信仰の生活とは、祈りの生活であります。信仰の歩みとは、祈りつつ歩む私共の歩みに他なりません。もちろん、私共の信仰の歩みは日常の歩みでありますから、何もしないで祈りだけをしていれば良いというわけにはいきません。しかし、祈ることなしに、信仰の生活があり得ないことも明らかなことでありましょう。私共の具体的な信仰生活の中心に祈りがあることは、確かなことであります。とするならば、私共が何をどのように祈るのかということは、私共の信仰の歩みにおいて、大変重大なことであると言わなければならないでしょう。
今朝与えられております御言葉には、パウロの祈りが記されております。私共は今朝、このパウロの祈りを通して、私共自身の祈りというものについて、吟味したいと思うのです。
私共が祈りについて考える時、第一に思い起こさなければならないのは、主の祈りです。主イエス・キリスト御自身が、このように祈りなさいと弟子たちに教えて下さった祈りです。私は、この祈りは主イエスによって、弟子たちに口うつしのようにして教えられたと考えています。主イエスが弟子達に「祈ること」を教えようとして、この祈りを与えられた。ですから、この祈りの中に私共の祈りの全てがあり、私共はこの祈りに導かれ、この祈りを追うようにして、自分の祈りを形作っていくのです。個人の祈りだけではありません。おおよそ教会に伝えられてきた祈りは、すべてそうなのです。実に、今朝与えられております使徒パウロの祈りも又、主の祈りと無関係ではないのです。それどころか、ここには「主の祈り」のパウロにおける具体的な展開である、と言って良いのではないかと思います。
主の祈りの最初の祈りは、「御名をあがめさせ給え」です。御名があがめられますようにという祈りです。パウロは、前回、前々回の説教で見ましたように、この手紙の3〜14節の所において、御名をあがめる、主をほめたたえるということを具体的にして見せているのです。それは、まさに「御名をあがめさせ給え」の展開と考えて良いでしょう。そして、それに続く今朝与えられている所においては、主の祈りの「御国を来たらせ給え」「御心が天になるごとく地にもなさせ給え」に対応するような祈りが展開されているのであります。そのことを順に見てまいりたいと思います。
御名をあがめる。信仰の眼差しを主イエス・キリストと父なる神様に向けて、その救いの御業に思いを巡らせて主をほめたたえる。この主をほめたたえる眼差しの中で、パウロはエフェソの教会の人々を見るのです。そうすると、自然に出て来る祈りは「感謝」なのです。このことはとても大切なことです。私共はこの様に説教するときに、3節〜14節を説教し、15節以下を説教するというように分けてしまいますけれど、この手紙はそのように分けて書かれたのではありません。主を誉め讃えることから、一気に祈りへとなだれ込んでいるのです。
15〜16節「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。」パウロは、祈りの度にエフェソの教会の人々のことを思い起こしているのです。そして、いつも感謝しているというのです。このパウロの感謝は、私共が日頃思っている感謝とは、少し違うのではないかと思います。私共は、何か良いことがあると感謝する。そういうふうに感謝ということを考えているのではないかと思います。しかし、それでは「いつも感謝する」というわけにはいかないだろうと思います。逆に言えば、何か良くないことがあれば感謝出来なくなるということであります。しかし、パウロがここでしている感謝というものは、3〜14節で為した、あの「神様をほめたたえる」ということの続きなのです。神様の救いの御業を見上げ、神様をほめたたえる。するとそこにエフェソの教会の人々が入ってくる、エフェソの教会の人々のことを思い起こす。そこでパウロは、「ああ、エフェソの教会の人々、あなたがたも又この大きな神様の救いの御業の中に入れられているのですね。神様、感謝します。」そういう流れになっているのでしょう。この主をほめたたえ、主の大きな救いの御業の中で思い起こす時、私共は感謝せずにはおられないということなのであります。この感謝は、それ故、今の自分の状況に関わらず、ささげることが出来るのです。思い出して下さい。パウロはこの手紙を牢獄の中から書いているのです。にもかかわらず、彼は感謝している。神様を思い、愛する者を思い、感謝している。エフェソの教会の人々に信仰が与えられ、愛の業に励んでいる様子を聞いて、感謝しているのです。それが自分にとってどうなのか。エフェソの教会の人々に信仰が与えられ、愛の業に励んでいても、パウロが牢獄から出られるわけではないのです。パウロにとっては、別段良いことなどないのです。しかし、感謝しています。彼は、自分にとって良いことがあるから感謝しているのではないのです。そんなことならば、私共はいつも感謝するなどということは出来ないのです。ここにあるのは、愛です。パウロは愛するエフェソの教会の人々を思い、そこに注がれている神様の愛、実現している神様の救いの御業を思い、そして感謝しているのであります。
