主イエスが「まことの王」としてエルサレムに入られて最初になされたことは、神殿に入って商売をしていた人々を追い出すことでした。いわゆる「宮清め」と言われている場面です。当時の神殿には、たくさんの商人がいました。これは日本で見られるような、大きなお寺の前にはたくさんの「おみやげ屋」さんがあるのとは少し違います。そうではなくて、境内の中で、「お札」とか「おみくじ」とか「お守り」とかが売られているのに近いと思います。この時、主イエスが追い出した商人というのは、両替商や動物を商う人でした。どうして、神殿に両替商や動物を売る人たちがいたのか。それは、神殿に来る人たちは、神殿にお参りに来るのですから、神殿に献金をささげることになります。しかし、神殿でささげられるお金は、当時流通していた貨幣ではダメだったのです。昔イスラエルが独立していた頃に用いられていた貨幣でなければならなかったのです。これは、今の日本で言えば江戸時代や室町時代の貨幣でなければいけないというようなもので、誰もそんなものは持っていないでしょう。ですから、この神殿に店を出している両替商でお金を換えてもらわなければならなかったのです。そして、動物を売る人というのは、神殿で犠牲をささげる時に、動物はキズやシミのないものでなければなりませんでした。もし、自分が用意した犠牲の動物に傷でもあれば、神様が聴いてくださらないことになってしまう。それでは困るわけです。この神殿で売られている動物は、すでにその検査がされて、この動物は大丈夫という神殿のお墨付きをもらっているものでした。ですから、安心してみんなここで動物を買うことになります。しかし、両替には手数料が取られますし、動物も外で買うよりずっと高い値が付けられていたのです。それも、何倍という高値です。しかももっと悪いことに、その神殿の商人たちは、大祭司一族にその利益を回していたのです。何か現代の汚職事件を思わせるような構図ですけれど、それが当時の神殿の姿でした。
ですから主イエスは、19章46節「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」と言われたのです。「祈りの家」、それは預言者イザヤが告げたように、異邦人も宦官も、神に捨てられていると思っている人も、皆ここに集い、神様との交わりに新しく生き直すことが出来る。全ての民が生ける神に祈りをささげ、神の愛を受け取る所。それが祈りの家です。ところが、大祭司を筆頭に、神殿を自分たちの私腹を肥やす所にしてしまっていた。これは、神様を侮り、信仰を汚すことでしょう。主イエスは、私共と神様との関係を真実なものとする為に来られた方です。私共と神様との間に、真実な愛の交わりを立てる為に来られた。その主イエスから見れば、この神殿のあり方は、黙って見過ごすことは出来なかったのであります。
宗教とお金の問題は、世間で取り沙汰されるまでもなく、主イエスの時代からあったし、その危険はいつでもあるのです。私は、まっとうな宗教とおかしな宗教とを見定めるのに、難しい議論はいらないと思っています。実に単純に、お金お金と言う宗教はおかしいのです。会計報告がきちんとされない宗教はおかしい。そう見て間違いないと思っています。主イエスは公の生涯に入る前に、荒れ野で悪魔から誘惑を受けられました。その時三つの誘惑を受けられましたけれど、その中で悪魔から、自分を拝むならこの世界の一切の権力と繁栄を与えようという誘惑を受けられました。そして主イエスは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と聖書に書いてあると言って、この誘惑を退けられました。この主イエスが退けられた誘惑に、当時の神殿を中心とする祭司たちがとらわれていたということなのでありましょう。私共は皆、主イエスの弟子なのであります。この誘惑に負けるわけにはいきません。そして、誰よりも牧師自身がこの誘惑を退けていなければならないのであります。これは牧師であることの条件であると言って良いと思います。この誘惑に負けた人は牧師をやめなければならないのです。
