富山鹿島町教会

礼拝説教

「イスカリオテのユダ」
歴代誌上 21章1〜13節
ルカによる福音書 22章1〜6節、47〜53節

小堀 康彦牧師

 主イエスが十字架におかかりになった時、一人の弟子が主イエスを裏切りました。イスカリオテのユダです。受難週の日々、主イエスは神殿の境内で人々に教えを宣べておられました。その間、律法学者や祭司長たちと論争されたこともありました。そういう中で、律法学者や祭司長たちは、主イエスを殺そうと考え始めたのです。19章47〜48節、主イエスがエルサレムに入城され、最初に行った宮清めの時、すでに彼らは「イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。」とあります。又、主イエスがぶどう園と農夫のたとえ話をされて、このたとえ話によって、自分たちに当てつけている。あなたたちは神様から遣わされた者を袋叩きにして、神様のものを自分のものにしている。そう非難されていると思った時、20章19節に「イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。」とあります。主イエスはエルサレムに入られるとすぐに、律法学者や祭司長たちから殺そうと思われる程になってしまったのです。それは、主イエスが律法学者や祭司長たちが持っていた力や権威の根本に対して、疑問を呈し、民衆がそれを支持していたからであります。しかし、この主イエスと律法学者たちの関係は、主イエスがエルサレムに入られて初めて悪くなったわけではありません。ルカによる福音書の11章37節からで、主イエスは面と向かってファリサイ派の人々、律法学者たちを批判したのです。そして、11章53〜54節「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。」とあるのです。主イエスが活動を始められたかなり早い段階で、主イエスと当時のユダヤ教の指導者たちとの間には対立関係が生じていたと考えて良いと思います。宗教的権威をもって自己保身を図ろうとする人々に対しての主イエスの批判は、受け入れられるはずもなく、激しい拒否と殺意を生んだのです。邪魔者は消せ、ということです。そう、主イエスは祭司長や律法学者たちにとって邪魔者だったのです。しかし、主イエスの周りにはいつも民衆がいる。主イエスに手を出すことが出来ずにいた彼らのところに、主イエスの弟子の一人であるイスカリオテのユダが、主イエスを引き渡そうと話を持ちかけたのです。祭司長たちにとっては、渡りに船でした。彼らは喜んでユダの申し出を受け、金を与えることを決めました。ユダは、主イエスの周りに群衆がいない時に主イエスを引き渡すことを約束し、その時を待ったのです。

 何故、イスカリオテのユダは主イエスの弟子でありながら、このように主イエスを裏切るというようなことをしたのか。この問題は、聖書の中の最も深い謎の一つであると言って良いでしょう。二千年の間様々な立場からいろいろと論じられて来ました。皆さんも、一度は考えたことがあるだろうと思います。このユダという人は、多分、主イエスの弟子の中で、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてパウロ、その次に有名な弟子と言っても良いでしょう。多くの小説家は、このユダに小説家ならではの想像力をもってアプローチしました。小説家だけではありません。多くの人々が、何故ユダは主イエスを裏切ったのかという問いに対して、様々な答えを出して来ました。
 いくつか例を挙げれば、一つは、ユダはお金が欲しかったというものです。マタイは、ユダは主イエスを裏切って銀貨30枚を手に入れたと記しています。銀貨30枚というのは、一日の労賃がデナリオン銀貨一枚ですから、一ヶ月の労働者の賃金ということになります。20〜30万円というところでしょうか。又、奴隷一人の値段でもありました。なんとも安いという気がします。最近はこのように言う人はほとんどいないようです。単純すぎると言うことなのでしょう。
 又、別の説では、ユダは熱心党だった。ユダヤがローマから独立し、誇り高きユダヤの民として生きることを何よりも望んでいた。ここからいろいろな考えが出て来るのですが、一つは、だからユダは主イエスの説く神の国に満足出来なかった。ユダはもっと現実的に、この手で、目に見える力で、ユダヤ人によるユダヤ人の為の国を建てたかったのだ。裏切ったのはユダではなく、主イエスがユダの期待を裏切ったのだというのです。もう一つは、ユダは最後まで主イエスに期待していた。主イエスはメシアだ。天の万軍を引き連れてローマを叩くとユダは期待し、信じていた。しかし、主イエスは少しもローマと戦おうとしない。そこでユダは、自分が十字架にかかるという極限状況になれば、主イエスは天の軍勢を呼び、ローマの兵隊を滅ぼすだろう。そう考え、期待し主イエスを裏切ったというのです。
 私の印象では、何故ユダは主イエスを裏切ったのかという問いに対して、ユダは本当は悪気があったんじゃない、そんな風にユダを弁護する、ユダの肩を持つ説が最近は多くなっているように思います。しかし、この問題は本当の所はよく分からないのです。分からないから二千年の間、いろんな人がいろんな風に言って来たのでしょう。しかし、聖書はこれに対して、一つの明確な答えを持っています。3節「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」と聖書は記しているのです。