もう少し、具体的に考えてみましょう。私共は食前の感謝を致します。そこで私共は何を感謝しているでしょうか。食事が食べられてありがたい。それはその通りであります。しかし、それだけなのでしょうか。そうではなくて、神様がこの食事をもって、私共を生かして下さる。今日も生きよと命を与えて下さっている。このことを感謝するのでしょう。ですから、この感謝は、食卓にあるものが、どのようなものであるかには、少しも左右されないのであります。この食事をいただくということを、神様の御心の中でとらえるということなのであります。この神様の御心、私共を愛してやまず、私共を救いの完成へと導いて下さっている神様の御業というものを信じ、それ故に感謝するということなのでありましょう。
そのようなパウロが、エフェソの人々の為に祈る具体的な祈りが、17〜19節に記されているものです。ここを読んですぐに分かることは、「神を深く知る」とか「心の目が開かれる」とか「悟らされる」という言葉が示すように、パウロがここで祈り願っていることは、エフェソの教会の人々の霊的成長と申しますか、信仰の成長と申しますか、そういう事柄についてであるということです。
どうでしょうか。私共は自分が愛する者の為に何を祈っているでしょうか。私共は主イエス・キリストの救いに与る前から、祈ることを知っていました。家内安全、商売繁盛を祈っていた。それが祈りではないとは言いません。人は神様に造られたものとして、主イエスを知る前から、祈りの種とも言うべきものを与えられているからです。人間は祈る者として、神様に造られているのです。しかし、その「祈りの種」は、種のままであるならば、目に見えるご利益を求める祈りという所から、一歩も出ることが出来ないのです。この祈りというものは、全ての宗教にあるものです。いや宗教を持たない人であっても、祈りは知っているのです。しかし、何を祈るのか。そこに、その宗教の特質が現れると言って良いでしょう。私共は愛する者の為に何を祈るのか。健康、平穏な生活、それも良いでしょう。しかし、それだけですかということです。そのような祈りならば、救われる前から知っていたのではないでしょうか。もっとも、私共は主イエスによって救われ、本当に祈りをささげるべき方は誰かを知った。それは決定的に重大なことです。神様に向かって、「アバ父よ」と呼び奉ることが出来るようになった。これは決定的に重大なことです。しかしそうであるならば、私共は何が一番大切なことであり、何が私共の命を保ち、まことの平安、まことの救いへと導くのかも知ったはずです。だったら、それを祈らなければならないのではないでしょうか。
パウロがここで第一に祈っていることは、17節の「神を深く知るようになる」ということであります。神を知るというのは、神様がいるとかいないとか、そんなことを知ることではありません。神様が誰であり、どのような方であり、何をして下さっている方であるかを知るということであります。更に言えば、父と子と聖霊なる三位一体の方として知るということでありましょう。この17節において、パウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの神」「栄光の源である御父」「知恵と啓示の霊」という言い方で、イエス・キリスト、父なる神、聖霊なる神という三位一体の神を挙げ、その神をエフェソの教会の人々が深く知ることが出来るようにと祈り求めているのです。神を深く知るということは、三位一体の神として神様を知るということなのであります。
神様を深く知るということは、心の目が開かれるということです。肉の目ではありません。心の目です。信仰の目と言い換えても良いでしょう。肉の目に見ることは、この世の出来事であり、自分たちが置かれている状況でありましょう。心の目、信仰の目が開かれる時、私共はそれらの出来事、状況の背後にある、神様の御心に向かって目が開かれていくということであります。もちろん、一つ一つの出来事、状況について、これはこういう神様の御心であるというふうに分かるということではないでしょう。それは占い師がやることです。牧師に聞かれても困ります。心の目が開かれて、この世の出来事、状況の背後にある御心を知るようになるということは、天地創造から終末に至る、壮大な神様の救いの御心、御計画を知り、この世界がやがて救いの完成へと至るということ、その為に神様は大いなる力をもって今も生きて働いておられるということ、この神様の御計画は少しも揺るがないということを知るということなのであります。これは、すでに3〜14節において、パウロが主をほめたたえつつ述べていたことです。こういうことに目が開かれていくようにと、パウロはエフェソの教会の人々の為に祈っているのです。
