富山鹿島町教会

礼拝説教

「眼差しは何処に」
創世記 4章1〜16節
ルカによる福音書 20章45節〜21章4節

小堀 康彦牧師

 先週私共は、主イエスが救い主として天の父なる神様の右におられ、この主イエスの御支配と執り成しの中で、私共は一日一日守られ、支えられ、生かされていることを御言葉を通して知らされました。とするならば、私共の眼差しは、父なる神様と主イエス・キリストがおられる天に向けられなければならないはずであります。天を仰ぎ望み、天に向かって歩みを続けるのであります。私共が今朝、この主の日の礼拝へと集められてまいりましたのは、私共の眼差しを天に向ける為であり、私共の歩みが天に向かって、天を目指したものであることを確認する為であります。私共が週に一度、週の初めの日にここに集うのは、そうしないと私共の眼差しが、いつの間にか地上にしか、周りの人にしか、向かなくなってしまうからなのでしょう。

 今朝与えられている御言葉において、眼差しが天に向けられていない人として、律法学者が挙げられ、主イエスから大変厳しい言葉を受けています。律法学者というのは、町々、村々にある会堂を中心として、人々の信仰を導いていた人です。今で言えば、牧師のような存在を考えて良いと思います。人々から大変尊敬され、信頼されていた人です。ところが、主イエスはこの律法学者の中にある罪、天を見上げず、人の目ばかり気にして、人から称賛を受けることばかり願っている、その姿を明らかにしたのです。そして、それではダメなのだと言われたのです。
 先程、旧約聖書の創世記4章をお読みいたしました。そこにはアダムとエバの二人の息子、カインとアベルの話が記されております。カインとアベルは共に神様に献げ物をいたしました。しかし、神様は弟アベルの献げ物には目を留められましたが、兄カインの献げ物には目を留められませんでした。それがどうしてなのかは判りません。神様が何を考えてそうされたのかは判りません。理由は判りませんけれど、ここに示されているのは「私共の現実」なのではないかと思うのです。生まれつき足の速い人もいれば、足の遅い人がいる。背の高い人もいれば、低い人もいる。綺麗な人もいれば、そうではない人もいる。金持ちの家に生まれた人も、そうでない人もいる。誰一人として同じ人はいません。違いがあり、差がある。その現実の中で、私共はどう生きるのか。人と比べて、自分の足らないところを数えては神様を恨むのか。そうではないでしょう。この時カインは顔を伏せたのです。眼差しを神様に向けることを止めてしまったのです。カインは弟アベルと自分を比べて、腹立たしくて仕方がなかったのでしょう。そして、ついに兄カインは弟アベルを殺してしまいました。ここに示されていることは、眼差しが神様に向けられなくなり、人との比較の中でしか生きられない時、人間は恐ろしい罪を犯してしまうということなのでしょう。神様はここで、カインに対して、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。」そう言われた。顔を上げよ、わたしを見よ、そうしないとあなたは罪を犯すことになる。そう神様はカインに語りかけた。神様はカインを招いたのであります。弟アベルとの比較ばかりに心がとらわれ、神様に目を向けられなくなった兄カインに対して、それではダメだ。私を見よ。そう招いて、カインを襲う罪からカインを守ろうとされたのです。しかしカインは神様に向かって眼差しを上げることが出来なかった。そして、アベルを殺してしまったのです。私共は眼差しを天に向けることにより、カインの罪から解き放たれたいのです。主イエスはそのことを望み、私共を招いてくださっているのです。

