今朝与えられている御言葉は、大変豊かな内容を持っている箇所です。とても一回では語ることが出来ません。ですから、来週も与る予定です。勿論、二回なら語り尽くすのに十分かと言えば、そうも言えません。二回の説教でも、ここで語られていることの大切なところを語るのがやっとだと思います。しかし、先に進んでいかなければなりませんので、二回と致しました。今日は主に前半の所から御言葉を受けたいと思います。
私は先週、秋の日本基督教団教師検定試験の為、大阪に行っておりました。秋は正教師となる人の為の試験が主なのですが、今回は全国から74名の方が正教師の試験を受けられました。すでに補教師として、2年以上伝道・牧会に携わっている人ばかりです。試験に先立って提出していただいた文章の多くに、補教師として牧会・伝道に当たる中で、自分の欠け、未熟さを思わされたということが記されておりました。お話を聞く中で、本当に様々な経験をされてこられたのだと思わされました。知っている人は誰もいない。ただ御言葉だけを携えて遣わされていった方々でした。教会員との間に、トラブルとまでは言わなくても、行き違いがあった人もいます。中には、自分の召命というものに揺らぎを覚えている方もおりました。神様の召命、神様の選びというものは、自分の中には根拠を持ちません。ですから、自分の力のなさや自分の欠けばかりを見ておりますと、本当に自分は神様に選ばれ、立てられているのだろうかという思いを持ってしまうものなのであります。しかし、神様からの召命ということがはっきりしなければ、牧師は立てません。この試験は召命を問う、そういう試験なのです。私は、そんな自分の召命に揺らぎを覚えている一人の方に、個人面接の時にこう申しました。「あなたは2年の間、毎週講壇に立って説教をしてきた。その備えの時、語る言葉が与えられたという経験をしませんでしたか。説教は注解書を読めば出来るというものではないでしょう。原文に当たり、注解書を読み、説教の備えをしている中で、これを語ろうということが示される。上から降りて来たとしか言いようのないあり方で、与えられたのではないですか。あなたがそのようなことを味わう2年間を過ごしてこられたのであるならば、それがあなたが神様によって伝道者として選ばれ、立てられている確かな『しるし』なのではないですか。」そうお話ししました。自分の力や能力の中に、伝道者・牧師として選ばれ、立てられる根拠などというものはありません。自分の熱心などということも、その保証にはなりません。しかし、その歩みの中で、神様の召しというものは明らかにされるのでしょう。だから正教師試験は、補教師として2年以上経た者という条件があるのです。
それは、全てのキリスト者にも言えることです。自分の性格・能力・生い立ち、そんなものの中に、キリスト者とされ、神の子とされ、救われる根拠などは何一つないのです。使徒パウロは、自らが神様によって立てられ、遣わされた使徒であるということに自信を持っていた者ですが、それは彼がただ「自分は神様によって選ばれ、立てられた」「そして、その召命に応えて生きている」という事実に立っていたからであります。もし彼が、自分の能力などというものを問題にし始めたのならば、彼も又その召命において揺らぐということになっていたのではないかと思うのです。
使徒パウロは、今朝与えられた御言葉において、神様の壮大な救いの御業を語っております。この個所は、聖書の中でも、天地創造から終末に至る壮大な神様の御業を一気に述べている、代表的な所であります。それを述べるに際して、パウロは3節におきまして、神様の祝福を語るのです。この訳には出て来ていませんが、この3節には「祝福」という言葉が3回も使われているのです。「ほめたたえられますように」という言葉と、「祝福で満たしてくださいました」というところです。「祝福で満たしてくださいました」のは、直訳すれば「祝福をもって祝福された」ということになります。ここで2回。そして、「ほめたたえる」と訳されている言葉は「祝福」するという言葉と同じであるということは、先日の説教でもお話しいたしました。「祝福する」という言葉は、「良く」と「語る」という言葉が合わさったもので、「良く語る」「良いことを語る」というのが元々の意味です。それが神様に向かえば「ほめたたえる」と訳され、人に向かえば「祝福する」と訳されるわけです。何が言いたいかと申しますと、パウロはこの壮大な神様の御業を語る前に、自分がすでに神様の祝福を受けている、神様の祝福の中にいるのです。この神様の祝福の中で、初めて神様の壮大な御業を語っている。ですから、パウロがここで語っていることは、実に頌栄的なもの、神様をほめたたえる、賛美する、そういうことなのです。神様を賛美する、ほめたたえる、そういう時に自分の力のなさ、弱さ、貧しさ、そんなものは吹っ飛んでしまう。そんなものが吹っ飛んだ所で、パウロは語っているということなのです。そんなものが吹っ飛んだ所で、彼は使徒として立っているということなのであります。
