週報にありますように、今週の水曜日は「灰の水曜日」と呼ばれ、この日からレント、受難節に入ります。教会はイースターの前の日曜日を除く40日間を、主イエスの御受難を覚え、悔い改めの日々として守ってきました。古くは、この期間は結婚式を控えたり、断食をしたりということがありましたけれど、最近はそのようなことはあまりうるさく言わなくなりました。カーニバルというのは、このレントに入る直前に、レントに入ると肉も食べられないし、楽しみもなくなるから、大いに飲んで食べて楽しもうということで始まりました。私共は、今朝は総員礼拝ということで、カーニバルではありませんが、共に御言葉に与り、聖餐に与り、共に主の恵みに与り、喜び祝う為にに集まってまいりました。このレントに入る週の主の日に私共に与えられております主イエスの御言葉は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」という大変有名な御言葉です。
二千年のキリストの教会の歴史において、絶えず議論され続け、今も多くの議論が為されておりますテーマに「教会と国家」というものがあります。教会と国家とはどういう関係にあるのか、このことを問うのです。この問題は、様々な現実の問題と絡んで、大変複雑で、簡単に割り切れるようなものではありませんけれど、大変重大なテーマであります。例えば、靖国神社の問題などはこの典型でありましょう。この問題は、二千年もの間議論して、なお結論が出ていないのですけれど、この議論において必ず引用され、論じられてきましたのがこの主イエスの「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」という御言葉です。今朝私は、この「教会と国家」の問題を皆さんと一緒に考えましょうというのではありません。ただ、この御言葉を与えられた教会が、どのように歩んできたのか、そのことについては、少し触れないわけにはいかないだろうと思っております。
そもそも、神の民にとって王様とは何なのか。今、聖書を学び祈る会では列王記の上を学んでおりまして、ソロモン王の所を学んでいるのですが、神の民イスラエルには初代の王がサウル、次がダビデ、その次がソロモン、というように王様が立てられました。それまでのイスラエルは、モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトを脱出し、ヨシュアによってヨルダン川を渡って約束の地に入ります。その約束の地においてイスラエルの民を導いたのは、士師と呼ばれるリーダーでした。彼らは王ではなかったのです。その時の必要に応じて、士師と呼ばれるリーダーが神様によって遣わされて、神の民を導いたのです。皆さんがよく知っているギデオンとかサムソンといった士師達です。しかし、イスラエルの周りの国々が王様を持つようになりますと、イスラエルも王様が必要だ、王様がいなくてその都度リーダーを立てていたのでは間に合わない、いつでもどんな時でもイスラエルを導いてくれる王が必要だ、そういう思いが神の民イスラエルに起きてまいります。そして、王として最初に立てられたのがサウル王でした。このサウルが王として立てられる時の民とサムエル、サムエルは最後の士師であり、預言者であり、祭司でありましたが、このサムエルと民とのやり取りを記しているのが、先ほどお読みしたサムエル記上の8章なのです。6節を見ますと、「裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。」とあります。更に7節では、「主はサムエルに言われた。『民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。』」とあります。ここに示されているのは、神の民イスラエルの上に王として君臨するのは、本来、神様だけであるはずなのに、神の民は目に見える王を求めた。それは良くないことだと、サムエルも神様はお考えになったということであります。しかし、神様は民の要求を受け入れ、王を立てます。それがサウル王です。その時神様は、王を持つということは、こんな大変な目に遭うのだよと、10節以下において、丁寧にサムエルを通して民に教えたのです。これを要約すると、息子は兵隊にとられることになる、娘も徴用される、土地を取られ、税金を取られ、王の奴隷となる、というものでした。せっかくエジプトの奴隷の状態から解放されたのに、どうして好きこのんで自ら王を立て、再び奴隷のような状態に戻ろうとするのか。そういう神様の憐れみが示されているわけです。
