富山鹿島町教会

礼拝説教

「道であり、真理であり、命であるキリスト」
出エジプト記 33章18〜23節
ヨハネによる福音書 14章4〜11節

小堀 康彦牧師

 今朝与えられております御言葉は、主イエスというお方は一体誰なのか、何者なのか、そのことを主イエス・キリスト御自身の言葉によって示しております。
 7節を見てみましょう。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と主イエスは告げられます。又、9節「わたしを見た者は、父を見たのだ。」10節「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」「わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」11節「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」ここで、主イエスは少しずつ言葉を変えながら、同じ事柄について語っておられます。「主イエスを知ること」は「父を知ること」、「主イエスを見ること」は「父を見ること」、そして「主イエスは父の内」おり「父は主イエスの内」におられる。ここには、主イエスと父なる神様との一致ということが告げられているのです。
 主イエスと父なる神様が同じということではありません。父なる神様は見ることは出来ませんが、主イエスは見て、触れることが出来る方です。この父なる神さまを見ることが出来ないというのは、幾つもの理由がありますが、今その内の二つを上げてみます。第一に、父なる神様は、私共が知っている物、この机であったり、イスであったり、この教会の建物のような三次元的世界の物質という形を持つ方ではないからです。ですから、そもそも神様を見ることは出来ないのです。そして第二の理由は、先程出エジプト記33章をお読みしましたが、そこに記されていた理由です。33章20節「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」ここには、神様の絶対的聖さの前に、罪ある私共は滅びるしかないということを示しているのでしょう。それはちょうど、太陽の光を直接見るならば私共の目がつぶれてしまうのに似ています。罪人としての私共は、直接父なる神様にお会いすることは出来ないのであります。だったら、私共はどうやって父なる神様を知ることが出来るのか。主イエスは明確に、「わたしを見よ。」と告げるのです。主イエスを見る者は父なる神様を見るのであり、主イエスを知ることは父なる神様を知ることなのだ。何故なら、主イエスは父の中に、父は主イエスの中におられるからだ、と主イエスは言われたのです。主イエスは、実に天地を造られた、見ることの出来ない唯一人の神様を私共に示し、私共に知らしめる為に来られた方なのです。父なる神様と一つであられる、神の独り子なのです。ヨハネによる福音書1章18節「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」とあります。この福音書の冒頭で告げられていたことが、主イエスの口を通して、今朝与えられている御言葉において、はっきりと示されたのです。父なる神様と主イエスとの一致とは、父なる神様と独り子なる神様との一致ということなのであり、主イエスがまことの神様であることを意味しているのです。
 このヨハネによる福音書14章7〜11節の部分は、教理史的に申しますと、三位一体論が形成されていく時に大変重要な役割を果たした所なのです。主イエス・キリストが、父なる神様の独り子なる神であることの根拠の一つとされた、大切な聖書の箇所の一つなのです。主イエスは神の独り子であられるまことの神である。それ故、主イエスと父なる神様は一つであり、主イエスの中に父なる神様が、父なる神様の中に主イエスがおられるということになるのであります。私共はこの神の独り子なる主イエス・キリストというお方が、天地を造られた唯一人の神様と同じまことの神であられるということの前に、沈黙せざるを得ません。これは「クリスマスの沈黙」とも呼ぶべきものです。天地を造られた神様が、何も出来ない幼な子に全てを現された。これは私共の小さな頭の中に入り切ることではありません。この神様の秘義の前に、私共は沈黙せざる得ません。

