富山鹿島町教会

礼拝説教

「終末の徴」
エレミヤ書 29章4〜9節
ルカによる福音書 21章5〜19節

小堀 康彦牧師

 先週は一週間、教団の春の教師検定試験の為に東京へ行っておりました。この春神学校を卒業して任地へ遣わされる方々が52名、神学校に行かないで何年もかけて試験を受ける方が15名、昨年の秋に不合格になった正教師の受験者が13名、合計で80名の方が受験されました。それぞれの学科の試験と採点、そして一人一人との面接がありました。一日の仕事が終わりますと、頭が痛くなるようなきつい日々でした。全員が合格したわけではありません。しかし、一人一人と面接をしながら、神様はこれらの伝道者を立て、救いに与る者と起こそうとされている。教会に集う主の民を養い育もうとされている。その主の御業に触れ、心を熱くされました。一人一人に主の御業があり、主が生きて働いておられることを知らされてまいりました。
 こんな方もおられました。韓国の方で、日本の大学に医学博士となる為に留学され、博士号を取得されたのですが、急な病で奥様を天に送ります。そこで日本伝道の為の召命を受け、お子さんを抱え、コンビニでアルバイトをしながら神学校に行かれ、4年間の学びを終えて任地に行く。故国を離れ、この日本の為に伝道しようとされる伝道者の姿に、心を揺り動かされました。また、音楽大学を出られ、海外留学もされ、その後で献身の志を与えられ、神学校に進み、伝道者として遣わされる女性の方もいました。若き日に召命を受けながら、神学校に行く決心がつかず、20年、30年して、やっと決心がついたという人もおられました。一方、高校を卒業してすぐに神学校に行かれ、24歳でこの試験に臨まれている方もいました。お一人お一人に、神様との出会いがあり、神様の導きがありました。この伝道者達は、遣わされた地において、様々な出来事に出会うでしょう。遣わされた場所で、楽な所などどこにもありません。山陰の小さな町に遣わされる者がおりました。四国の山の中の小さな教会に遣わされる者がおりました。一人一人、どうか逃げ出さず、そこで踏みとどまって、生きて働き給う神様の御業の証人として立っていっていただきたい。そう心から祈りました。逃げ出さない。持ちこたえる。このこと無しに、主の福音が伝えられていくことはあり得ないからであります。