この3節から14節は、内容的にまことに豊かなのでありますが、原文では一つの文章になっています。こんな長い文章は、良い文章とはとても言えないのでしょう。しかし、それはパウロがここに記されている事柄を論理的に組み立て、神学的に述べるということをしているのではなくて、まさに神様の祝福の中に身を置く者として、神様の祝福の数々を数え上げている。次から次へと神様が与えて下さっている祝福を数え上げた。そういうことなのだろうと思うのです。ですから、ここは何度も何度も読んで、覚えてしまう程になって、パウロと共に主をほめたたえる。そのような読み方が一番良いのではないかと私は思っています。
ここでパウロは、神様の壮大な恵みの御業を語るに際して、その最初にこの様に告げます。4〜5節です。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」ここで私共はいきなり、目がくらむ程の壮大な神様の御業の前に立たされます。きっと、私共はパウロと共に、この壮大な神様の救いの御業を思って、アーメンと言い、神様をほめたたえることこそ、この御言葉を読むのに一番ふさわしいのだろうと思います。あまりくどくどと説明しない方が良いのだろうと思いますけれど、パウロが見ていたものを共に見て、共々に主をほめたたえる為にいくつかのことを申し上げます。
第一に、「天地創造の前に」というということです。私共が神様に愛され、救われたのは、天地創造の前に私共が選ばれたからだとパウロは告げるのです。神様の選び、しかも天地創造より前からの選び、まさにこの神様の永遠の選びこそ、私共の救いの根拠であると告げるのです。私共が神様を選んだのではない。神様が私共を選んだ。しかも、天地創造の前から選んだ。これが、私共の救いの根拠なのです。「天地創造の前」というのですから、当然私共は存在しているはずもありません。存在する前から、神様の中では選ばれていたということなのです。ここに示されているのは、絶対的な神様の主権ということでありましょう。この神様の救いの御業ということに対して、私共がああだこうだと言う余地はないということであり、私共の才能や性格や生活のあり方が根拠となっているのではないということです。
何度も申しますが、これは神様の祝福に与っている者が、その祝福の中で、神様をほめたたえる中で告げている救いの論理なのです。自分の救いを横に置いて、救いの根拠は何かと論じているのではないのです。神様の救いというものは、救われた者にしか語ることが出来ないものなのであります。
この救いとは、「聖なる者」「汚れのない者」とされるということであり、5節の言葉で言えば「神の子とされる」ということであります。この神の子とされるということも、「御心のままに前もって定め」られていたことなのです。「前もって」というのは、「天地創造の前」ということでしょう。「聖なる者」「汚れのない者」「神の子」と、どれ一つとっても、私共の自分の有様を見て出て来るものではありません。私共は、聖なる者と言えるか、汚れのないものと言えるか、神の子といえるか。自分の姿をいくら見ても、そうだと言えるものなど何一つ出て来ないのです。これは全て、神様がそのような者として私共を見て下さる、取り扱って下さるということでしかないのです。
まことにありがたいことです。神様がそのような者として私共を見て下さる。しかも、そのような者とすることを、天地創造の前から決めておいて下さった。この神様の選びの御計画の中で、今日の私共があるのです。神様の選び、神様の御計画といっても、それは設計図のようなものを考える必要はありません。究め尽くすことが出来ない、神様の御心の中でのことであります。その御心の中で選ばれたということこそ、私共の救いの根拠なのです。パウロは、自分の中にはどこを捜しても見出すことの出来ない救いの根拠を、この神様の永遠の選びの御心の中に見たということなのでありましょう。