 この主イエス・キリストというお方がまことの神であられるということは、一切の偶像礼拝から私共を引き離します。偶像礼拝というのは、単に刻んだ像を拝むということだけではないのです。その本質は、私共が自分に都合の良い神様を造り出すということなのです。この小さな頭の中で、勝手に神様を造り出してしまうということなのです。偶像というものは、人間の頭の数だけ、人間の欲望の数だけ生み出されるものなのです。ですから、宝くじの神から受験の神、安産の神から健康の神、商売の神からポックリ死ねる神までいるのです。これは、私共人間の根っこにある罪の現実でしょう。旧約の歴史を見ますと、イスラエルの民は何度も何度もこの偶像礼拝の罪を犯します。その度に神様から懲らしめを受けるのですけれど、神様の元に立ち帰ってもすぐに「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、偶像礼拝の罪に走ってしまいます。どうしてそういうことになるのか。それは、目に見えない神様に対して「頼りない」という思いを抱いてしまうからなのだろうと思います。目に見える物が欲しい、そうしう欲求が私共の中にあるからなのでしょう。しかし、主イエスというお方がまことの神としてその御姿を私共に示すことによって、私共はこの方以外のいかなる目に見えるものも神としない、神とすることが出来ない、そういう者にされたということなのであります。
 8節に主イエスの弟子であったフィリポの言葉が記されています。このフィリポの言葉が示しているのは、何故旧約の歴史において何度も何度も偶像礼拝の罪が犯されてしまったのか、何故イスラエルの民は神の民でありながらそのような罪を犯してしまったのか、その理由がフィリポの目を通して示されているのではないかと思うのです。フィリポの問いは、注解書などには、主イエスが誰であるか分からないフィリポが愚かな問いを発していると記されています。確かにそのように読むことも出来るでしょう。しかし、もし私共に主イエスがまことの神であられるということが明らかにされていなければ、同じ問いを発するのではないかと思うのです。天地を造られた唯一人の神というだけでは、目に見えない神であるならば、私共はどこかで心細くなり、目に見える偶像を造りたくなってしまうのではないか。私はそう思うのです。ここに、まことの神を真実に拝むことの出来ない私共の罪、私共の愚かさが明確に示されているのではないかと思うのです。それに対して主イエスは、父なる神様とわたしは一つであるということを示して下さり、一切の偶像礼拝から決別する道を私共に開いて下さったのであります。
 それが、6節の主イエスの有名な御言葉の意味することなのであります。6節「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」主イエスが道であるということは、誰も主イエスによらなければ、父なる神様を見ることは出来ず、父なる神様を知ることは出来ず、そして何よりも父なる神様の御許に行くことは出来ないということなのです。主イエスが道であるということは、これ以外の道は存在しないという意味での道なのです。主イエスは父なる神様と人間との間に与えられた唯一の道なのです。永遠の神様と人間との間に道はありませんでした。ただ律法という道がありましたが、その道は誰一人として歩み切ることが出来ない厳しい道でした。聖なる神様と罪人である私共の間には、誰も飛び越えることの出来ない、深い亀裂があります。そこに、主イエス・キリストという道がついたのです。橋が架けられたのです。この道は、この橋は、主イエス・キリストの十字架という犠牲によって造られたものです。誰もこの主イエスの十字架という犠牲を抜きに神様の御許に行くことは出来ません。そのようなことをしようとすれば、私共は絶対的聖さの前に滅びるしかないのです。

 主イエス御自身が誰であるのか。主イエスがこれから為そうとされている十字架とは何であるのか。ちなみにこの14章は、11章から17章まで続く、最後の晩餐の時に為された長い説教の中の一部分です。明日は十字架にかかる、そういう時に語られたわけですけれど、ここで私は、この主イエスの深い、自分が誰かを示す御言葉が、トマスやフィリポによる問いに答える形で与えられているということにも注目したいと思うのです。トマスやフィリポがここで為した問いは、確かによく分かっていない者によるトンチンカンな問いであるかもしれません。トマスは、主イエスが十字架にかかり、復活し、天に昇り、父の御許に行って、私共の為に場所を用意されるという主イエスの言葉に対して、「主イエスがどこへ行くのか分からない。どの道を行けば、主イエスが行く所に行けるのか分からない。」そう言うわけです。主イエスは、このトマスやフィリポの問いを、何をバカなことを言っているのかと退けるのではなくて、これに丁寧に応え、御自身が誰であり、十字架によって何が起きるのかを示されたのであります。ここで私は、この「分からない」ということに対して正直でいいのだ、ということを思わされるのであります。主イエスと共に生活していた弟子たちにしても、主イエスが語られることが分からない。まして、私共が聖書に書いてあることは何でも分かる。そんなことはないのです。分からないことなど山程あるのです。その分からないことは分からないこととして、神様に問い、主イエスに問うていったら良い。そうしたら神様は時が来れば必ず応えて下さいますから。そのことを信じて、問い続けることが大切なのであって、分かったふりをする必要はないのです。
 田河水泡という漫画家がいました。「のらくろ」を描いた人ですが、この人の奥さんが高見沢潤子といって、小林秀雄の妹で、作家でした。この高見沢潤子さんは、私が洗礼を受けた荻窪教会の教会員で長老でした。ご主人の田河水泡さんも求道を始められたのですが、決して会堂の中に入って来ないで外の受付の所で聞いている。そういう人でした。ある時、牧師とこんんな会話をしたそうです。田河「神様はよく分からない。」牧師「私もよく分からない。神様ですから。だから、信じている。」この会話で田川さんは胸のつかえが取れて、受洗された。どこか、私共は「分かる」ということと「信仰」を同じように考えているところがあるのではないでしょうか。しかし、本当のところは、信仰というものはどうしたって行き着く先は「よく分からない」ということが残るのだろうと思います。三位一体にしても、復活にしても、終末にしても、よく分からないところは残る。うまく説明し切れるものではない。しかし、私共は信じている。それは、それを信じることが出来る根拠とも言うべきものが与えられているからでしょう。それが主イエス・キリストとの交わりなのであります。
 こう言っても良い。トマスもフィリポも主イエスが言ったことを良く分かっていないところがありましたけれど、主イエス・キリストとの確かな交わりが与えられておりました。この生き生きとした主イエスとの交わりが、彼らが既に与えられておりました救いの恵みだったのです。トマスやフィリポは、主イエスがまことの神であられることがよく分かる前から、既に主イエスとの交わりの中に生きておりました。すなわち、救いの恵みの中に生かされていたのであります。しかし、その恵みの素晴らしさにまだ気付いていなかったのです。
 私共もそうなのではないでしょうか。私共は主イエスを神の子と信じ、この主イエスの十字架の恵みの中を生かされています。天地を造られた神様に向かって、「アバ父よ」と呼びかけております。私共も又、既に神の子とされ、神の僕とされています。永遠の命に生きる希望を与えられております。しかし、この既に与えられている救いの恵みが、どんなに大きなものであるのか、どんなに素晴らしいものであるのかを、未だ十分に分かっていないのではないか。そう思うのです。しかし、よく分かっていないということと、その恵みに与っているということは別なことです。よく分かっていなくても、既に与っている。それが私共なのであります。救いに与るとは、実感することではなく、信じることなのでありましょう。既に与えられている救いの現実を信じるのです。それは、空気を吸っている実感はなくても、空気を吸って生きているのと同じです。

