富山鹿島町教会

礼拝説教

「御言葉を信頼し、生かされ、伝えよう」
詩編 119編105〜112節
テモテへの手紙 二 4章1〜5節

小堀 康彦牧師

 今日は、礼拝の後で2008年度の教会総会が開かれます。すでに配られております教会総会資料に目を通されていることと思いますが、今年度の教会聖句は、今お読みいたしましたテモテへの手紙二4章2節「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」です。これは昨年度と同じ聖句です。この聖書の言葉は、教会聖句になろうとなるまいと、私共にとりまして、自らのキリスト者としての基本的姿勢を示す御言葉であります。この聖句が教会聖句となったから、今年度は御言葉を伝えることに励もう。そんなものではありません。教会聖句であろうとなかろうと、私共は御言葉を宣べ伝えることに励むのであります。それが、私共が受け継いで来た信仰者の姿だからであります。しかし、教会聖句として2007年度、2008年度と連続でこれを選んだということには、やはり意図があるのです。それは改めて言うまでもないことですが、私共がいよいよ伝道する教会、伝道するキリスト者として整えられていきたいというねがいであります。

 このテモテへの手紙二は、使徒パウロが、自分の同労者であり、我が子と言う程に愛した、若き伝道者テモテに送った手紙です。先輩である伝道者パウロが、伝道者として後輩であるテモテに向かって、どうしても伝えておかなければならないと思ったことを記した手紙です。そこでパウロは、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」と告げるのです。これは、伝道者パウロが伝道者テモテに送った手紙なのだから当然で、ここでパウロは伝道者としての心得を記しているということなのでしょうか。勿論、そういう面はあるでしょう。しかし、私はそれだけではないと思うのです。そうではなくて、このパウロの言葉に示された姿勢、御言葉を伝える、折が良くても悪くてもそれに励むという姿勢、これこそは使徒以来、キリストの教会に脈々と受け継がれて来たし、今も息づいているものなのだと思うのです。パウロはテモテに伝えた。テモテも又、この姿勢に生き、そしてそれを次の世代に伝えたに違いないのです。そしてそれは、私共の所にまで伝わって来た。この姿勢は、キリストの福音が伝えられたなら、それと同時に必ず伝えられて来たものなのです。福音は伝えられたけれど、この御言葉を伝えていくという姿勢は伝えられることがなかった。そんなキリスト教はないのです。少なくとも、それは私共が受け継いで来たキリスト教ではありません。これは、ほとんど私共の信仰のDNA、信仰の遺伝子と言っても良いものではないかと私は思っています。
 信仰が伝えられるということは、もちろん、その信仰の内容が伝えられるわけです。キリストの十字架と復活の福音が伝えられるのです。しかし、この福音というものは、フワフワと形のないものとしてではなく、聖書、信仰告白、聖礼典、主の祈りに代表される祈りの生活、讃美歌、そういうものを必ず伴って伝えられていくものでしょう。私はそれと同じように、御言葉を宣べ伝えるという信仰者の姿勢も又、キリストの福音と共に必ず伝えられていくものなのだと思うのです。どうしてそう言えるのか。勿論ここで、福音を伝えるために粉骨砕身、自分自身の全てを伝道にの為に捧げきった伝道者の名前をいくつも挙げていくことも出来るでしょう。しかし、それだけではないのです。福音を伝える御言葉そのものに、その様な力があるからなのです。御言葉は私共に福音を伝えると共に、私共の中に宿り、私共を御言葉を宣べ伝える者へと変えていくものだからです。
 今、詩編119編105節を読みました。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」とあります。大変有名な詩編の言葉です。ここで言われておりますことは、御言葉というものが、私共が生きていく上での光であり、灯であるということです。つまり、私共が生きていく上でどうしても必要なものであり、私共はこの御言葉によって導かれて生きていくのです。御言葉が私共の人生を形作っていく、人生のガイドとなるというのです。御言葉は、ただの言葉として聖書の中にじっとしているのではなくて、光を放ち、私共の人生を導くのです。もっと言えば、御言葉が私という人間を造っていくのです。そして、この御言葉を宿し、この御言葉によって造られた私は、この御言葉を隠していることはできないのです。御言葉が現れ出てきてしまうのです。それが、私共が「世の光」とされているということなのです。
 使徒パウロは、この御言葉を宣べ伝えなさいという勧めをする前に、このように語ります。1節「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。」ここでパウロは「神の御前」「主イエス・キリストの御前」に立っています。そして、主イエスが再び来られる日、終末的神の国を見ているのです。彼は終末の神の国を見つつ、主イエスと父なる神様の御前に立つ者として語るのです。それは、彼自身が父なる神様と主イエス・キリストの御前に、しかも神の国を見つつ生きていたからに他なりません。これが、御言葉によって新しくされた人間の立っている所であり、御言葉によって生きている者の姿なのです。ここには、隠しようがない、御言葉の光が輝いているのではないでしょうか。パウロも又、主イエスの救いに与り、御言葉の光を放つ、世の光とされた者なのです。パウロは、コリントの信徒への手紙一9章16節で、「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」とまで言いました。それは少しもオーバーな言い方ではないのです。彼は確かにそうせずにはいられなかった。それは、彼が触れ、彼が宿した御言葉が、彼をそのように導いたからであります。御言葉とは、そういう力があるものなのです。

