富山鹿島町教会

礼拝説教

「開眼(二)」
列王記 上 19章1〜18節
ルカによる福音書 24章28〜43節

小堀 康彦牧師

 今、列王記上19章の御言葉をお読みいたしました。ここには、神様の御手の中で生かされ、支えられ、導かれた一人の預言者の姿が記されています。主イエスの御復活の恵みの御言葉に与るにあたり、私は旧約のこの一人の預言者に起きたことを、まず心に刻みたいと思いました。そこには、旧約から新約へと貫かれている、ただ一人の神の御業とそれに与る者の姿があるからです。預言者エリヤが、バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人とカルメル山において戦い勝利した後、王妃イゼベルに命をねらわれて逃げた時のことです。エリヤはバアルの預言者たちに勝つには勝ったのですが、もう心も体もボロボロでした。彼はもう死にたいとまで思い詰めました。カルメル山からベエル・シェバまで200km程あるでしょうか、北のイスラエルの王アハブと王妃イゼベルの力の及ばない南のベエル・シェバまで、彼は逃げに逃げたのです。彼は疲れ果て、えにしだの木の下で眠ってしまいました。そこに御使いが現れ、エリヤに触れ、告げます。「起きて食べよ。」エリヤの枕元にはパン菓子と水がありました。彼はそれを食べ、飲んで、横になりました。御使いは再びエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ。」と告げます。エリヤは起きて食べ、飲んで、再び出発します。そして、神の山ホレブに着くのです。神の山ホレブ、それはモーセを通して十戒が神の民に与えられた所でした。「もうダメだ。死にたい。」そう思い詰めていたエリヤに、神様は静かにささやく声で告げるのです。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」エリヤは答えます。「わたしは一生懸命に仕えてきました。しかし、イスラエルの人々は契約を捨て、預言者たちを殺し、わたしだけが残りました。そして私の命もねらわれています。」もうダメです。私は一生懸命やってきました。でも、もうダメなのです。エリヤは主なる神にそう告げたのです。神様はそのエリヤに対して、「分かった。大変だったな。もう十分だ。もうよい。」とは言われませんでした。神様はエリヤが逃げてきた所へ、再び遣わすのです。「行け、あなたの来た道を引き返せ。」と言われるのです。そして、新しい使命と、7000人のバアルにひざをかがめない仲間を残すという約束を与えられました。そして、エリヤは再びイスラエルへと戻っていったのです。
 私には、このエリヤの姿が、主イエスの御復活の出来事に出会った主イエスの弟子たちの姿、そして私共自身の姿と重なって見えてくるのです。主イエスの弟子たちは、主イエスの十字架の死をこの目で見ました。彼らは主イエスに期待していたからこそ、「ああ、もうダメだ。」と思ったに違いないのです。その弟子たちに主イエスは復活された御姿を見せ、少しもダメではない、これから新しい展開が、新しい歩みが始まることを弟子たちに示されたのです。新しい展開、新しい歩みは、向こう側から、神様の側からやって来るのです。それは、私共の努力の向こうです。自分の見通しの破れを超えてやって来るのです。
 エリヤはよくやったのです。これ以上ないという程によくやった。バアルの預言者とも戦い勝利したのです。しかし、それで何か変わったか。イスラエルの王アハブと王妃イゼベルは相変わらずバアルの神を信じ、自分を殺そうとしている。何も変わっていない。それどころか、前よりも自分はいよいよ追い詰められている。神の人エリヤの心は、もう折れてしまったのです。エリヤは自分の命が絶えることを願い、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」そう言うのです。「主よ、もう十分です。」私共はこのエリヤの深い溜息と共に出て来る言葉を良く知っています。「もういい。十分だ。これで終わりにしよう。」私共が、今まで何度も口にした言葉です。もう何をしてもどうにもならない。どうせ、もう何をしても同じだ。もう、やる気が出て来ないのです。人に何を言われても、励まされても、ダメなのです。じっとその場でうずくまり、何もしたくない。何も出来ない。エリヤは眠ってしまいました。そのエリヤに向かって、神の御使いが触れて告げるのです。「起きて食べよ。」二度も告げられます。エリヤはこの神様が用意されていたパンと水を食べて飲むのです。そしてエリヤは神の山に向かって歩き出します。この「起きて食べよ。」と告げられた食事によって、エリヤは再び歩き出すのです。このエリヤの為に神様が用意されていた食事、これは出エジプトの時のマナを思い起こさせます。この食事は、主の養いの中で生かされている自分を示される食事です。主なる神が自分と共におられることを示される食事です。聖書において、食事とは単に生きる為の栄養を摂る為だけの行為ではありません。もっと、私共の命の根本、神様との交わりの中にある命を指し示すものなのです。もちろん、食事というものは一日三回行う、私共にとって最も日常的な行為です。しかし、この最も日常的な行為の中に、最も宗教的、信仰的事柄が明示されているということなのです。日常と信仰が分離しないのです。食事を摂るという日常のただ中で、私共は神様との交わりを知るのです。この神様が備えられた神様との交わりの食事は、過越の食事から、主イエスが五千人の群衆に与えられたパンの奇跡をも思い起こさせ、最後の晩餐から、更に、復活された主イエスが弟子たちと為された食事へとつながっていきます。実に、この聖書において要所要所に出て来る食事の場面、それらが私共が与る聖餐の食卓へと流れ込んで来ているのです。この聖餐に与ることによって、私共は何度も何度も立ち直り、主と共に生きる者として、新しく歩み始めるのです。それが、キリストの教会の二千年の歩みだったのです。

