クリスマスの後の最初の礼拝、2007年最後の主の日の礼拝を守っています。クリスマスを終えて、私共はイースターに向かって歩み出しているわけでありますが、聖書の個所は今日与えられております所から、受難週の場面へと入っていきます。今週から、毎週受難週の場面の御言葉を受けながらイースターへと歩んでいくわけです。もっとも、今年のイースターは3月23日と大変早いので、イースターの時にちょうど受難週の所が全て終わるということはないと思います。しかし、イースターまでの間、主に日のたびごとに、受難週の一つ一つの出来事を心に刻みつつ歩んでいくということも、意図したことではありませんが、恵みに満ちたものでしょう。もっとも、クリスマスからいきなり受難週かと思われる方もおられるかもしれません。しかし、私共が毎週告白しております使徒信条は、「主は聖霊によりて宿り、乙女マリアより生まれ」に続いて、いきなり「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と、受難週の出来事へと続いているのです。私共の救いに必要なことは、何よりも主イエスが神の独り子としてお生まれになったこと、そしてその独り子が私共の為に、私共に代わって、十字架におかかりになり、復活されたことであると告白してきているのです。それは、主イエスがお語りになったことも、主イエスが為された様々な奇跡も、全てこのクリスマスと十字架・復活を結ぶ線の上での出来事であったということなのであり、その線の上で理解されなければならないということなのでしょう。
さて、今朝与えられております御言葉は、主イエスがエルサレムに入る為の乗り物として、子ろばを調達したことが記されております。主イエスの二人の弟子が、子ろばを調達する為に遣わされます。30〜31節「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」この主イエスの言葉を聞いて、皆さんはどう感じられるでしょうか。イエス様は随分無茶なことを言われる。そう思われる方もいると思います。ろばは当時の一番一般的な、荷物を運んだりする時に用いられた家畜ですから、村に入れば子ろばがいるというのは、不思議でも何でもありません。問題は、その子ろばを引いてくる時にその持ち主にとがめられたのなら、「主がお入り用なのです。」と言いなさい、そう言われて弟子たちは遣わされたということです。そんなこと言われても、もし持ち主がダメだと言ったらどうなのか。これは泥棒ではないのか。そんな風にも聞こえます。兎に角、主が必要とされているのだから、泥棒をしても、どんなことをしても手に入れてくる、それが弟子のすべきことなのだと言うのでしょうか。そうではないでしょう。
私はここで、22章7節以下にあります、主イエスが弟子たちと最後の晩餐をした時のことも思い起こすのです。あの最後の晩餐は、過越の食事と言われるもので、その日エルサレムには世界中から巡礼のユダヤ人が集まって来ており、その人たちが皆過越の食事をするわけです。そういう状況の中で何より大変だったのは、過越の食事をする為の場所を確保することでした。主イエスは、その場所を確保するために弟子達に言われました。10〜11節「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』」この時も、すでに整った二階の広間が用意されていました。私は、このことも子ろばが用意されていたことも、同じだと思います。つまり、主イエスがすでに用意して下さっている。弟子たちは、主イエスによってすでに整えられているものを、「主がお入り用なのです。」あるいは「部屋はどこか。」と告げるだけだということであります。
私は、この主イエスに子ろばを提供した人も、主イエスに過越の食事の場所を提供した人も、主イエスの弟子、あるいは主イエスに期待して従っていた人ではなかったかと思います。そして、主イエスはこの人達とすでに話をつけていたのだと思います。しかし、弟子たちはそれを知りません。主イエスから与えられているのは、主イエスの言葉だけです。今日の所では、「主がお入り用なのです。」という言葉です。弟子たちはこの言葉だけを与えられて遣わされていくのです。
クリスマスの前に私たちに与えられておりました御言葉は、この直前にあります「ムナ」のたとえ話でした。一ムナずつ与えられた僕たちがそれを増やすという話です。その時見たのは、この主人が与えた「一ムナ」というのは神の言葉ではないかということでした。28節を見ますと、「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。」とある。「このように話して」というのは、この「ムナのたとえ話」のことでしょう。まさに、「主がお入り用なのです。」という主イエスの言葉だけを与えられて遣わされて行くと、弟子たちは子ろばを手に入れることが出来たのであります。主イエスがすでに備えて下さっていたからであります。
私共に求められているのは、この時の弟子たちのように、主イエスの言葉を携えて、この主イエスの言葉の力を信じて遣わされていくということなのでしょう。そこで私共は主イエスがすでに備えて下さっているものに出会っていくことになるということなのであります。それが伝道するということなのでしょう。
私は伝道について、こういうイメージを持っています。名付けて「桃太郎伝道」です。何のことはないのです。川上から桃が流れて来る。この桃を「あら、桃が流れて来た。」と言って拾う。それだけのことです。桃を割ってみると中から桃太郎が出て来る。桃太郎というのはキリスト者です。おばあさんは、川に洗濯に来ていたのであって、桃を拾いに来ていたのではありません。日常の仕事をしていた。するとそこにたまたま、桃が流れて来た。おばあさんは、それを拾っただけです。桃太郎が出てくると期待して、桃を拾ったのではありません。拾って、桃を割ったら、たまたま桃太郎が出てきたということでしょう。
