富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの昇天」
列王記 下 2章1〜14節
使徒言行録 1章3〜11節

小堀 康彦牧師

 次の日曜日、私共は聖霊降臨日、ペンテコステの記念礼拝を守ります。主イエスが十字架におかかりになり、3日目に甦り、50日後に神の霊、キリストの霊である聖霊が弟子達に降り、キリストの教会が誕生いたしました。今年のペンテコステの祝会では、教会学校の子供たちと一緒に、教会の誕生日をお祝いする計画が立てられています。このペンテコステの10日前、主イエスが復活されてから40日目に主イエスは天に昇られたと、聖書は告げております。今年の場合ですと5月1日(木)がその日に当たります。この主イエスの昇天について、私共日本の教会ではあまり注目されることがないのではないかと思います。この主イエスが昇天された日、昇天日は必ず木曜日になります。日曜日ではありませんので、教会暦を用いない私共の教会の伝統では、どうしても主イエスの昇天の日をあまり意識することがない、そういう面があるかと思います。しかし、主イエスの十字架は、その前の主イエスの地上での歩みの日々と、その後の復活と切り離して理解することは出来ないように、主イエスの復活の出来事も又、その前の十字架の出来事、そしてその後の昇天の出来事と切り離して理解することは出来ないのです。もちろん、主イエスの昇天の出来事も、その前の主イエスの復活の出来事、そしてその後の聖霊降臨の出来事と切り離すことは出来ません。主イエス・キリストというお方によって現れた父なる神様の救いの御業というものは、ずっとつながっている事柄だからです。クリスマスの出来事から始まり、主イエスの様々な御業、そして御言葉があり、十字架、復活、昇天、ペンテコステの出来事へと続いているのです。更に言えば、主イエスの誕生というクリスマスの出来事の前には、天地創造以来の旧約の歴史があるのですし、ペンテコステの後には教会の歴史が続き、そしてそれは遂には終末へと至るのであります。少し話が広がりすぎてしまいましたけれど、クリスマス・十字架・復活・聖霊降臨という流れの中で、ペンテコステの前に主イエスの昇天という出来事をきちんと受けとめたい、そういう思い、願いの中で、今日はルカによる福音書の連続講解というスケジュールから少し離れることといたしました。  聖書はこう告げます。3節「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」主イエスは復活されて、その御姿を弟子たちに現されたのは一回だけのことではなかったのです。40日にわたって弟子たちにその復活の姿を現されたのです。このことは実に重大なことであります。私共は、どちらかというと、主イエスの御復活の出来事をイースターの朝に起きた事として理解し、その後で40日間にわたって復活された主イエスが、弟子たちにその御姿を現し、教えられたということを忘れているところがないでしょうか。主イエスの復活の出来事は、一瞬のこと、イースターの朝一回だけのことではないのです。ですから、主イエスの復活の出来事を、愛する人を失った人が見た幻のように説明する人は、全く間違っているのです。この40日間にわたって、復活された主イエスはその御姿を弟子達に現し、弟子たちを教えられたのです。40日間というのは、決して短い期間ではないのです。  この使徒言行録は、私共が毎週読み進めているルカによる福音書の続きです。第一巻がルカによる福音書で、第二巻が使徒言行録なのです。ところが、ルカによる福音書に出て来る弟子たちと、この使徒言行録に出て来る弟子たちとは、これが同じ人であろうかと思う程に違っています。使徒言行録に出て来る弟子たちは、ペトロにしろ、ヨハネにしろ、実に堂々としているのです。自分の命が脅かされても、「イエスは主なり」「イエスこそ救い主、キリストである」との告白に立ち、それを宣べ伝えることを止めないのです。どうしてこのような変化が起きたのか。それは、復活された主イエスとの40日間にわたる交わり、そして聖霊を注がれるというペンテコステの出来事を考えなければ説明出来ないでしょう。弟子たち自身が、勘違い、思い違い、単なる錯覚と言って否定することの出来ない程の、復活された主イエスとの確かな交わりがあったのです。40日間にわたっての交わり。これこそ、主イエスの勝利と主イエスへの神の子・キリストとしての信仰を、弟子たちに確かなものとさせたものだったのであります。実に、主イエスの昇天を覚えるということは、主イエスが40日にわたって、復活された御姿を弟子たちに現し続けられたということを覚えることでもあるのです。  さて、復活の主イエスはただその姿を現されただけではなくて、弟子たちに神の国について話されたと聖書は告げます。