 少し先に急ぎすぎました。聖書に戻りましょう。主イエスが御復活された日、クレオパともう一人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かって歩いていました。すると、復活の主イエスが二人に近づき、道々聖書を説き明かされたのです。この復活の主によって与えられた聖書の説き明かしこそ、キリストの教会の礼拝における説教の始まりであることを先週私共は学びました。この主イエスの説き明かしを受け、心を燃やされた弟子たちが、それを語り伝えたのです。
 さて、この二人の弟子は復活の主イエスを、主イエスとは判らずに家に招きました。もう夕方になっていたからです。そして、この二人の弟子と復活の主イエスは食事の席に着きました。30〜31節にこうあります。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」この時、二人の弟子は主イエスが為された五千人の給食や、主イエスと共に食事をした場面を思い起こしたに違いありません。最後の晩餐は主イエスと十二使徒だけの食事でしたので、この二人の弟子は与っていなかったと思いますが、この二人の弟子は復活の主イエスとの食事によって、今まで自分たちに聖書の説き明かしをしてくれていたのが誰であったのか、初めて分かったのです。聖書はそのことを「二人の目が開け」と記しています。彼らの肉体の目はずっと開いていたのです。そうでなければ、エルサレムから60スタディオン、11kmの道を歩いて来ることは出来なかったでしょう。この「目が開け」とは、まさに霊の目が開かれたということなのでしょう。復活の主イエスが自分と共におられることが分かったということなのであります。この復活の主イエスとの食事は、あの最後の晩餐の出来事と共に、私共の聖餐の源流となりました。実に、ここで「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」と記されております言葉は、最後の晩餐を記したルカによる福音書22章19節「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き」とほとんど同じ言葉が用いられているのです。この二つの食事の記憶が、私共の聖餐の源流となったことは間違いありません。この主イエスが復活された日の午後の出来事。二人の弟子と復活の主イエスとの間の出来事。主イエスが聖書を説き明かし、この二人の弟子と一緒に食事をする。そして、二人の目が開かれ、復活の主イエスが共におられることが分かった。聖書を説き明かされた時に心が燃えた。実に、これがキリストの教会の礼拝を形成する原体験となったのです。つまり、聖書の説き明かしとしての説教と、復活の主イエスと一緒に食事をする聖餐です。この二つがセットになっているのです。聖書の説き明かしだけでは、この二人の目は開かれなかったのです。復活の主イエスと共に食事に与る。このことによって彼らの目が開かれたのです。もちろん、食事だけでもダメでしょう。先に聖書の説き明かしがされて、復活の主イエスとの食事があって、目が開かれたのです。

 ところで、この時二人の弟子は目が開かれて復活の主イエスが分かったのですが、そのとたんに「その姿は見えなくなった。」と聖書は記します。これはどういうことなのでしょうか。先週も申しましたように、これは主イエスの御復活という出来事が、単なる肉体の蘇生というようなことではなかったということを示しています。主イエスの復活は体のよみがえりであるには違いないのですが、それは同時にまことに霊的な出来事であり、信仰の出来事であったということなのでありましょう。そして、主イエスだと分かったとたんにその主イエスの姿が見えなくなったということは、もう見える必要がなくなったからだと思うのです。彼らは主イエスの甦りの情報は知っていましたが、信じることは出来ないでいました。復活の主イエスが二人の弟子の前にその御姿を現されたのは、彼らが主イエスは本当に復活されたのだということを信じるようになる為だったのです。ですから、主イエスの御復活を信じたのなら、主イエスはもうその姿を彼らに見せる必要はなくなったし、彼らももう見る必要が無くなったのです。そして、弟子たちには聖書の説き明かしと主イエスとの食事、説教と聖餐という恵みの手段が与えられ、この二つによってキリストの教会は立ち続けてきたのです。
 聖餐は、主イエス・キリストの体と血、キリストの命、キリストそのものに与る出来事であります。そして、この聖餐において、私共は復活の主イエスが自分と共におられることを味わい知るのであります。復活の体をもった主イエス・キリストは、復活の後四十日して天に昇られ、今も天の父なる神様の右におられます。しかし、主イエスは御自身の霊である聖霊を私共に注ぎ、信仰を与え、聖霊として私共と共にいて下さっています。そのことに、代々の聖徒たちは聖餐に与るたびに目を開かれ続けてきたのです。
 ここで大切なことは、主イエス・キリストの復活は、あの主イエス・キリスト、弟子たちと旅をし、教えを与え、数々の奇跡を為し、十字架の上で死なれた方の復活であったということなのです。復活の出来事と、主イエスの御人格とを分けて考えることは出来ません。復活はあり得ない大変なことです。しかしそれは、主イエス以外の誰に起きても良い、誰に起きても私共の救いの根拠となるということではないのです。「あの」主イエスにおいて起きたが故に、私共の救いの根拠となったのです。「あの」十字架の上で死んだ方が、私共の為に、私共に代わって神様の裁きを身に受けた方が復活されたが故に、私共も又死によっては終わらない命が備えられることとなったのです。「あの」互いに愛することを教え、仕え合うことを教えられた主イエスが復活されたが故に、この教えは永遠の命へと私共を導く教えとなったのです。「あの」幸いなるかな、貧しい人。神の国はあなたがたのものである。と祝福された方が復活されたが故に、あの祝福はどんなこの世の悪にも打ち破られることのない力ある祝福として、私共を包み、守るものであることが明らかにされたのです。

