礼拝説教「まことの王、キリスト」詩編 110編1〜7節 ルカによる福音書 20章41〜44節 小堀 康彦牧師 主イエスというお方は、一体誰なのか、何者なのか。そのことについて主イエス御自身は、どのように思い、語っておられたのか。今朝与えられております御言葉は、この問いに答えています。今朝与えられております御言葉は、たった四節と短いもので、しかもその半分は旧約聖書からの引用です。この個所は、それ程有名な個所というわけでもありません。この箇所の前の「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」や「復活についての問答」、この後の「律法学者に気をつけなさい」「やもめの献金」の話しの方が有名でしょう。この有名な話しの間に埋もれて、谷間のようになっている箇所でもあります。しかし、今日のこの主イエスの短い御言葉は、その後のキリスト教の歴史において、実に重大な意味を持つものとして、その役割を果たすことになりました。主イエスとは何者なのか。この私共の信仰における根本的な問いに対して、明確な答えを与える御言葉として役割を果たしてきたのです。
少していねいに見てみましょう。41節「イエスは彼らに言われた。『どうして人々は、「メシアはダビデの子だ」と言うのか。』」当時救い主、メシアが来られることを待ち望むということは、ユダヤの人々の中で広く行き渡っている思いでした。そして、その救い主は「ダビデの子」である。これはイザヤ書を始め旧約において預言されております。そして、この「ダビデの子」という言葉は、二重の意味で使われていたのです。一つは「ダビデの子孫として」という意味です。そしてもう一つは、「ダビデのような王として」という意味としてでした。それは復活を信じないサドカイ派の人々も、復活を信じるファリサイ派の人々も同じです。ダビデの子としてのメシア、救い主が来る。これは当時のユダヤ人なら誰もが持っていた希望でした。しかし、主イエスはここで「そのような救い主に対しての理解は違う。」そう言われたのです。続けて主イエスは42節で「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。」』」と言われます。これは、先程お読みしました詩編110編の引用です。詩編はダビデが書いたものと考えられておりました。この最初の「主」というのは父なる神様のことです。次の「わたしの主」というのは救い主、メシアのことです。つまり、「父なる神様が救い主、メシアに告げた。」となります。とすれば、救い主、メシアをダビデは「わたしの主」と呼んでいるのだから、救い主、メシアは単にダビデの子孫ということではないではないか。そう主イエスは言われたのです。
ここで皆さんは、使徒信条において告白されております、「天に昇り、全能の父なる神の右に座し給えり。」という言葉を思い起こされることでしょう。あるいは、ニカイア信条における、「天に昇られました。そして父の右に座し、生きている者と死んだ者とをさばくために、栄光をもって再び来られます。その御国は終わることがありません。」という言葉を思い起こされるのではないかと思います。そうなのです。この主イエスの言葉は、主イエスが復活され、40日後に天に昇られて、天の父なる神様の右に座する、そのことを告げているのです。20章に入って、私共は主イエスが祭司長や律法学者たちと論争される場面を見てきました。主イエスは、もう少しで十字架におかかりになるという受難週に、エルサレムの神殿に上り、民衆に教えを語り、祭司長や律法学者たちと論争しました。そのことを少し振り返ってみますと、この論争には、主イエスの意図があったということに気付くのです。その意図とは、主イエスが誰であるかということを明らかにすることであり、主イエスの上に起きるこれからの出来事を予告するというものです。9節以下の、小見出しに「『ぶどう園と農夫』のたとえ」とある所では、15節に「そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。」とありますように、御自身が十字架にかけられ殺されることを告げています。そして、27節以下の「復活についての問答」においては、文字通り復活についてお語りになっています。そして、今日の「ダビデの子についての問答」においては、天の父なる神様の右に座するという、昇天の出来事について予告されているのであります。キリスト教会の歴史においては、この聖書の個所は主イエスの昇天日に読まれることになっていたのです。十字架、復活、昇天という一連のメシアとしての救いの御業について、主イエスは最後の受難週の日々、エルサレム神殿においてお語りになった。そう考えて良いのだと思います。
主イエスは今、どこにおられるのか。この問いは、主イエスとは誰か、主イエスはどのような方かという問いとも重なります。これに対しての答えは、「主イエスは今、天の父なる神様の右におられる」ということになるでしょう。この「天」という言葉は、様々なイメージをもって受け取られる言葉です。勿論、地上何千メートル以上からが天ということではありません。この「天」をという言葉を、ある人は「はるか彼方のずーっと向こう」というイメージを持つでしょう。確かに、神様は私共の延長線上にはおられない方であり、隔絶しておられます。その神様がおられるのが天であるとするならば、それは私共の手の届かない、「ずっと向こうのはるか彼方」ということになるのかもしれません。しかし私は、父なる神様と共に主イエスがおられる「天」というのは、決して「はるか彼方」というような、遠い所ではないと思います。確かに父なる神さまと主イエス・キリストは、私共と同じこの地上におられるのではありません。しかし、父なる神さまも主イエスも、私共の全てを見、全てを支配し、全てを導いて下さっているのですから、この天は近い、私はそう思うのです。確かに、決して私共の手には届かないけれど、近い。それは、私共が目をつぶって祈りをささげる時、すぐそこにまで降りて来ている。私共の祈りの言葉届くほど近くにある。そんなイメージを私は持つのです。そして、私共が生きる全ての地の上に、この天はあるのです。
さて、主イエスが詩編110編を引用されたのは、1節だけです。しかし、主イエスがこの詩編110編を引用された時、主イエスはこの詩編110編全体において預言されていたことも受け取り、引用されたのではないかと思うのです。詩編は、当時のイスラエルの人々にとって日々の祈りの言葉であり、幼いときより慣れ親しんでいた言葉です。まるで私共の百人一首やカルタのように、「犬も歩けば」とくれば自動的に「棒にある」と続くように、当時のユダヤの人々の多くは、詩編110編の一節を聞けば、後半の言葉も思い浮かんだはずなのです。この詩編110編の後半、4節には「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク(わたしの正しい王)。』」とあります。ここでメシアは「あなたはとこしえの祭司メルキゼデク」と言われているということです。ここも又、新約聖書において何度も引用されています。特にヘブライ人への手紙7章はメルキゼデクという預言の成就による「大祭司キリスト」を語っています(7章17節、21節)。まことのメシアは、まことの王として父なる神様と共に全てを支配されるだけではなくて、祭司としての務めを持つということなのです。祭司とは、神様と民との間に立ってとりなしをする仲保者です。主イエスというお方は、父なる神様と共に全てを支配されるだけではなくて、祭司・仲保者として、父なる神様と私共の間に立って、とりなし、和解の務めを果たされるということなのであります。 [2008年2月17日] |