 私共が、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」という言葉を2008年度の私共の教会聖句に選んだということは、私共自身がこの御言葉の力に触れ、この御言葉の導きの中で生かされたいと願ったからであります。私は、何も声を大にして「皆さん伝道しましょう。」と言いたいわけではないのです。伝道が掛け声で出来るとは思っていません。そうではなくて、御言葉を宿し、御言葉に生かされている私共の存在そのものは、伝道するということ無しに生きることは出来ないのです。私共は、御言葉を宣べ伝えないではいられない程に、私共の存在が御言葉と深く、強く結びつけられた者として生きたいのです。
 私共の教会は、今年も伝道集会を開きます。クリスマスにも人々を教会へと誘い、招きます。しかし、それだけが伝道だと考えて欲しくないのです。それは私共が為す、御言葉を宣べ伝える営みのほんの一部なのです。私共が生きている、毎日毎日の人々との出会い。家族であれ、地域の人であれ、友人であれ、職場の人であれ、その人と顔を合わせる日常の生活、それが伝道の場なのです。そこにおいてこそ、私共が世の光として、御言葉を宿す者として一人一人と接しているかどうか、そこが肝心なところなのであり、問われるところなのです。そんなことを言うと、気楽に人と会うことも出来ないなどと考えてしまう人もいるかもしれません。もちろん、私共は伝道目的に人と接していくのではありません。そんな下心を持っていたら嫌がられるだけですし、健やかな人間関係を作ることも出来ないでしょう。私共は、気楽に、普通に生きていれば良いのです。ただ、そこでは必ずキリストに救われた者としての何か、それをキリストの光、御言葉の光と言って良いでしょう、それが出てしまうものなのだということなのです。これは隠すことは出来ないのです。問題は、このキリストの光が、どれだけ私共の罪に邪魔されず、きれいに輝くかということであります。私共には罪がありますから、いつもキリストの光だけが輝き出ている、そういう風にはならないからです。
 私は、この為には、何も特別な方法があるわけではないと思っています。それは、私共が御言葉にどれだけ多く、どれだけ長く、どれだけ深く触れているかということに尽きるのではないかと思うのです。私共は御言葉によって導かれ、御言葉によって形作られていくのですが、その為にはどうしてもいつも御言葉と触れていなければならないのです。何か時々思い出したように聖書を開く。それでは、私共の日々の生活が御言葉によって導かれていくということにはならないのではないでしょうか。そして、そのような私共であるのであるならば、とても御言葉を宣べ伝えていくなどということは出来ないでしょう。私は、皆さんに具体的に一つのことを提案したいと思います。それは「礼拝+1(プラスワン)」ということです。毎週の礼拝を守り、御言葉に与る。日曜日、朝の礼拝を守れないのなら、夕礼拝を守る。その為に夕礼拝をしているのですから、ぜひもっと利用していただきたい。この御言葉へのにじり寄るような、御言葉を慕う思いを大切にしたいのです。そして「+1(プラスワン)」です。
 昨年、私共の教会では北部集会、東部集会が新しく開かれました。これで家庭集会は4つとなりました。子育て中のお母さんたちの為の「ノアの会」も始まりました。祈祷会は昼と夜に開かれています。そのどれかに出て欲しいのです。御言葉に触れる時を増やして欲しいのです。その為には、今までと同じ生活をしていたのでは出来ないのであって、どうしても御言葉に触れる為に生活を整える必要があるでしょう。私は、「礼拝+1」の為に、それぞれが生活を整えて欲しいと心から願っているのです。年齢のこともあり、体調のこともあり、なかなかそうもいかないという方もおられると思います。そういう方は、聖書を学び祈る会のレジメを求めて下さい。一週遅れになりますが、それを読んで、教会で持たれる聖書を学び祈る会と同じように、祈りを合わせていただきたいと思うのです。どうすれば自分の生活を御言葉で満たしていくことが出来るのか。そのことを考え、その為に生活を整えて欲しいのです。その一歩を踏み出していくならば、私共は必ず変えられていきます。私共は、この御言葉の力を信じて良いのです。御言葉は私共の中に宿り、私共を造り変えていきます。それは自分で分かるような変化ではないかもしれません。きっと自覚症状はないでしょう。何故なら、御言葉による変革は自然に為されるからです。この自然に変わっていくということが素敵なことなのです。自然に変わっていくように見える変革は、その人の根本からの変化であり、それ故、身に付いた変化だからです。その変化の中で、私共はいよいよ「世の光」であることの使命を果たすことが出来るのであります。