 復活を信じるということは、私共の信仰の根本にあるものです。しかし、この復活信仰とは、第一には何よりもあの主イエス・キリストというお方の復活を信じるということなのです。そして、それに続いて、あの方が復活された以上、私共も又その命に与ることを信じるということなのです。主イエスというお方と切り離された復活信仰ではないのです。そして、この主イエスの復活という出来事に支えられ、説教と聖餐により、私共の信仰の歩みは守られ、導かれているのです。あのエリヤが「起きて食べよ。」と言われた食事によって、もうダメだと打ちひしがれながらも再び歩み出したように、「取りて食べよ。これはわたしの体。」と告げられ食する聖餐の食事によって、私共は「もうダメ」と思う現実にあっても、神様の側から開かれる明日を信じて歩み続けるのです。私共はしばしば「もうダメだ。」と思ってしまうものです。「もう、何もやる気がしない。どうせもう何をやってもムダだ。」そんな思いにとらわれることがあるものです。受験に失敗したり、病気になったり、仕事がうまくいかなかったり、家庭の中でトラブルがあったり。それはそれで、どれも深刻な問題です。自分に非がない。悪いことをしていない。一生懸命やってきた。なのにこの結果はどういうことなのか。もうイヤだ。そんなことだって少なくないのです。しかし、聖書はこう告げるのです。それはあなたの見通し、あなたの夢、あなたの希望が破れただけであって、何もダメではない。あなたの思いを超えた神様の御支配があり、神様の御心があり、神様の御業がある。それは、あなたの希望とは違うかもしれない。しかし、神様の御業は止まることなく前進しているのです。
 この二人の弟子は、主イエスに対して、「イスラエルを解放してくれるのはこの人だ。」との希望を持っていた。しかしそれは、主イエスの十字架の死によって終わってしまった。彼らの希望、見通しは木っ端微塵に砕かれたのです。しかし、主イエスは復活され、この二人の弟子の考えとは全く違う、神様の救いの御業を示されました。それが主イエスの復活です。そして、彼らは自分の見通しとは全く違った、主イエスの復活の証人として立てられ、全世界に神様による希望を告げる者とされたのです。私共はこの主イエスの復活を信じて聖餐に与るたびに、私共はこの神様の側からの、自分の思いを超えた次の展開があることを信じる者とされ、神様の御業へと一歩を踏み出していくのです。

 さて、この二人の弟子は食事の時、目が開かれて、復活の主イエスと出会いました。それからこの二人はどうしたでしょうか。自分たちの中にだけ、この大いなる喜びの出来事をしまいこんでいたでしょうか。そうではありませんでした。彼らは、33節「時を移さず出発して、エルサレムに戻った」のです。主イエスが復活されたという驚くべき恵みの出来事を、他の主イエスの弟子たちに知らせる為でありました。そして、エルサレムに戻ってみると、既に使徒たちが集まっており、主イエスが復活されて、シモン・ペトロに現れたと言っていたのです。この二人の弟子も、自分たちの上に起きたことを話しました。道を歩いていると復活の主イエスが近づかれて聖書の解き証しをしてくれたこと。その時心が燃えたこと。しかし、それが主イエスとは判らなかったこと。しかし、一緒に食事をすると主イエスであることが判ったこと。しかし、その姿は見えなくなったこと。このように主イエスの弟子達は、自分の身の上に起きた復活の主イエスとの出会いの出来事を語り合い、その体験を共有する群れとなったのです。自分だけの経験ではない。この友もあの友も、同じ主イエスの御復活の出来事に与っていた。その恵みの経験を皆で共有したのです。この証言の共有、神様の救いの御業の共有、それが新しいキリストの教会が最初にしたことだったのです。この救いの恵みの共有、しかも証言という形での共有。それが後に福音書という形に結実していったのでありましょう。そして、この証言の共有は、今も続いています。説教と聖餐により、私共はこの主の日の礼拝に集うたびごとに、主イエスによる救いの恵みに共に与り、それを共有しているのです。そして、そのことにより主イエスが今も生きて働き、私共と共にいてくださることを知らされ、心に刻むのです。この幸いを覚えつつ、この一週も、主イエスの御言葉に従って、御国への歩みを一緒に歩んでまいりたいと思います。

[2008年8月17日]

メッセージ へもどる。