実は、この「神の民の王は神様だけ」という理解は、王を考える場合の大原則です。この原則は、その後イスラエルが他の国の支配を受けるようになりますと、民族主義と重なりまして、大きなエネルギーとなりました。神様だけが王なのに、どうして異邦人が我々の上に王として君臨しているのか。それは御心に適わないという具合です。これは、時には反乱を起こすほどの力となりました。主イエスの時代にも、このように考える人々は少なくなく、ローマに対して反乱を起こそうとするエネルギーは随分高くなっていました。その中心的な地域が、主イエスが伝道を開始したガリラヤ地方だったのです。ですから、主イエスに従っていた人々の中には、この主イエスによってローマを倒せる、倒そう、そう思っていた人も少なからずいたのです。そして、そのエネルギーが最も高くなる時が、イスラエルが神様によってエジプトから解放されたことを記念する過越の祭りの時だったのです。主イエスがエルサレムに入られたのは、この過越の祭りの直前、世界中から巡礼の者たちが集まってくる、そういう時だったのです。
祭司長や律法学者たちは、主イエスを殺そうとします。それは、主イエスの教えが、自分たちの宗教的権威をないがしろにし、自分たちの権益を崩そうとしているように見えたからです。このまま放っておけば、自分たちの立場が危うくなる。そう思ったからです。19章47〜48節には「毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。」とありますし、20章19節には「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。」とあります。彼らは、主イエスの教えを喜んで聞いている民衆の心を主イエスから離れさせ、自分たちの手を汚さずローマの手に渡す為のうまい手を考えました。それが、この時主イエスに向けられた問いなのです。22節「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」この問いは、もし主イエスが「皇帝に税金を納めよ。」と答えたならば、主イエスに従っている人々の多くは反ローマという思いが高まっているのですから、その人たちは失望し、主イエスから心が離れる。もし主イエスが「税金を納めなくてよい。」と答えたならば、ローマへの反逆罪としてローマの手に引き渡すことが出来る。そう考えたのです。実に巧妙な問いでした。
主イエスは、この問いの裏に潜んでいるたくらみに気付きます。これに対しての主イエスの答えが、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」というものでした。主イエスは、当時の通貨であったローマのデナリオン銀貨を見せなさいと言うのです。その銀貨にはローマ皇帝の肖像がありました。そのことを確認させ、そして言われたのです。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」あなたの持っている銀貨は皇帝が発行したものではないか。それを使い、皇帝を認めておきながら、税金を納めないということはないでしょう。しかし、それが全てではありません。神様のものは神様に返しなさい。そう言われたのです。
この主イエスの言葉の第一のポイントは、皇帝のものと神のものを分けているということです。神様か皇帝かという、二者択一ではないということなのです。教会は実に長い時間をかけて、そして多くの血も流され、やっと政教分離の原則というものにたどり着きました。この知恵を私共は軽く見てはならないと思います。現在の世界の動きの中で、原理主義と呼ばれるものがありますが、その根本に潜む問題は、この政教分離の原則を認めないという所にあると思います。政教一致。これは必ず血を流すことになります。それはいけません。もちろん、私共は全ての人がキリストをほめたたえるようになることを願います。しかしそれは、国家の力によって為されるものでは断じてないのです。それは、地道な、神の愚かさによって為される伝道の業によることなのです。もし、国家が国民を全てクリスチャンにしよう、教会で洗礼を受けることを義務付けようなどと言い出したなら、教会は断固反対しなければならないのです。国家主義、ナショナリズムと宗教の一体化は必ず血を流すことになります。ユダヤの国もそうして滅びましたし、先の大戦において日本の国がたどった道もそうでした。私共はこの事実を忘れてはなりません。
教会と国家の問題について語るべきことは山ほどありますけれど、主イエスのこの御言葉は、「教会と国家」というテーマに基づいて語られたというわけではありません。主イエスのこの言葉の力点は、明らかに後ろの部分にあります。つまり、「神のものは神に返しなさい」という所です。「皇帝のものは皇帝に」、これは税金をちゃんと納める、市民として責任ある日々を送る、それで良いわけです。私共は普通にきちんと市民生活をしていれば、これは全うされているわけです。しかし、「神のものは神に返しなさい」はどうでしょうか。これも私共は全うしていると言い切れるでしょうか。「神のもの」、それは私共が持っている全てがそうなのではないでしょうか。私の命、私の時間、私の富、私の能力、私の家族。私共が大切に思っているものは、全て神様が私共に与えて下さったものでしょう。その全てを神様に返していると言えるでしょうか。