 今朝与えられております御言葉において、主イエスは、18〜19節において「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と言われました。生ける神様の守りの中で、髪の毛一本も失われることはないのだから、忍耐せよ。持ちこたえよ。そして、永遠の命をかち取れと言われているのであります。今朝与えられております主イエスの御言葉は、世の終わり、終末が来る前に起きる様々な徴について語られた所です。この終末に関する主イエスの御言葉は、福音書の中で最も難解と言われている所でもあります。
 話のきっかけは、主イエスが人々と話しておられたエルサレム神殿において、その神殿の素晴らしさ、立派さを人々が話していたことでした。このエルサレム神殿は、ソロモンが建てたものではありません。ソロモンが建てた神殿はバビロン捕囚の時に壊され、バビロンから戻って来たイスラエルの民が建て直したものです。ですからソロモンの神殿とは区別されて、第二神殿と呼ばれたりもします。この第二神殿は、建てられてから主イエスの時代まで、すでに500年程たっていたのですが、もうこれで完成ということではなくて、主イエスのこの時代でもまだ手が加えられ、さらに立派に、豪華になっていたものでした。このエルサレム神殿は、イスラエルの人々の誇りでした。当時の文献には、「朝日が昇ると、それはまばゆく照り輝いて、見る者は思わず目をそらさずにはいられなかった。まるで直射日光を受けたような感じだった。」とあります。たくさんの金が使われており、その金に覆われた建物は、朝日を受けて金色に輝いたのでしょう。エルサレム神殿に来た人は皆、この神殿の立派さに驚き、目を見張ったのです。しかし主イエスは、この神殿に対して、こう言われたのです。6節「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」つまり、この神殿は瓦礫の山になる日が来る。そう言われたのであります。これを聞いた人々は驚いたに違いありません。この立派な神殿が瓦礫の山になる日が来る。そんなことを見通せる人がいるとは。  私共は、目に見える所しか見えません。もっと言えば、自分の目が黒いうちのことしか考えないし、考えられない。それが正直な所だろうと思うのです。しかし、主イエスはその向こうを見ておられたのです。この主イエスの言葉は受難週における言葉なのですから、数日後には主イエスは十字架におかかりになって死ぬのです。しかし、主イエスの眼差しは、その自分の死の向こうに向けられていた。誰もが驚嘆して見ているエルサレムの神殿に対して、やがて瓦礫の山となるということを見通しておられたのです。そしてそれは、この主イエスの言葉から40年程後の紀元後70年、ローマ軍によるエルサレム陥落により、本当に起きてしまったのです。世界中のユダヤ人が集まり祈りをささげている、現在のエルサレムにある「嘆きの壁」というのは、この神殿の唯一残った物なのです。神殿はあの壁一つしか残さずに破壊し尽くされたのです。
 主イエスがお語りになった預言というのは、天気予報のように、どこの地方は明日の何時頃から雨になるというようなものではありません。主イエスはここで、終末が必ず来る、そしてその終末に至るまでの神の民の歴史、人類の歴史を見通して語っておられるのであります。つまり、現在の目に見えるものをいつまでも続くと思っている私共に、その目に見えるものは一時的なものに過ぎない。それ故、それを頼りにして生きてはならない。それはやがて崩れ、跡形もなくなる日が来る。だから、目に見えないけれども、全てを支配しておられる神様を見上げて生きよ。そう言われたのであります。しかし、主イエスがエルサレム神殿の崩壊を告げたものですから、人々は、それは何時起きるのか、それが起きる時にはどんな徴があるのかと尋ねた。主イエスはそこで、エルサレム神殿の崩壊の時のことではなくて、それをも含む、終末に至る歴史を告げられたのです。それが8節以下において主イエスが語られたことなのです。ですから、この主イエスの言葉を用いて、主イエスはこう言われたのだからこの出来事はこれを指している、あれを指している、だから終末がもうすぐ来る。そんな風に読む所ではないのです。主イエスがここで言われた徴は、世界規模で見るならば、いつの時代でも起きていることばかりなのですから。

 8〜9節「イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「私がそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。』」ここで大切なのは「惑わされないように気をつけなさい。」ということなのです。惑わすような人が次から次へと現れて来るからです。最初に挙げられている惑わす人とは、主イエスの名を名乗る者です。偽キリストです。自分がキリストの生まれ変わりだと言ったり、自分はイエス・キリスト以上の者であるという人が出て来るのです。こういう人は、いつの時代にも現れて来るのです。現代にだっているのです。しかし、そのような人に惑わされてはならないのです。次は、戦争や暴動が起きると、もう世の終わりだと言う人が必ず出て来る。しかし、それにも惑わされてはいけないと主イエスは言われたのです。
 10〜11節「そして更に、言われた。『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。』」ここで言われているのも同じです。戦争、地震、飢饉、疫病。どれもそんなことが起きれば人々は不安になります。そうすると、その不安を利用して惑わす人が現れる。しかしこういうものが二千年の間、地球規模で見るならば起きていない年など一年もないのです。地球上のどこかで、いつでも戦争があり、地震があり、飢饉があり、疫病がはやったのです。主イエスは、そういうものが起きたら終末が来ると言われたのではなくて、そういうことが起きても惑わされてはいけないと言われたのです。主イエスの終末に関する預言というのは、それによって人々を不安にさせるためのものではないのです。そうではなくて、その様なことが起きても私共が惑わされることなく、信仰に堅く立ち続けることが出来るように語られたことなのです。
 そして、12節以下に記されておりますのは、迫害です。この主イエスの言葉を、ローマ帝国によるキリスト教への迫害の預言と読む人もいます。もちろん、それも含むでしょうけれど、キリスト教が迫害を受けたのは、何もローマ帝国の時代だけではないのです。江戸時代の日本の踏み絵にしてもそうでしょう。ちなみに、檀家制度というのは、江戸時代にキリシタン弾圧の為に作られた制度であることは知っておいて良いでしょう。先の大戦の時の日本もそうでしたし、共産主義時代のロシア、中国においても大規模なキリスト教への弾圧・迫害がありました。教会はつぶされ、教職はシベリヤに送られ、宣教師は国外へ追放されたのです。そんなことはない方がいいに決まっています。しかし、主イエスは歴史を見通して、それは起きると言われた。それは、たとえそのようなことが起こったとしても、うろたえるな、惑わされるな、信仰に堅く立ちなさい。主の守りがある、永遠の命がある、そこを見ていなければならない。目に見えるものを頼るな。そう言われたのであります。
 13〜14節に「それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。」とあります。弾圧・迫害はある。しかし、その時には弁明する準備もいらない。語るべき言葉、知恵が与えられる。だから安心していなさい。そう言われているのです。弾圧や迫害は、何も国家の手によって為されるとは限らない。家族、友人から受けることもある。キリスト者であるというだけで人々から憎まれることだって起きる。今の私共は、それ程目に見える形で弾圧や迫害を受けているわけではありません。しかし、この教会がこの富山で伝道を始めたばかりの頃、教会は大変な目に遭ったのです。しかし、私共の信仰の先輩たちは、それで信仰を捨てたり、伝道することを止めたでしょうか。止めなかった。だから、この教会は今、立っているのです。この教会を建てるために迫害された先達達は、この主イエスの言葉を自分に向けられている言葉として読んだに違いないのです。