 46節「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。」とあります。私共の周りには、あまりこういう人は居ないのではないかと思います。逆に私共は、このような人だと思われることを恐れる、そんな思いがあるのではないかと思います。その結果、宴席では誰も上座に座らないで、下座の方に人が集まってしまい、中々席が決まらない、そういうことが起きます。これは日本人の一つの知恵なのかもしれないと思います。しかし、律法学者のように上座を好もうと、私共日本人のように上座に座らずに下座に集まってしまおうと、その眼差しが人にばかり向けられていることは同じです。天に目差しが向けられていないのです。しかし、少なくともこの教会の中においては、上座も下座もありません。上座は天の神様が居られるところしかありません。地上の私共は皆フラットです。そして今更言うまでもないことですが、私共の眼差しは天に向けられているのですから、この主の日の礼拝においては、前は上座で後ろが下座というようなことはありません。ですから是非、礼拝においては前から座るようにしていただきたいと思います。これは、ぜひそうしていただきたい。教会には上も下もないのですから、後ろからいっぱいになっていくというのは、いかがなものかと思います。
 47節には、律法学者に対して「やもめの家を食い物にしている」との批判が為されます。人々から先生と言われていた律法学者の中に、「やもめの家を食い物にしている」人が居たのでしょう。これは当時、信仰に厚い人が律法学者のような人を招いてふるまうことが、信仰的に良いことと考えられていたのでしょう。そしてそれをいいことに、律法学者の中にはそれを求める者がいたということなのでしょう。私は律法学者と呼ばれている人が全てそうだったとは思いませんし、始めからそうだったとも思わないのです。律法学者になった人達も、始めは純粋に人々に神様の教えを伝えようとして、一所懸命学びを為していたのだろうと思うのです。ところが、先生、先生と言われている間に、いつの間にか勘違いしてしまったのではないかと思うのです。誘惑に負けてしまったのでしょう。まことに愚かなことでありますけれど、私共もそのような誘惑と無縁とは言えないのだろうと思います。私共は、人に認められたい、評価されたい、そういう思いを持っています。これは誰でもが持っている欲求でしょう。子どもは親に認めて欲しいし、大人だって、年老いた者だって、周りの人に認めて欲しいのです。この思いが満たされないと、とても不安になってしまうのが私共です。そして、ついつい人に認められようとして言わないで良いことを言ったり、しなくても良いことをしてしまったりもします。そんな中で、誘惑に負ける律法学者も出て来てしまったのでしょう。でも、今朝私共は、天におられる神様と主イエス・キリストが私共を愛し、私共を認め、私共をあり得ない程に高く評価して下さっていることを知らされるのです。主なる神様が私共に向かって、我が子よ、我が僕よ、と呼んで下さっているのです。主イエスが私共に「我が友よ」と呼んでくださっているのです。父なる神様と主イエス・キリストが私を認めて下さっている。とするならば、私共は人に認められ、評価されることにばかり心を使い、人の評価に一喜一憂する必要はないのです。私共を認めて下さる神様の御前に、安心して憩えば良いのです。眼差しを天に向けるということは、私を愛し、私を認めて下さる方の前に安心して憩うということなのであります。眼差しを天に向ける時、私共は神様と主イエスの天から自分に注がれている眼差しに出会うのです。「アイ・コンタクト」という言葉がありますが、私共が眼差しを天に向けるとき、私共は天の父なる神さまと主イエス・キリストとアイ・コンタクトをするということなのであります。

 さて、律法学者はその祈りさえも、人に見せる為の長い祈りをしている主イエスに批判されています。祈りというのは、神の御前に立つということでしょう。律法学者はその祈りの時さえも、神様を見上げず、人の目を気にしていた。人に見られる、人に見せることを意識していたというのです。主イエスはここに、神様をあなどり、神様をないがしろにする大きな罪を見たのであります。それ故、主イエスは、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」と言われたのでしょう。
 ここで私共は、人前で祈るということについて少し考えなければなりません。私共の祈りの形の基本は、声を出して自由に祈るものです。カトリックのように、決まった祈りの言葉で祈るのではありません。ですから、訓練というものがどうしても必要になるのだと思います。この訓練は、礼拝の中で自然に為されるという面もありますけれど、この意味では祈祷会はとても大切なものだと私は思っています。この富山鹿島町教会における一つの課題は、祈祷会への出席がまだ少ないということではないかと思います。その原因が人前で祈るのが苦手だということであるならば、私共は祈るということを考え直さなければならないのではないかと思うのです。祈祷会に出ても、口に出して祈らずに、自分を飛ばしてもらっても良いのです。祈祷会は、祈りの花束をささげるのですから、一人で全てを祈ることはないのです。一人が一つの祈りに集中すれば良い。短くて良いのです。私などは、祈祷会においては誕生日を迎える人の為の祈りしかしません。他の祈りは、祈祷会に出席されている方の祈りに任せています。祈りというものは、人に聞かせるためではないのです。当たり前のことですが、神様の御前に立ち、神様に語りかけ、神様に献げられるものです。祈りの時に、人に聞かれることにばかり心が向いてしまうとすれば、ここで主イエスが指摘している律法学者と同じ罪を犯していることになるのではないでしょうか。ぜひ、聖書を学び祈る会に、皆さんが集っていただき、祈祷室には入りきらない、そういう状態にしていただきたいと思うのです。祈祷会は長老や執事のような人が出るものだというのは、間違いです。聖書を学び、共に祈りを合わせて、主の御業に参与していくのです。ここで祈りの訓練を受けていくのです。

