、今も天におられ、父なる神様の右に座しておられる主イエス・キリスト。この方が「教会の頭」であられる。このキリスト以外の何ものも、私共は頭としていただくことは出来ないし、私共の主人ではないということです。教会は、このキリストを頭としている群れなのです。頭がキリスト。だから、「教会はキリストの体」と言われるのです。
 教会という言葉を聞いてすぐに思い浮かべるのは、私共はこの富山鹿島町教会のことだろうと思います。私共はここに集い、この教会の様々な活動に参加しております。今日は午後に吉崎恵子さんを招いての、特別伝道集会が開かれます。伝道部の方々が計画を立て、その為に様々な備えもしてまいりました。そのような営みの中で、こうした方が良い、これもしよう、いろいろな意見が出され、話し合われ、実施されてまいります。そういう面を見ていると、教会という所は、キリストの体と言うけれど、人間が話し合い、事柄を決め、実施していく、結局は人間の集まりではないか、そのように考えてしまうかもしれません。しかし、その次元だけで教会を見ていますと、「教会はキリストの体である」ということは決して分からないのだろうと思うのです。
 しかし、どうして私共はこれをしているのだろうか、このことを少し考えてみるならば、「教会はキリストの体」と言われる理由にすぐに気付くはずなのです。私共は、どうして伝道集会を開くのだろうか。どうして、私共は主の日にこのように集い、礼拝をしているのだろうか。どうして、教会学校をするのだろうか。どうして、献金を献げるのだろうか。どれもこれも、目的はいつもただ一つです。それは、頭であるキリストにお仕えする為であります。キリストをあがめ、キリストをほめたたえる為であります。教会がキリストの体であるということは、いつでも頭であるキリストにお仕えする、その為に動き、活動しているということです。教会は、キリストにお仕えするため以外のことは、何もしないのです。こう言っても良いでしょう。体というものは、頭があって、その命ずる所に従って動くものです。ですから、教会は頭であるキリストにのご命令に従って、すべての事柄を為していくのです。キリストに従って、キリストの為にです。このことが分からなくなりますと、私共の信仰の歩みというものは、一本芯が通ったものにならないのだろうと思うのです。キリストにお仕えする。それが見失われれば、教会は何なのか、自分は何をしているのか、さっぱり分からなくなってしまうのです。教会のお掃除一つとっても、特伝のビラを一枚配ること一つとっても、同じことです。
 このキリストというお方は、十字架にかかり、三日目によみがえり、天に昇られました。そして、天の父なる神様の右におられます。それは、21節に「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」とありますように、時代を超え、国を超え、民族を超え、地域を超えて、あらゆるものの上にあり、御支配されておられる方だということなのであります。それを知っているのは、私共キリストの教会の者たちしかおりません。しかしそれは、キリストは教会だけの主であられるということではないのです。キリストは、たとえ世界がそのことを知らなくても、神様によって造られた全世界・全宇宙の主なのです。そしてそれは、天地が造られる前からそうであり、天地が滅びるまで、滅びた後までそうなのです。ですから、全ての民はこのキリストをほめたたえお仕えすることこそ、本来の姿なのです。私共キリストの教会は、そこに向かって先に召された者として、本来の姿を回復された者として主イエス・キリストにお仕えするのです。