 18〜19節「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」主は生きておられ、私共の髪の毛一本さえも、守って下さる。私共はこのことを信じて、忍耐しなければなりません。主イエスと共に生きる時、私共はどうしてもこの忍耐を求められるのです。それは、終末がすぐに来るかどうか、いつ来るのか、分からないからです。明日来る、一年後に来る、それが分かっているのなら、それ程の忍耐は必要ないでしょう。しかし、いつ来るのか分かりませんから、私共は目を覚まして、忍耐をもって、生きている間受けねばならない様々な試練をくぐり抜けていかなければならないのです。
 先程、エレミヤ書をお読みしました。エレミヤは南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされた時代の預言者です。エレミヤの時代には偽預言者がいました。ハナニヤという預言者です。彼は、バビロンに南ユダ王国が滅ぼされた時も、2年もすればエルサレムに帰れると預言した人です。人々はハナニヤの預言に期待します。あと2年我慢すれば良い。そう思ったからです。しかしエレミヤは、2年などではない、70年だと言うのです。この70年という数字は、今生きている人が皆死んで後ということです。あなたがたの目の黒いうちはエルサレムに帰ることは出来ないとエレミヤは告げたのです。そしてエレミヤは、この異国の地バビロンにおいて、家を建て、果樹を植え、息子・娘は結婚せよ、この地において主の民として生きよと告げたのです。母国を失うという現実の中で、なお神様の御手の中で生かされることを信じ、この異国の地において忍耐して生きよ。自分の目の黒いうちの間のことだけを見るな。その次を見て、忍耐して生きよと告げたのです。勿論、ハナニヤは偽預言者であり、エレミヤの預言が成就したことは言うまでもありません。
 私共の信仰とは、そういうものなのです。私共は、今、目の前のことがどうなるのか、そのようなことばかりに思いが向かいます。しかし主は、それを突き抜けた向こうを見よ、そう言われるのです。向こうを見て、今という時を、忍耐をもって生きよ、と言われているのです。では、向こうには何があるのでしょうか。神の国であります。主イエスが忍耐をもって命をかち取れと言われた命、永遠の命があるのであります。

 私共は、今から聖餐に与ります。この聖餐は、向こうにある神の国の食卓を指し示しております。すでに天に召された者も、これから生まれて来る者も、共に一つとなって与る神の国の食卓です。この食卓にやがて与ることこそ、私共の希望なのであります。神の国において、共にこの食卓を囲む日まで、私共は、それぞれ神様によって遣わされた場において、忍耐をもって、神の民として生きるのであります。時が良くても悪くても、主の業に励むのであります。主が、私共の髪の毛一本までも守って下さるからであります。

[2008年3月2日]

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