神の国について話されたということは、神様の御支配について、神様の御心について、終末について、弟子たちに話されたということなのでありましょう。何を話されたのか、丁寧には記されておりません。それは、主イエスはこの時に何か新しい教えを宣べられたということではなかったということなのだと思います。既にルカによる福音書において告げられた教えを、復活の主としてお語りになられたということなのではないかと思います。  そして、復活の主イエスは弟子たちにこう命ぜられました。4〜5節「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」これは明らかに、主イエスの昇天の後に起きたペンテコステの出来事を指しています。主イエスによる救いの御業は、十字架・復活で終わったのではなくて、聖霊降臨の出来事へとつながり、教会の時代、キリスト者としての私共の日々の歩みへと続いているのです。このペンテコステの出来事へとつながる為には、どうしても主イエスは天に昇られなければならなかったのであります。いつでも、どこでも、誰とでも、主イエスが共におられる為です。目に見ることの出来ない聖霊というあり方で、私共と共におられる為には、その前に主イエスは天に昇られなければならなかったのです。  ここで、主イエスがペンテコステの出来事を告げられたのは、「彼らと食事を共にしていたとき」と聖書は告げます。この復活の主イエスと弟子たちとの食事は、聖餐というあり方で、弟子たちの中に保持され、記憶されることとなったと考えて良いのだと思います。  この復活の主イエスとの交わりの中にあっても、弟子たちはまだ十分に、主イエスによって与えられた神様の救いの御業を理解出来るようになったとは言えませんでした。ですから、使徒たちは復活された主イエスに対して、このように問うのです。6節「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」これは、主イエスが十字架におかかりになる前の弟子たちの理解とあまり違っていません。弟子たちは、復活の主イエスとの交わりの中にあっても、まだ救い主・メシアによってもたらされる神の国というものが、イスラエル民族の国家としての繁栄・栄光というところから抜け出せずにいるのです。神の国、神の支配というものが、主イエスの福音が伝えられ、主イエスの御名がほめたたえられる中で広がり、建てられていることが、まだ分からなかったのです。新しい天と地、全き神の国の到来は、その後に来るのです。この時まで、私共は福音を宣べ伝えていかなければならないのです。  主イエスはこの弟子たちの問いに対して、このように答えられました。7節「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」新しい天と地という終末の到来の時は、弟子たちの知るところではないのです。それは今も変わりません。その時は私共には知らされておりませんし、知ることが許されてはいないのです。それは、ただ父なる神様が、御心の中で自由にお決めになることだからです。  そして8節です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」聖霊が降るというペンテコステの出来事により、弟子たちは力を受けて、主イエスの証人として、エルサレムからユダヤへ、サマリアへ、そして全世界へと遣わされて行く、と主イエスは告げられました。この主イエスのお言葉どおり、聖霊が降り、弟子たちは主イエスの証人として、主イエスの十字架と復活の福音を宣べ伝える者として遣わされて行ったのです。そして、この主イエスが告げられたことは、主イエスの直接の弟子であった使徒たちから、さらにその次の弟子たちへと受け継がれ、この富山の地に福音がもたらされたのです。この主イエスの証人として遣わされる者の群、それがキリストの教会なのです。例外はありません。私共は主イエス・キリストの証人として立てられた者の群なのです。  主イエスはペンテコステの出来事を予告され、そして弟子たちが見ている中、天に上げられて行かれました。この光景は、まことに不思議なものです。ただこの昇天という出来事は、復活の主イエスにおいて起きたことなのです。私共と同じ、このタンパク質で出来た体をもって天に昇ったということではないのです。復活の体、復活体としての主イエスが天に昇られたということです。私は十分にこのことについて説明出来るわけではありません。しかし、この昇天という出来事が私共に示していることは、主イエスの復活というのは、単なる肉体が生き返ったということではないということなのです。そんなことであるならば、それではまるでゾンビです。