 何故、ユダは主イエスを裏切ったのか。これに対して、ユダの心理、心の動き、いわゆる動機のようなものを想像して説明するということには限界があります。聖書は、それに必要な材料を十分に提供することはしていないからです。それに、そのような心理的動機といったもので説明出来る程、人間というものは単純ではないのではないかとも思います。聖書は明確に、「サタンが入った」と告げます。これは、全てを説明しているとも言えるし、これだけでは何も説明していないとも言えるのかもしれません。
 「サタンが入った」とは、どういうことなのでしょうか。先程、歴代誌上21章を読みました。その第1節に「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。」とあります。何故ダビデは人口調査をしたのか。そのことを、聖書は何故「サタンがダビデを誘った」と言っているのか。ここでの人口調査の目的は一つです。それは、軍人となれる成人男子の数を知ることによって、自分たちの兵力を知るということでした。ですから、5節で「ヨアブは調べた民の数をダビデに報告した。全イスラエルには剣を取りうる男子が百十万、ユダには剣を取りうる男子が四十七万であった。」という言い方がされているのです。単純な人口ではありません。「剣を取り得る男子の数」なのです。王様なら、自分たちの兵力を知るというのは当然のことでしょう。イスラエル以外の王様がこれをしても、何の問題もなかったと思います。しかし、神の民イスラエルのまことの王は神様です。そして、神の民の戦いというのは、この神様の導き、御支配の中で為されるのであって、単に兵力によって決する戦いではない。神様が導き、支配し、起こされる「神の戦い」なのです。それを、ダビデは自分の国の兵力を知ることによって、自分の力で戦おうとした。神様の戦いを、自分の戦いにしようとした。それが、「サタンがダビデを誘った」ということの意味なのです。
 ということは、イスカリオテのユダの中にサタンが入ったということも、これと同じように考えることが出来るでしょう。つまり、ユダも神様の思いではなくて、自分の考え、計画、計算によって、事を進めようとしたということなのではないでしょうか。ユダの中にどのような考え、思いがあったとしても、つまり動機がどういうことであったとしても、ユダは神様の御計画というものに信頼することが出来ず、自分の考えた計画に従い、これを行おうとした。それがユダの中にサタンが入り、主イエスを裏切ったということなのではないかと思うのであります。

 このユダと正反対の歩みをされているのが主イエス・キリスト御自身なのではないかと思うのです。主イエスが群衆に囲まれていない時、それは夜の祈りの時でした。主イエスはいつものように、オリーブ山で祈りました。ゲツセマネの祈りと呼ばれる祈りの時です。十字架の前の最後の祈りの時でした。ユダは、主イエスが夜になると祈る為にここに来ることを知っていました。そしてこの夜、ユダは祭司長たちと共に主イエスの所に来たのです。当時の夜です。現代の夜とは違います。松明であれ何であれ、何らかの明かりがなければ、歩くことは出来なかったでしょう。主イエスは弟子たちと一緒にいました。その中の誰が主イエスなのか、主イエスを捕らえに来た人たちには見分けがつかなかったに違いありません。そこで、ユダが主イエスに近づき、接吻したのです。これが、ユダの合図でした。自分が接吻する人、それがイエスその人であると打ち合わせていたのです。接吻というのは、親愛の情、敬愛の情を込めてする当時のイスラエルのあいさつです。その接吻をもって、ユダは主イエスを裏切ったのです。どんな思いでユダは主イエスに接吻をしたのか、ここでもつい気になってしまいますけれど、そこに立ち入るのは止めましょう。この時、ユダにはサタンが入ってしまっていたことだけを確認するにとどめましょう。
 主イエスの弟子のある人、ヨハネによる福音書にはそれがペトロであったと記してあります。彼は主イエスを捕らえに来た人に剣で斬りつけ、右の耳を切り落としました。主イエスは、「やめなさい。もうそれでよい。」と言われ、争うことを止めさせます。そして、耳を切り落とされた人の耳に触れ、癒されました。そして、「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」と言われて、捕らえられたのです。
 群衆が主イエスの周りにいる時には主イエスに手を出せなかった人々が、夜、周りに誰もいない時、主イエスを捕らえたのです。「闇が力を振るっている」とは、そういう時です。主イエスは、この闇が力を振るっていることを知っています。そして今、闇の力に敗北したかのように、捕らえられていくのです。しかし、主イエスはこの時、その直前のゲツセマネの園の祈りにおいて、御自身が十字架におかかりになることが神様の御心であることを確認し、これに従うことを決めておられたのです。だから主イエスは黙って囚われの身となったのです。主イエスはこの捕らわれる時にも、21章でご自身がお語りになった終末的神の裁き、神の支配と勝利を信じています。そして、今は闇の力に身を任せられたのです。
 闇が力を振るう、そういう時があるのです。まるで神様の御支配はどこに行ってしまったのかと思えるような時、そういう時代があるのです。この教会が建てられて120年。教会の歴史としては短いものですが、その間にも私共の教会は闇が力を振るっていると言わざるを得ない時代を通って来ました。先の大戦の時がそうでした。しかし、神様の御支配は、結果としては少しも揺るがなかったのです。私共はそのことを信じる者として召されているのです。もし、このことが信じられないのであれば、私共は全ては自分の力で何とかしていかなければならない、そういう世界に生きなければなりません。しかし、それはサタンの誘惑なのです。その誘惑に負ける時、私共の中にサタンが入ってしまう。主イエスを裏切っても、自分の思い、計画、理想が成れば良いと思い始めるのであります。