 しかし、このように考えてきますと、私共の為す業がそれ程大それたものなのだろうか、全世界の主、全宇宙の主であるキリストにお仕えするなどというのは、あまりにおこがましいのではないか。そう思われる方もおられるかもしれません。確かに、私共の為すことは、どれ一つを取っても誇れるようなものではないでしょう。大したことをしているのでもないでしょう。ただ病気の人がいれば、寂しいだろうと思って声をかけ、訪ねただけ。そう言われるかもしれません。しかし、思い出して下さい。主イエスは何と言われたでしょうか。イエス様が栄光の座に着いて全ての者を裁かれる時、こう言うと言われたのです。マタイによる福音書25節34〜40節「『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」神様は私共の全てを見て下さっているのです。たかがお見舞い、されどお見舞いです。たかがチラシ一枚、されどチラシ一枚です。私共の為す小さな業は、キリストにお仕えするものとして神様に覚えられているのです。何という光栄でありましょうか。まことにありがたいことであります。
 ここで私共は、自分の心の平安の為の信仰という所から一歩抜け出すことが出来るのです。まことに皮肉なことでありますが、自分の心の平安ばかり求める信仰は、それを得ることが出来ません。そして、それを求めずただキリストにお仕えする一事に励む者はかえってそれを得るということになるのです。キリストにお仕えする一事に励む者は、それが人にどう評価されようと、それは大したことではなくなるからです。
 先日、ノアの会のお母さんたちと話をしている時に、こんな話がありました。前回のノアの会で、「旦那さんは会社に行っていろいろと大変なことがあるのだから、いつも旦那さんの為に祈りましょう。そして、玄関を送り出す時に「祈ってるね。」と一言、声をかけてあげましょう。」そんな話をしたのです。すると、ある婦人が、先生に言われるように旦那さんのために祈って、「祈っているね」と言って送り出した。その日、旦那さんが会社から帰って来たので、「今日、会社でいいことあった? 仕事はスムーズにいった?」と聞いたというのです。そうしたら、だんな様は「まあ、普通だった。」という答えだった。「せっかく祈ったのに、ガッカリしちゃった。」というのです。そんなにすぐに答えを求めてどうするのです。ずっと祈っている中で、ああ、ありがたかったと、旦那さんも思い、自分も思う、そういう時が来ますから、とお話ししました。又、ある婦人は「祈ってるね。」と言って送り出したら、「お前、変になったのか。」と言われたとも言ってました。最初はそう思われても、「祈ってるね。」の一言が、そのうち当たり前のことになって、そのうち自分は祈られているということをうれしく思うようになるから、その一言でやめてはダメです、ともお話しました。
 私共は、人の為に祈るということにおいてさえも、それがどう相手に受け取られるか、そんなことに心が向いてしまうものなのでしょう。しかし、祈りというものは、キリストにお仕えする第一の業であるということを、心に刻んでおかなければならないのだと思うのです。