それでは少しもありがたくも嬉しくもないし、私共の救いの根拠にもなりません。主イエスの復活というものは、死を打ち破り、復活の体という永遠の命の体をもって甦られたということなのです。それは、神の独り子としての栄光であり、まことの神としての栄光の体なのです。ですから、主イエスの昇天という出来事は、主イエスが誰であり、復活とはどういうことであるかを、私共に明らかに示す出来事となるのです。  復活された主イエスが、その復活の体をもっては天に昇られました。このことについて使徒信条は、「天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり。」と告白しております。主イエスが昇天されたということは、まるで「かぐや姫」が月に帰る場面のように、おとぎ話の世界の話ではないのです。主イエスが復活の体をもって天に昇られたということは、天の父なる神様のところにおいて、父なる神様と共に、父なる神様のように、全てを知り、全てを支配されているということを示しているのであります。昇天とはそういうことなのであります。  主イエス・キリストは今どこにおられるのか。復活の体を持つ方としては天におられ、父なる神様と共に、同じ力、同じ権威をもって、全てを支配しておられるのです。主イエスは天に昇られることにより、まことの王、まことの主としての本来の姿を私共に示して下さったのであります。主イエスというお方は、ただ素晴らしい愛の教えを与えてくれた偉い人などという存在ではなく、この世界の全てを支配されるまことの王、まことの主であることを示されたのです。そして、主イエスはその全能の力、まことの愛をもって、御自身の霊である聖霊を注ぎ、聖霊として私共と共にいて下さる方となって下さったのであります。  この主イエスの昇天の出来事に立ち会った弟子たちは、これは一体どういうことなのか分からずにいたに違いありません。彼らはただ、主イエスが昇って行かれ見えなくなった天を見つめるばかりでした。そこに、「白い服を着た二人の人」が現れます。この「白い服を着た二人の人」というのは天使を意味しています。ルカによる福音書では、イースターの朝早く、主イエスの墓に行った婦人たちに主イエスが復活されたことを語った二人の人、「輝く衣を着た二人の人」となっていますが、これと同じことでしょう。この時二人の天使は、こう弟子たちに告げたのです。11節「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」主イエスは、天に上げられたのと同じ有様で再び来られると告げたのです。主イエスが昇天されたことを覚えるということは、主イエスが再びそこから来られる、再臨されるということを覚えるということになるのであります。  二千年前に主イエスが来られた時、主イエスはマリアから生まれました。人間と同じ姿をとって、まことの人としてやって来られました。しかし、次に主イエスが来られるのは、そのような僕としての姿で来られるのではありません。主イエスが再び来られるのは、復活の体、永遠の命の体を持つ方として、神の独り子、まことの王、まことの主としての栄光を持つ方として来られるということなのであります。それは、「生ける者と死ねる者とを裁き給う方」として来られるということであります。  20世紀の聖書の研究の中心は、福音書研究に向けられました。そしてそこでは、人間イエスというところに焦点が当てられ続けたと言って良いでしょう。その研究の成果が全てムダであったとは言いません。主イエスはまことの人であり、まことの神であられるのですから、人間イエスという面も無視されてはならないのです。しかし、あまりに主イエスに対して人間という側面ばかりが強調され、まことの神という面が見えなくなってきたということは言えるでしょう。そしてそのような研究においては、この主イエスの昇天というような出来事は無視され、まともに取り上げられることはありませんでした。しかし、この主イエスの昇天という出来事は、主イエスの復活と聖霊降臨の出来事をつなぐ大切な出来事であり、まことに主イエスというお方が何者であるかを示す、無視することは許されない出来事なのであります。主イエスは天に昇られました。そして、今もそこにおられて、父なる神様と共に全てを御支配されています。そして、主イエスはやがてそこから来られ、全ての者を裁かれるのです。その日、全ての罪を赦された私共は、主イエスと同じ復活の体を与えられ、永遠の命に生きる者とされるのです。その日を待ち望みつつ、この一週もキリストの証人として、それぞれの場において生かされてまいりたいと願うものです。

[2008年5月4日]

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