 聖書は、ユダが特別悪人であったと言っているのではありません。「十二人の中の一人」と言っているのです。それは十二弟子の誰もがユダになる可能性があったということでもあるでしょう。私共もユダになる可能性がある。それを否定することは出来ません。しかし、だからといって、ユダになっても仕方がない。そうは言っていないのです。
 このユダについて、私には一つの思い出があります。もう30年も前になるでしょうか。教会の青年会でユダについて話し合ったことがありました。カール・バルトの「イスカリオテのユダ」という本を読んで来た人もいましたし、福音書を注解書で丹念に調べて来た人もいました。青年なりにいろいろと調べて、論じ合いました。ユダは救われるのかどうかという話にもなりました。又、主イエスがユダを選んだのではないか。主イエスも神様も全てを知った上でユダを選んだのではないか。だとすれば、ユダが主イエスを裏切ったのも、神様の計画の中のことではないのか。そんなことも話されました。しかし、全体の流れとしては、ユダに同情的と言いますか、ユダの気持ちになってみれば、こうするしか仕方がなかったのではないか。ユダをあまり批判しない、自分たちは批判出来ないのではないか、そんな話しの流れになっていたのではないかと思います。その話を聞いていた牧師が、青年たちが話している時には一切口をはさまずに聞いていたのですが、最後に一言ということで語られたのはこういうことでした。私は、この牧師の言葉を忘れられません。語られたことは二つです。一つは、「ユダに興味を持つより、パウロやペトロに興味を持ちなさい」ということ。もう一つは、「聖書は私たちがユダのようにならないようにと教えている。ユダになっても仕方がないとは教えていない。」というものでした。
 私はユダについて考える時、自分が若い時に教えられたこの牧師の言葉をいつも思い出すのです。自分の興味、関心に引き付けてユダについて考えるのではなくて、聖書が語ろうとするところに従って考えなければならない。そうしないと、ユダという入れ物に、私共はすぐに自分の考えや理解を詰め込もうとする。しかも、このユダという入れ物は、主イエスを裏切ったという入れ物ですから、主イエスに従おうとしない思いは何でも詰め込めるわけです。ユダ理解というものの中には、そのような自分たちの中にある、奥底に潜んでいる主イエスに従おうとしない思いを投影させるということが起きやすいものなのです。確かに、私共には、ユダに何となく心が引かれる、興味を持つ、同情してしまう、そういうところがあります。それは、私共の中にある罪とユダという存在が共鳴するからなのだろうと思います。接吻という、最も親愛の情を表す行為をもって主イエスを裏切ったユダ。私共はそのような者となってはならないのです。私共は、主イエスへの接吻をもって主イエスを裏切るのではなくて、主イエスを心から敬愛し、主イエスに従う者となるのです。そのような者として召されているのです。

 私共は、今から聖餐に与ります。キリストの肉、キリストの血に与り、キリストと一つにされた者として私共は生きるのです。自分の思いや計画を第一とするのではなくて、神様の御心に従うことを第一とする者として生きるのです。私共はユダに倣う者ではなく、主イエスに倣う者として召されているからです。この一週間、御心のままに、私共を主の御業の為に用いられることを、心から願うものです。

[2008年4月6日]

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