では、どうしてパウロはそのような究めることの出来ない神様の永遠の選びの御心などというものに気付いたのでしょうか。パウロは天才だったからということでしょうか。そうではないのです。パウロは、この神様の永遠の救いの選びということを、勝手に創作したのではないのです。そうではなくて、パウロは主イエス・キリストというお方によって救われたのです。そのことを思うと、そうとしか言えないということなのです。彼は、主イエスを信じるキリスト者を迫害するためにダマスコに行く途中、復活の主イエスに出会います。そして、救われたのです。主イエス・キリストというお方を抜きに、救いを考えることは出来ません。そして、この方によって自分が救われたということは、自分の中に救いの根拠は全くないのですから、ただただ神様の恵みによって選ばれたとしか言いようがないのであります。
3、4、5、6、7、9、11、13節において、繰り返し繰り返し告げられているのは「キリストにおいて」という言葉です。これは「キリストのお陰で」と訳せるでしょう。元々は「キリストの中で」という言葉です。パウロは、神様の壮大な救いの御業を、主イエス・キリストの救いの恵みの中で見ているのです。パウロは、神様の永遠の救いの選びの御計画というものを、主イエス・キリストの御業から必然的に思い知らされたということなのです。決して、「神様の御支配の絶対性」といったことを考えていく中で、遂にそこに到達したというようなことではないのです。主イエス・キリストの御前に立ち、この方によって与えられた救いの祝福の中に身を置きつつ、その祝福を数え上げる中で、このように導かれたということなのであります。
神様の私共への愛も、私共が聖なる者とされることも、汚れなき者とされることも、神の子とされることも、救いの恵みをたたえることも、全ては主イエス・キリストにあってのことです。キリスト抜きには、何一つ起き得なかったことです。「キリストにおいて私共を選び」「イエス・キリストによって神の子にしようと定め」「御子によって輝かしい恵みを与え」られたのです。
7節「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」とあります。このキリストの十字架の御業による贖い、罪の赦し、これこそ神様の恵みであり、私共に救いをもたらすものなのであります。この主イエス・キリストによる救いの恵みこそ、なくてはならないものであり、パウロを、そして私共をして今日あるを得させているものなのです。
この主イエス・キリストの救いに与っている、この救いに与る者として自分は神様に選ばれている。このことを、私共はどこで確信することが出来るのでしょうか。神様の永遠の選びというものは、手に触れて確認出来るようなものではありません。ですから、自分の情けない歩みの中で、その自分の姿ばかり見ていたならば、自分の救いの確信というものが揺らぐということも起きるのでしょう。ここで大切なのは、私共の視線です。私共が何を見ているかということなのです。私は、この神様の永遠の選びへの確信というものは、パウロがここでしているように、神様をほめたたえるという所においてしか与えられないのではないかと思うのです。逆に言えば、主をほめたたえる中で、私共は自らの目を神様に、主イエス・キリストに向ける、そこで与えられるのです。もっと具体的に言うならば、私共はこの主の日の礼拝の中で、この礼拝のたびごとに、主を誉め讃え、眼差しをキリスト・イエスを通して神様に向けるとき、自分が神様の選びに与っていることを知らされるのでありましょう。他の所ではありません。この礼拝の場においてです。ということは、この父・子・聖霊なる神様をあがめ、ほめたたえる礼拝へと招かれ、これに与っている者は、与り続けている者は、神様の救いの選びの中に置かれているのです。そう信じて良いのであります。神様を誉め讃えるということは、私共の中から出てくることではないからです。今朝ここに集い、礼拝に与っているあなたがたは、すでに神様の天地創造の前からの選びに与っているのです。ですから、パウロと共に、代々の聖徒と共に、今、父と子と聖霊なる神様を心からほめたたえたいと思うのです。
[2008年9月21日]
へもどる。