 私共は伝道したいのではないですか。だったら、私共自身が御言葉に満たされなければなりません。そのこと抜きに、どうしたら伝道出来るかといった方法ばかり考えてもしょうがないのです。御言葉を信頼し、御言葉の力に打たれ、その御言葉を我が身に宿していかなければなりません。それ以外に方法はありません。御言葉を宣べ伝えるということは、他でもない「私」がしなければならないのです。誰かがやってくれるものではないのです。そこには熱がなければならないでしょう。しかし、その熱は「私の熱」ではありません。御言葉が持つ熱です。神の熱情です。神様は熱いのです。愛するただ独りの御子をその為に十字架にお架けになるほどに熱いのです。そして、全ての民を救わんとするこの神様の熱情が、神の言葉である御言葉には宿っているのです。伝道というのは、神様の御業です。徹底的に神様の御業です。神様はその御業に私共を用いる為に、私共を選び、キリスト者として下さったのです。そして、その神様の御業の器として、道具として私共を造り変え、整える為に、神様は私共に御言葉を与えて下さっているのです。
 パウロは「折が良くても悪くても励みなさい。」と語ります。パウロの伝道者としての生涯は、決して順風満帆であったわけではありません。それどころか、うまくいかない時の方が多かった。しかし、彼は語り続けました。彼の中に御言葉が宿っていたからです。そうしないではいられなかったからです。私共もそうです。私共もあきらめません。自分の子に、孫に、夫に、妻に、友人に、御言葉を伝えることを止めることは出来ないのです。神様が熱情をもって、それを求めておられるからです。
 御言葉を求めてやまない群。そこには、御言葉が宿り、御言葉の力が満ちあふれていくでしょう。そして御言葉は、私共の中に宿り、御言葉を宣べ伝える者として遣わしていくのです。御言葉に養われることと、御言葉を伝えていくことは、ひとつながりの神の業なのです。御言葉に養われていながら、御言葉を伝えていかないということなどはあり得ません。そして、御言葉に養われることなく、御言葉を伝えていくということもあり得ないのです。
私共は自分で結果を求めてはいけません。私共に求められていることは、御言葉を宣べ伝えることです。折が良くても悪くてもです。その結果は神様の御手の中にあることです。御言葉を宣べ伝え、首尾良く御言葉が伝わり、神様の救いに与る者が起こされるなら、私共にとりまして望外の喜びであります。しかし、たとえそのような結果が与えられないとしても、私共は御言葉に養われ、生かされ、伝えていくことに怠惰であってはなりません。怠惰という罪と私共は戦わなければならないのです。何よりも、御言葉を求めることに対しての怠惰と戦わなければならないのです。御言葉に養われる。そこから全てが始まります。その為に、もう一歩を踏み出しましょう。「礼拝+1」です。 

[2008年4月27日]

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