私は、この御言葉に対しては忘れ得ぬ思い出があります。あの出来事を抜きに、この御言葉について語ることは出来ないという体験です。すでに皆様にお話ししたことがあるかもしれません。20年前、神学校を卒業して、結婚して、妻と二人で初めての任地であります東舞鶴教会に遣わされました。5月に妻のお腹に子が宿りました。しかし、病院で診察すると、卵巣膿腫という病気であることが判りました。卵巣が大人の拳ほどの大きさになっていて、このままでは産道を塞いでいて出産できない。手術が必要だが、お腹の赤ちゃんが安定するのを待って手術をしましょう、ということになりました。10月になり、手術を受ける為、妻は京都の大学病院に入院しました。その手術を受ける2日前に、手術をされるお医者さんの説明を受けました。そこで、この手術では途中で子宮をいじらなければなりませんので、お腹の赤ちゃんはダメかもしれません、そう言われました。私も妻も大変ショックでした。軽い手術だと言われていたものですから、まさかお腹の子が危ないなどとは想像もしていなかったからです。私は、「神様、助けて下さい。」と祈るしかありませんでした。手術の前の日、妻のお母さんが見舞いに来て、メソメソしている妻に向かって、この主イエスの言葉を告げたのです。義母は、信仰を持ってはいません。ただ、牧師の妻になった娘の為に、何かしてあげたい、何か言ってあげたいと思い、必死になってキリスト教関係の本を読んだのだそうです。そして、この言葉に出会って、「富士美ちゃん、あなたはクリスチャンでしょ。だったら、神のものは神に返しなさい。お腹の子は神様のものでしょ。」そう言ったというのです。もちろん、妻はこの言葉を、すぐに、ああそうだ、と受け取ったわけではありません。何を偉そうにと反発したそうです。しかし、その夜、次の日の手術を思って眠れない夜を過ごしている時、この主イエスの言葉がよみがえってきたそうです。「神のものは神に返しなさい。」そう、お腹の子は神様のもの。もし、神様が召されるのなら、それが神様の御心であり、それは一番良いことなのだ。神様が悪いことをされるはずがない。そう思えたというのです。そして、不思議な平安を与えられたというのです。私はというと、その夜は泣きながら、「神様、助けて下さい。」と繰り返し繰り返し祈っているだけでした。手術は成功し、お腹の赤ちゃんも無事でした。まことに祈りによって与えられた子、真祈子と名付けました。御言葉によって生きるということは、こういうことなのかと教えられました。
「神のものは神に返しなさい。」というこの主イエスの御言葉は、自分の持っているものを自分のものと思うが故に、それに縛られ、自由になることが出来ないでいる私共に対し、安心してそれを手放し、神様の御手に委ね、私共を自由にする、そういう恵みに満ちた、力ある御言葉なのであります。
主イエスはこの時、自分の命をねらう人々の思いを見抜き、彼らがどうして自分の命をねらっているのか、そのような恐ろしい思いに駆られているのか、その根本を見抜いて、こう言われたのでしょう。自分が手にしていると思っている宗教的権威、社会的地位、富、名声。それらは全て、神様のものではないか。どうしてそれを、守ろう、これを守る為なら他人を傷つけても良い、そんなふうに思ってしまうのか。それから自由になりなさい。そして、今、犯そうとしている罪から解き放たれなさい。そう語りかけられたのであります。この主イエスの言葉は、単に主イエスが自分のみを守ろうとして巧妙な答えをしたというようなことではないのです。主イエスは、自分の命を狙っているこの人達をも、その罪から、不自由さから解き放つために、この言葉をもって招かれたのであります。
皆さん、私共には様々な心を痛める問題があります。心配事がない人なんていません。でも、どの心配事の根本には、神様に委ねることの出来ない自分があるのではないでしょうか。主イエスは、「神のものは神に返しなさい。」と、今朝私共に告げられます。安心して神様に委ねたら良い。全ては神様の御手の中にあるのだから。神様は私共一人一人を愛しておられるのだから。悪いことはなさらない。大丈夫。そう告げておられるのです。
私共は、ただ今から聖餐に与ります。これは信仰において与るキリストの命であります。まだ洗礼を受けておられない方は、これに与ることが出来ません。しかし、神様は、この命に与るようにと、全ての人を招いておられます。この招きに応える決断をされ、洗礼を受け、共々にこの恵みに与る日が来ることを願っております。洗礼を受けたらどうなるのか、ちゃんとキリスト者として歩んでいけるだろうか、そのような不安も又、神様にお委ねしていただきたい。私共の明日も又、神様のものだからです。神のものは神に返しなさい。この招きに応えていきたいと思うのです。
[2008年2月3日]
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