ただこの時主イエスは、神殿から全ての商人を追い出したということではないのではないか、と私は思います。多分この時神殿には何十人という商人たちがいたでしょう。マタイによる福音書21章12節には、この時のことが少し詳しく記されています。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。」とあります。主イエスは、神殿にいた全ての商人を追い出したというのではなくて、何人かの両替人の台を倒し、鳩を売る人の腰掛けを倒したということなのだと思います。もちろん、その場はこのことによって大変なことになったと思いますけれど、商人の全員を追い出すというようなことは出来なかったし、主イエスはそこまではされなかったのではないかと思います。と言うのは、主イエスの目的は商人を追い出すことではなくて、「この神殿は祈りの家でなければならない、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」ということを語る、そのことを、この言葉を人々の心に刻むということだったのだと思うのです。その為に主イエスこのようなことをされたのだと思います。これは、象徴預言、あるいは行為預言と呼ばれるもので、旧約以来の預言者の伝統にあるものなのです。この主イエスの言葉は、商人たちを追い出したという行為以上に、神殿のあり方の根本を批判する、大変重大な問題を含んでいたのです。
それは、権威の問題です。当時のユダヤ教は神殿を中心として、その神殿で行われる祭儀を司る大祭司を頂点とする宗教者たちが支配していました。神殿貴族という言葉がある程に、彼らは庶民の上に権威を持って君臨していたのです。主イエスが神殿から商人を追い出したのは、神殿が許可したものを主イエスが否定した。それは神殿の権威に対する反抗であり、神殿を中心とした当時のユダヤ教に対しての否定だったのです。それ故、神殿の当局は主イエスの行為と言葉を見過ごすことは出来ませんでした。
20章1〜2節「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。『我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。』」これは、主イエスに対して、わたしたちはあなたの権威は認めない、わたしたちには権威がある、そう言っているわけです。確かに神殿には、バビロン捕囚から解放され、バビロンによって破壊されたソロモンの神殿を再建して以来、何百年にわたってイスラエルの信仰の中心であり続けた実績もあります。その間に、営々と築かれて来た制度もあります。その上に乗って、イスラエルの信仰は保たれてきたのです。
しかし、人間の作り上げてきた制度は絶対でもありませんし、制度に権威があるのでもありません。私共の権威は、神様にしかないのです。この神様の御前にひれ伏すというところにしか、私共の信仰は成り立たないのです。この時、主イエスに「何の権威によって、このようなことをするのか。」と問うた人々は、この神様だけが持っている権威を、自分のものにしてしまっていたのではないでしょうか。そして、神様の権威を、自分を守る為に利用していたのではないでしょうか。しかし、神様の権威というものは、全ての人を御前にひれ伏させるものであって、どんな人もそれを自分を守る為に利用出来るようなものではないのです。又、そのようなあり方で神殿に近づく者を、神様は決してお赦しにはなりません。
主イエスは、御自身に「何の権威によってか」と問う人々の正体を明らかにする為に、この問いに対して、問いをもって答えられました。3〜4節「イエスはお答えになった。『では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。』」それに対しての反応はこうでした。5〜7節「彼らは相談した。『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言うだろう。「人からのものだ」と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。』そこで彼らは、『どこからか、分からない』と答えた。」ここに、主イエスに権威を問うた人々の本心が表れています。本気で神様の権威の前に立とうとしていないのです。この権威の問題は、神様はどこにおられるのかとの問いとも重なってくるのですけれど、主イエスの問いに対して、自分の身を守ることしか考えていない。主イエスは、信仰とはそういうものではないだろう、ここでそう言われているのだと思います。
本当の権威、神様の権威というものは、私共を自由にする力を持っています。人間を恐れず、人の作った制度を恐れず、私共を自由にする聖霊なる神様の促しの中に生き切る者を生み出すのであります。主イエスは、この時まことに自由であります。主イエスはここで神殿そのものを否定しているのではありません。祈りの家は神様が与えられた大きな恵みなのです。主イエスがここで問題にしているのは、この神殿が与えられた「祈りの家」という恵みを、自分の権威を造り出したり、自分の権威を守る為に利用することに対して、否と言われているのです。私共は、ただ神様の御前にひれ伏すしかない罪人ではないか。どうして、そのことを忘れたかのように、自分が神様の代理者のような権威で身を包もうとするのか。共に、主なる神様の御前に立ち、共に悔い改めの祈りをささげよう。そう招いているのです。