 「教会はキリストの体である」ということの第二に心に刻んでおかなければならないことは、23節「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」とありますように、教会はキリストが満ちている、充満している場であるということであります。キリストというお方は目には見えませんから、キリストが満ちている、キリストが充満していると言っても、ピンとこない人もおられるかもしれません。この人の集まりにしか見えない教会の、どこにキリストが充満しているのか。確かに、目で確かめることは出来ません。しかし、キリストが満ちているということの証し、証拠と言うべきものならば、いくらでも挙げることが出来ます。いくつか挙げてみましょう。
 第一にそれは、この教会においてキリストの救いの出来事が起きているということであります。洗礼があり、神の子として新しく生まれるという出来事が起きているということであります。これこそ、キリストが充満していることの確かな証しであります。神様に敵対していた者が、神を神とも思わず自分のことしか考えないで生きていた一人の人が、父・子・聖霊なる神様を信じ、罪赦され、神の子とされ、永遠の命に与る者となる。このことこそ、キリストが満ち、絶大な神様の力が働いていることの証拠なのです。私共はどこに神様の絶大な力を見るのでしょうか。立山を仰ぎ見た時、満天の星空を見上げた時でしょうか。確かに、そこには神様の創造の御業があります。しかし、それは神様の大きさ、神様の力を私共に教えるでしょうが、その力が私の上に、しかも愛をもって臨んでいることを知ることは出来ないでしょう。天地を造られた神様が、その絶大な力をもって、しかもその力を、私共を愛し、私共を救う為に用いて下さっている。そのことを知るのは、主イエス・キリストの、あの十字架・復活・昇天の出来事によってであります。あのキリストを復活させられた神様が、その力をもって私共を救うのであります。それが出来事として現れる時、それが洗礼という時なのです。洗礼の出来事は、神の力が、天の光が、天上の喜びが、そこの一点に集中して放出されるような、まことに晴れがましい、素晴らしい時なのです。
 この洗礼という出来事は、霊の出来事でありますから、信仰によってしか、その素晴らしさを知ることは出来ません。ですから、おもしろいことに、この洗礼は、洗礼を受けた本人よりも、周りの人間の方が喜ぶということになります。もう30年も前になりますが、私は自分が洗礼を受けた時、おめでとう、おめでとう、と皆が本当にうれしそうな顔をして握手を求めてくるのが不思議でしょうがなかったのです。ところが、洗礼を受けて、一年、二年と経ちますと、自分もうれしくて、うれしくて仕方がない。不思議と涙が出てしまう。
 これは、聖餐も同じでしょう。最初の聖餐の時は、どんな味がするのだろうと期待が大きかったせいか、ただのパンの味だったのでガッカリしたことを覚えています。しかし、時を重ねる中で、キリストの肉、キリストの血に与る、キリストの命と一つにされている幸いを思い、まことにありがたいとしか言いようのない、感謝に包まれるようになりました。
 第二の証拠は、この礼拝であります。この礼拝において、私共はキリストとの交わりを味わうのです。キリストをほめたたえ、キリストの言葉を受け、キリストに祈りをささげます。ここにあるのは、生けるキリストとの交わりであります。キリストがここにおられないのなら、説教は牧師の演説であり、祈りは独り言であり、讃美歌はカラオケとかわりません。礼拝が礼拝となる。それはここにキリストがおられるからであり、まさにキリストが充満しているからなのであります。
 第三の証拠は、私共自身です。洗礼に与り、礼拝を守る私共には、キリストが充満しているのであります。教会というのは、建物ではありません。キリストを信じ、神の子とされた者の群れです。神の民です。旧約において、神様は雲の柱、火の柱として、神の民の上に臨まれました。同じように今神様は、新しい神の民である教会にキリストの霊を満たすことによって臨まれているのです。神の民の生活は、このキリストの御前に営まれていくのです。この礼拝から押し出された私共は、キリストに満たされて、神の御前に生きる者として、ここから遣わされていくのです。どのような拙い歩みであったとしても、私共のこの一週の歩みは、キリストの霊に満たされた者としての歩みなのです。私共の日々の生活の隅々にまで、キリストの霊は充満しているのです。そうでなければ、私共は「神の栄光の為に」という一事をもって一週を歩み通すことは出来ないでしょう。この私共の日々の歩みの中に、キリストの充満の証しがあるのです。
 ここでは、主イエスがお語りになったイメージ豊かなたとえ話を思い起こすことが出来ると思います。それはヨハネによる福音書15章にある「ぶどうの木のたとえ」です。主イエスはまことのぶどうの木、私共はその枝です。枝はぶどうの幹から栄養をいただき、実をつける。ぶどうの幹は、どんな小さな枝にも、その枝がつながっている限り栄養を送り、実をつけさせるのです。私共の一日一日の歩みの隅々にまで、キリストの霊は満ち、実りを付けさせてくださるのです。だから、「祈っているね。」の一言が言えるのです。だから、病床の方を訪ねていくことが出来るのです。私共の拙い歩みの中に、キリストの霊の実が成っているのです。
 頭であるキリストが、時代を超えて、地域を超えて、全世界の、全被造物の主である以上、このキリストの体である教会も又、時代を超え、地域を超えて、一つの体なのであります。頭が一つである以上、体も一つなのです。

 具体的な教会の歩みには、過ちもあり、これでも教会かということも起こるでしょう。それは、私共がそれでもキリスト者かと言われるような愚かな歩みをしてしまうのと同じです。しかし、そのようなことがあったとしても、教会はキリストの体であることをやめないし、私共もキリスト者であること、神の子とされていることをやめることはあり得ないのです。何故なら、教会がキリストの体であるということは、その良き業によってそのようにされているからではないからです。ただ、憐れみによって、神様が独り子キリストを私共に与えて下さった。ただ、この恵みの出来事によっているからです。私共も同じです。私共の信仰深さによって、私共は神の子とされ、救いに与っているわけではないからです。ただ、神様の憐れみにより、神の子たる身分を与えられた私共のです。ですから、教会にも、私共にも、誇るべき所は何もありません。ただ、このような私共を選んで立てて下さった神様に感謝し、心から神の独り子、我らの主イエス・キリストをほめたたえるばかりであります。

[2008年10月12日]

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