 主イエスは、天を見上げようとしない律法学者と対比して、続いて貧しいやもめを挙げられました。天に眼差しを向けている者として、主イエスは貧しいやもめを挙げられたのです。場所は、エルサレム神殿の中の献金をささげる所でした。当時エルサレムの神殿には、金属製のラッパのような形をした、上が細くて下が広がっている献金を入れる箱が13並んでいました。この金属製のラッパ状の献金箱というのは、たくさん献金すれば大きな音が鳴り響き、少しの献金しか献げなければチャランチャランという小さな音しかしないという構造になっていたということです。この時、貧しいやもめはレプトン銅貨を2枚献げたのです。このレプトン銅貨というのは、当時の一番小さな単位の貨幣です。現代の日本でいえば、一円玉・10円玉ということになるでしょう。しかし、貨幣の価値ということになりますと、デナリオン銀貨の128分の1の価値でした。1デナリオンが労働者の一日の賃金ですから、レブトン銅貨というのは今のお金にすると50円ぐらいになるかと思います。ですからここで貧しいやもめは、50円玉を2枚入れた。そのような想像でよいかと思います。この時主イエスは、この貧しいやもめに対して、この人は誰よりもたくさん献金したと言われたのです。どうしてか。それは、「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」と主イエスは言われました。
 ここで色々なことが出て来ます。生活費全部を入れたら、明日からの生活はどうなるのか。献金はそこまでしなければいけないのか、等々。しかし、そのような議論は、ここで主イエスが語ろうとされたことをきちんと聞こうとしていません。主イエスがここでお語りになったことは、実に単純なことなのです。この貧しいやもめは、天を見上げ、神様の御支配を信頼し、自分の全てをお委ねした。そして、彼女にしてみれば全財産と言って良いレブトン銅貨二枚の献金をした。主イエスは、天に眼差しを向けるということはそういうものだ。主イエスはそう言われただけなのです。それだけのことなのです。この貧しいやもめは、自分はこれだけしか出来ずに恥ずかしいとか、自分はこれだけ精一杯のものをささげたと言って誇るとか、そんなことは少しもなかった。彼女は神様を信頼して、自分の与えられているものを主にささげた。ここで問われていることは、献金する時の私共の眼差しなのです。眼差しを天に向けて、神様のご支配、主イエスのご支配を本当に信じているのかと言うことなのであります。
 私は、献金というものは教育されなければならないものだと思っております。私は牧師として、洗礼の準備の時、転入の準備の時などには、必ず献金についても話すことにしています。というのは、この日本の文化の中で育った私共には、この献金というものにあまり縁がないからです。献金において大切なのは、何よりもその眼差しです。何処を見ているのかということです。誰を信頼し、誰に感謝を献げているのかということなのです。私共はしばしば、ここで間違うのです。すぐに私共は眼差しを忘れ、金額ばかりを気にし始めるのです。
 私が初めて礼拝に出た時に困ったのもそれでした。何しろ初めてですから何も分からない。分からないので、どうしたかというと、隣の人を覗いたのです。周りの人が財布からどのくらい出すのかを見て、同じくらいのものを献金しました。その教会は献金袋というものがなかったので、すぐに分かりました。これは初めての時ですから仕方がありませんけれど、献金というものは一人一人が神様の前に立って、神様の御支配と守りと導きを覚え、これに感謝し、これに信頼して為されるものなのです。眼差しを天に向けての感謝と信頼です。金額が問題なのではありません。神様への感謝と信頼です。ですから、この献金というものは、信仰の業であり、聖なる業なのであり、美しいものなのです。私は、この献金について語る時、すぐに金額は幾らくらいという話になるのを、とても情けなく思うのです。献金というものは、眼差しがきちんと天に向けられているならば、喜びの業であり、美しいものなのです。私は大学を出て、初めて給料というものをいただいて、自分で働いたお金で献金することが出来た時の喜びを忘れることが出来ません。それは、本当に嬉しいことでした。

 主イエスがここで、私共の眼差しを天に向けることを教えられているのは、主イエス御自身が天に眼差しを向けられていたからなのだろうと思うのであります。主イエスがこれを語られたのは受難週の時です。もう数日すれば十字架につけられて死ぬ。そういう時、主イエスの眼差しは、天におられる父なる神様にしっかりと向けられていたのです。生活費の全てをささげた貧しいやもめの姿に、ひょっとすると主イエスは御自身の十字架の姿を重ねて見られたのではないか、そう思うのです。そして、天に眼差しを向ける時、私共がどんなにあざやかに、神様の御支配の中に生きることが出来るのかを教えて下さったのでありましょう。眼差しを天に向ける時、私共は神様の御支配の中に生かされている自分、神様の守りの中に生かされている自分を発見するのです。もう、人の顔色をうかがい、世間体ばかり気にして生きなくて良い自由を与えられるのです。私共は、まことに自由なのです。この自由な喜びの中、この一週も健やかに主の御前を歩んでまいりたいと、心から願うのであります。

[2008年2月24日]

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