教会の二千年の歴史において、この時の祭司長や律法学者たちのように、教会自身が権威を持ち、人々の上に君臨した時代があったことを、私共は認めないわけにはまいりません。そこで起きたのが宗教改革だったのです。宗教改革というのは、まさにこの権威が問題になったのです。ローマ法王を頂点とする教会制度が、まさに神様の代理者として人々の上に君臨したのです。それに対して、まことの権威は、制度としての教会にあるのではなくて、聖書にある。神の言葉を与え、神の言葉をもって導かれる、神様御自身にある。そう主張したのです。
私は、一切の教会の権威を否定しようと言っているのではありませんし、聖書さえあれば良い、教会などいらないと言っているのでもありません。宗教改革者が言ったのも、そんなことではないのです。この権威についての議論は、注意深く為されなければなりません。それは一歩間違えば、アナーキーな、無秩序な状態を生み出し、教会を破壊しかねないからです。そして教会がなければ、私共は正しい信仰の歴史を貫いて保持していくことは出来ないでしょう。一切の権威を否定して、一人一人が自分勝手に信仰を持つなどということになれば、私共はすぐにサタンの餌食になり、自分自身が神様のようになってしまうでしょう。私共は、そのような私共にある自分の罪と愚かさをきちんと認めなければなりません。全ての権威を認めないなどと言ったとたんに、私共は自分自身を神様とし、自分自身が権威となってしまう。それが罪人である私共の現実だからであります。
だったら、権威はどこにあるのか。結論を言えば、この地上には完全な権威などはどこにも無いのだろうと思います。完全な、間違いのない権威など、目に見えるあり方では存在しない。何故なら、私共は皆、罪人だからです。しかし、そういう中で、私共は神様の御前にひれ伏し、聖霊の導きを求め、一歩一歩歩んでいくしかないのであります。だったら、牧師には権威はないのか。教会には権威はないのか。これは、「ある」と言えばありますが、それは極めて限定的なものだと言わざるを得ません。牧師や教会に権威があるとすれば、聖霊なる神さまが働いてくださり、神様の御業の道具とされている時なのでしょう。牧師が言うことはすべて正しい、だから、何でも従わなければならない、そんなことはないのです。間違うこともある。私自身、これで良いのかと思うことも少なくない。しかし、神様の御前にひれ伏し、ただ御言葉による聖霊の導きを願って歩むしかないのです。もし牧師の語る説教が、聖霊の働きの中で神の言葉とされるなら、そこで救いの出来事が起きるでしょう。救われる者が起こされるでしょう。牧師だから正しいとか権威があるなどということではないのです。ただ、聖霊が働いて下さるなら、そこで救いの出来事が起きる。そのことを牧師も教会員も共に目撃し、主をほめたたえる。そこに、生ける神の御前に集う教会があるのです。キリストの体なる教会とはそういうものです。
牧師が自分の権威を主張し始めるなら、その時、その牧師は主イエスに「何の権威によって」と問うた人々と同じ間違いを犯しているのでしょう。権威とは、自らが主張するものではないのです。神様が聖霊によって与え、それによっておのずと生ずるものだからであります。まことの権威は、神様御自身にしかないからです。私共は、神様の御前にただただ謙遜に、罪人としてひれ伏し、聖霊の導きを願い求め続けていくしかないのであります。
キリストの教会における権威とは、主イエス御自身がそうであったように、僕として仕える者としての権威なのです。牧師も長老も執事も、もし権威があるとすれば、それは誰よりも主に仕え、誰よりも教会に仕え、誰よりも教会員に仕えているからでありましょう。自分の大きさ、偉さを主張する権威など、キリストの教会には存在しないのです。
聖書を一ヶ所読んで終わります。フィリピの信徒への手紙2章6〜9節「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」キリストの権威は何処にあるのか。あの貧しい馬小屋にある。あの罪人と共に架けられた十字架にあるのでしょう。ここに、私共の権威の源、歩むべき姿があるのであります。まことに主イエスに倣って、神様に仕え、隣人に仕える者としての歩みを、この一週も共に為してまいりたいと願うものであります。
[2008年1月20日]
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