パウロはこのことを更に具体的に展開して、18〜19節で三つのことを挙げています。第一に「希望」、第二に「聖なる者たちの受け継ぐもの」、第三に「神の力」です。心の目が開かれることによって、私共に与えられている「希望」と私共が「受け継ぐもの」と「神の力」を知るようにと祈っているのです。
第一の「希望」ですが、これは「神の招きによっての希望」と訳されていますが、直訳すれば「召命の希望」というものです。私共は神様によって召されて、神様の子とされ、救いに与りました。この神様の招き、召命というものは、私共の中には根拠はありません。神様が天地を造られる前から、私共を選んで下さった。そこに根拠があります。ですから、私共が招かれた、召されたということは、徹底的に神様の御業なのであります。ですから、私共は必ず救いの完成へと導かれていくことになっているということなのであります。これが私共に与えられている希望です。この希望は、神様の中にあるものです。従って、私共の状態や取り巻く状況によって奪われたり、失ったりするようなものではないのです。私共に本当に必要なものは、この「希望」なのです。希望を失えば、人は生きていくことは出来ません。
第二に、私共に与えられることになっている「受け継ぐもの」です。この受け継ぐものが、どんなに栄光に輝くものであるか。そのことさえ分かれば、私共は困難に満ちたこの世の歩みも、耐え忍ぶことが出来るはずですし、信仰の歩みというものが、明確な目標を持った歩みとなるのです。この「聖徒たちの受け継ぐべきもの」というのは、ペトロの手紙一1章4節「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」と同じでしょう。それは永遠の命であり、全き平和であり、尽きぬ喜びであり、神様の持つ全てを知る知恵であり、全き愛であり、真実であり、謙遜でありましょう。挙げればきりがありません。復活された主イエス・キリストと似た者に変えられるということであります。このことが本当に分かるならば、私共は信仰を失うことはないはずであります。洗礼を受けても、途中で信仰を失ってしまうというのは、このことが良く分からなかったからだと思うのです。この世における信仰の歩みの後に、何が与えられることになっているのか。このことが良く分からないと、どこに向かって、何の為に自分は信仰の歩みを為しているのか分からなくなってしまうのだと思います。パウロは、そうならないようにと祈っているのです。
第三に、「神の力」であります。この神様の絶大な力というものが、私共の上に働いて下さっているということが分かるならば、私共はこの神の力に拠り頼んで、希望を失うことなく信仰の歩みを為していくことが出来るのです。この絶大な神様の力は、死さえも滅ぼす程のものであり、私共が圧倒的と思ういかなる力も対抗することが出来ない程、大きなものなのです。この神様の力の絶大さというものは、天地を造り、又、この天地を造り変える程のものであります。
このように見てまいりますと、このパウロの祈りは、実に神の国を見上げて、そのリアリティーの中でささげられているものであることが分かると思います。終末的な祈りです。その意味で、このパウロの祈りは、主の祈りの「御国を来たらせ給え」「御心が天になるごとく地にもなさせ給え」のパウロによる展開であると言うことが出来るのです。主の祈りというものは、このように自由に形を変えて、私共の祈りを導き、形作っていくものなのであります。
どうでしょうか。私共の祈りは、あまりに目に見えることに囚われすぎていないでしょうか。本当の救いはどこにあるのか。このことをしっかりと見つめて、その為に、愛する者の為に、又、自分の為にも祈っていきたいと思うのです。
ただ今から、聖餐に与ります。この聖餐は、やがて私共が与る御国における食卓を指し示しています。この聖餐に与り、私共が目指し、歩んでいる御国の希望を新にされたく願います。そして、その中で祈りを新たにされ、愛する者のために祈りつつ、この一週も歩んでまいりたいと願うものであります。
[2008年10月5日]
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