 主イエスは、自ら「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われました。主イエスは、「あなたのために道を備えよう。道を与えよう。」とは言われなかったのです。そのように与えられる道ならば、私共はその道から外れないように、頑張っていかなければならないでしょう。ちょうど、与えられた十戒、与えられた律法から外れないように頑張らなければならなかったイスラエルの民、ファリサイ派の人たちのようにです。しかし、主イエスは「わたしが道だ。」と言われた。この道には、人格があるのです。この道を行くということは、主イエスを信じ、主イエスと共に生きるということであります。主イエスとの交わりの中に生きることなのです。つまり、主イエスというお方を信じ、主イエスというお方と共に生きるというあり方においてのみ、私共は父なる神様の御許に行けるということでありましょう。逆に言えば、主イエスとの交わりの中に生きることを止めてしまえば、全てを失ってしまうのです。救いの希望を失い、喜びを失い、平安を失い、命を失うのです。だから、この道は命の道なのです。この主イエスというお方に、永遠の命に至る道があるからです。
 そして、この方は神そのものなのですから、この道は真理の道なのです。聖書が告げる真理というのは、数式で表せるようなものではありません。人格的なもの、命が宿るものなのです。何故なら、聖書の真理とは、天地を造られた神様そのもののことだからです。この真理には、人格的な交わりの中でこれに与るしかないのです。1+1=2に人格は関係ありません。誰が計算してもそうなります。生き方なんて関係ありません。しかし、神様という真理は、この方を信じ、この方と共に生きる中で、初めて与ることが出来るものなのであります。だから、この真理は道でもあるのです。
 あまりこの「道」という言葉の持つイメージに引きずられない方が良いと思いますけれど、「道」というのは、普通は私共の足の下にあるものでありましょう。ここには、主イエスの私共と共にあるあり方も示されているように思います。主イエスは私と共に、私の上に、私の中に、私の前に、私の後ろに、そして私の下にもおられるということなのでありましょう。私がこのことを思わされるのは、病床に教会員を訪ねる時です。この方と主イエスは今どのように共にいて下さるのか。このベッドの下に共にいて下さる。私はそう思うのです。だから枕元で祈ることが出来るのです。
 又、主イエスが道であるということは、私は明日のことを知らない、どういう道が開かれているのか分からない、特に困難な時はそう思う。しかし私共が主イエスを信じ、主イエスと共に生きるなら、この道で良いのかどうか迷い悩んだとしても、その道は神の国への道となるということなのです。私共はこの道を選んだ結果、どういうことになるのかは分からない。あの時この道を選ばなかったら、こんなに厳しい日々を送らずに済んだものを、と思うこともあるかもしれない。しかし、主イエスを信じているならば、主イエスとの交わりの中に生きているならば、たとえ何が起きたとしても、しんどくても、辛くても、この私共が歩む道は神の国へと続いている、そう言い切ることが出来るのです。だから、今週一週間、安心して、与えられている場において、精一杯、主にお仕えする業に励んで歩んでいきたい。そう思うのであります。 

[2008年6月22日高岡教会]

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