礼拝説教「仕える者として」レビ記 25章39〜46節 ルカによる福音書 22章24〜30節 小堀 康彦牧師
先週、最後の晩餐の場面、主イエスが聖餐を制定された場面から御言葉を受けました。そこでは触れることは出来ませんでしたけれど、主イエスはその時、イスカリオテのユダの裏切りを見通しておられました。そしてこう言われたのです。21節「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」主イエスと弟子たちとの最後の晩餐、そこには重苦しい雰囲気が生まれたことだろうと思います。そして23節には「そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。」とあるのです。弟子の中の一体誰が主イエスを裏切ろうとしているのかと議論し始めたのです。自分はそんなことをしようとはしていない、お前だろう。いや、自分ではない、お前の方こそ。多分、そんな言い合いが続いたのではないかと思います。厳粛な聖餐を制定する場面に続いて、このような使徒達の言い合いの場面が続いたのです。このような場面を見ますと、主イエスの十二人の使徒たちというものが、決して理想的な主イエスの弟子と言えるような者たちではなかったということが分かります。私は、こういう場面も又大切な所だと思っています。主イエスの弟子というものは、始めから主イエスの弟子としての品性や人格というものが備わっていたわけではないということが明らかになる所だからです。主イエスの弟子というものは、変えられていく者なのです。それは主イエスの弟子たちの集まりである教会も同じことであります。始めから立派な主イエスの弟子たちの群というわけではないのです。主イエスによって訓練され、変えられ、キリストの体にふさわしくされていく。変えられ続けていく群れなのであります。
確かに情けない話しであります。しかしこの問題は、教会においては問題にならなかったかと申しますと、そうではありません。この問題は、その後のキリスト教会の歴史においても繰り返し繰り返し問題となったのです。西方教会、これはローマ・カトリック教会ですが、これと東方教会、これはギリシャ正教です、これが分裂するという問題が起きました。これには様々な原因があります。もちろん、神学的に言えば、三一論における聖霊の位置をめぐっての議論が最大の要因です。又、ラテン語とギリシャ語と、使う言葉が違っていたということも大きな要因でしょう。ローマ帝国が西ローマ帝国と東ローマ帝国に別れたというのも大きな要因でしょう。しかしそれだけではないのです。ローマ・カトリック教会が「ローマの主教の首位権」を主張した、これも大きな原因だったのです。大きな都市には、主イエスの弟子たちを受け継ぐ主教と呼ばれる人がおり、この人を中心にその地方の教会はまとまっていたわけです。当然、東にはコンスタンチノープルもあり、エルサレムを始め、アンティオケアやアレキサンドリアなど、キリスト教の中心地の大半は地中海の東側、東方教会側にあったのです。東方教会の伝統では、その主教の間に上下の関係はありません。主イエスの弟子たちの間に上下関係はなかったからです。しかし、その中でローマだけが、ペトロの後継者を名乗り、自分達は主教の中でも首位である、一番偉いと言い出した。東方教会はそれを認めるわけにはいきません。そして、ついに分裂に至ったのです。
弟子の中で誰が一番偉いのか。まことに愚かな議論のように見えますけれど、私共は、すでにこの議論は終わっている、このような問題は超えている、なかなかそう言い切れないところがあるのではないかと思います。これは、私共の罪と結びついた問題だからであります。この問題は、私共が自ら戦わなければならない問題として残っている、そう言わざるを得ないのだと思います。
恥ずかしいことでありますが、私は伝道者として歩み始めた頃、このことが良く分かっておりませんでした。言葉ではもちろん知っておりました。しかし、仕える者として生きるということが、文字通り、身も心も仕える者となるということが分かっていなかったのです。頭のどこかで、牧師は重んじられて当然だという意識があったのだと思います。穴があったら入りたい思いですが、牧師になったばかりの頃、老齢の婦人の長老に、「先生、長く教会に来ていない人の所へ訪問してもらえませんか。」と言われました。今でしたら、「そうですね。誰の所へ行きましょうか。一緒に行きましょう。」、そんな風に答えるかと思います。しかしその時は、何と「元気で、自分の足で教会に来られる人の所へ、どうしてこちらから行かなければならないのですか。酒屋のご用聞きでもあるまいし。」と言ったのです。今思い出しただけでも、顔から火が噴き出しそうになる言葉です。「酒屋のご用聞きでもあるまいし。」という言い方の中に、私の傲慢さがはっきりと現れています。何と思い上がった若い牧師でしょう。酒屋のご用聞き、大いに結構です。しかしその時、老齢の婦人の長老は、笑いながら、「何か、この牧師さん、偉そうやわ。」と言われたのです。この言葉で私はハッとしました。自分は何者なのか。仕える者として遣わされたのではなかったか。この老婦人の長老の一言に、自分の心の底を見透かされたような気がして、本当に恥ずかしくなりました。
主イエスは29節で「だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。」と言われます。これは驚くべき言葉です。父なる神様が主イエスにこの世界の支配権をお与えになられたのと同じように、主イエスは弟子達にこれを与えるというのです。これは主イエスの弟子たち、すなわち教会に与えられた権威・権能というものを示しているのでありましょう。教会にはこのような驚くべき権威・権能が与えられているのです。これはマタイによる福音書16章18〜19節にあります鍵の権能と重なるでしょう。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」とマタイによる福音書にはあります。確かに、教会には洗礼・聖餐という恵みの手段が与えられています。また、聖書が与えられており、これを解き明かす務めも与えられています。これによって教会は、主イエスが与えてくださった救いへの道を人々が歩めるようにと導くのです。それが教会の役目です。しかし、この教会の権威・権能というものは、「仕える者として生きる」ということの中で語られているのです。ことは重要であります。この教会に与えられている権威・権能というものは、決して人々の上に君臨するようなものとしてあるのではないのです。そうではなくて、主イエスが仕える者として歩まれたように、教会も又人々に仕えるという営みの中で、この権威・権能というものは発揮されるものなのだということなのであります。この姿勢を忘れたならば、教会はキリストの体としての姿を失ってしまうということなのであります。教会という存在は、そういうものなのです。 続いて主イエスはこう言われます。30節「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」これは、この世では仕える者としてしんどいかもしれないが、神の国ではあなたがたが王となるのだから、今の間は我慢しなさい。そういうことではないだろうと思います。そうではなくて、実にこの仕える者として生きるという道は、神の国へと続いているということ、それを主イエスは語られたのであります。ここに私共が見据えておくべきことがあるのです。私共が仕える者として生きるというのは、人から、良い人だ、謙遜な人だと言われる為ではないのです。私共が仕える者として生きたとしても、人はそんな風には見るとは限らないし、いよいよ私共をバカにするということだって起きるかもしれないのです。しかし、そんなことはどうでも良いのです。人から何と見られるか、そのような思いから自由になるようにと、私共は仕える者へと召されているのです。仕える者として生きる。この道は、神の国へと続いているのです。ここに私共がこの道を歩んでいく喜びと希望があるのです。主イエス・キリストは、仕える者として生きる者と共にいてくださいます。ここに、私共の平安があるのでしょう。祈ります。 [2008年4月20日] |