私共は自分で何かをしないと伝道していないかのように思うところがあります。積極的に何かするのも良いでしょう。しかし、もっと大切なのは、日常的な日々の歩みの中で、出会いが与えられる、その出会いを大切にして、それを見過ごさないで、拾っていく。これは桃太郎が入っている桃だから拾うのではなくて、何でもかんでも拾っていく。一人一人との出会いを大切にしていく。それだけのことだと思うのです。主イエスが全てを備えて下さっているからです。私共の出会いの一つ一つは、主イエスが備えて下さったものなのです。そして、その出会いの中で、主に与えられている主の言葉を告げていく。それだけのことなのだと思うのです。
さて、この時主イエスが用意したものは、どうして「子ろば」だったのでしょうか。それは先程お読みいたしました、ゼカリヤ書9章9節「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。」と預言されているからです。ゼカリヤが預言いたしました王は、子ろばに乗ってやって来ることになっていたからです。10節には「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。」とあります。主イエスは馬に乗ってエルサレムに入城しようとはされなかった。馬は軍馬をイメージし、力、武力、威圧を意味したからです。皆さんが知っている多くの英雄や将軍の絵や像は、馬に乗っているものが多いでしょう。子ろばに乗っている姿のものなどありません。ろばというのは、馬に比べると背が低い。しかも子ろばとなりますと、もう大の大人が乗れば足が地面についてしまうかもしれない程、小さいのです。この子ろばに乗る大人の姿は、ちっとも威圧するものではありません。それどころか滑稽ですらあると思います。ちっとも威厳がないのです。ロバに乗った人で思い出すのは、ドン・キホーテの従者のサンチョパンサくらいのものです。主イエスは、ゼカリヤが預言した王、それは平和の王であり、柔和の王であり、愛の王です。戦いの王、力の王ではないのです。ですから、子ろばに乗ってエルサレムに入城したのです。ろばは、王様を乗せる軍馬ではありません。ろばが乗せるのは、荷物です。しかも、子供のろばというのですから、力もなく、大して役にも立たないものです。しかし、主イエスはそのような子ろばを用いられるのです。
私はこの聖書の箇所を読みますと、一人の牧師を思い出します。「ちいろば先生」と呼ばれた牧師のことです。榎本保郎という牧師です。「ちいろば」、これは「小さなろば」という意味です。京都の世光教会、世の光と書きますが、この教会を開拓伝道した牧師です。保育園があり、この牧師はよく子供たちにこの主イエスを乗せたこの子ろばの話をしたそうです。そして、自分は力もなく、見栄えも良くない。でも、その自分にイエス様が乗って下さる。何とうれしいことか、何と誇らしいことか。自分は、このイエス様を乗せた、小さな子ろば、ちいろばになりたい。そう願ったというのです。本当にそうだと思う。私のような、愚かで、力もない、何の取り柄もないような者に、イエス様がお乗り下さるならば、これ程の喜び、これ程の誉れはありません。
主イエスが私共に乗って下さる。それは、私共を主イエスの御業の道具として下さるということでありましょう。私共は大それたことを考える必要はないのです。困っている人がいたら、一杯の水を差し出すだけで良いのです。寂しい人がいたら、ほんの少し時間を割いて話を聞いてあげるだけでも良いのです。うまいアドバイスなど出来なくても良い。その人の話を聞き、その人の側にいてあげるだけで良いのです。出て行くのに不自由な人がいたら、車を出してあげれば良い。主イエスを乗せる子ろばになるということは、主イエスの召しに従って、主イエスの救いの御業、主イエスの愛の業の道具となるということであります。しかし、私は何もボランティア活動に励みましょうと言っているのではありません。そうではなくて、神様の愛の業に召されたなら、それぞれがその召命に応えて献身して、神様の御業にお仕えしましょうということなのです。
こんな話を聞いたことがあります。その教会は聖歌隊が盛んなのですが、その聖歌隊を支えているのは、一人の耳の聞こえない老人だというのです。この方は、毎週土曜日に行われる聖歌隊の練習の時に必ず来て、一番前で聞こえない耳を傾ける。耳を傾けるといっても聞こえないのですから、文字通り心を傾けられるのだと思います。そして、祈って下さる。この方の祈りに支えられて、この教会の聖歌隊は練習に励んでいるというのです。この方は、自分は何も出来ないと初めは思っていたんだと思います。しかし、自分で出来ることはないかと思い巡らす中で、「祈りをもって支える」ということを示されたのでしょう。そして、この神様の召しに応え、聖歌隊の練習の時に時間をささげ、祈ることに徹せられた。神様の御業というものは、このような方々の、主の召しに応えての献身によって進んでいくのだと思います。
私共は、自分を見れば、力もなく見栄えもせず、何も出来ない、そういうところに落ち着いてしまうのかもしれません。しかし、そのような私共に向かって、今朝、御言葉が与えられております。「主がお入り用なのです。」主がお入り用なのですと言われるのは、私共が持っている、人に自慢出来るような、何か特別なものではありません。そうではなくて、何も出来ないと思っている私共自身なのです。罪にまみれた私なのです。神様は私共自身を用いて、主イエスの救いの御業を前進させようとしておられるのであります。私共は、この「主がお入り用なのです。」との言葉に対して、言い訳することは出来ません。これは殺し文句とでも言うべき主イエスの言葉です。この言葉の前には、一切の言い訳が場所を失います。ただ、「主よ、この貧しい器を、あなたの道具として、御心のままに用いて下さい。」という祈りをもって応えていくしかありません。
主イエスは、力もあり見栄えもする立派な馬を用いるのではありません。力もなく見栄えもしない、小さな子ろばを用いるのです。そのことによって、主イエスというお方がどのようなお方であるかが明らかになるからです。主イエスという方は、平和の王、柔和な王、愛の王であられる方です。「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」お方(マタイによる福音書12章20節)なのです。折れそうになっている私共、心の灯が消えそうになっている私共に向かって、主イエスは、「あなたが必要なのです。立ち上がりなさい。私が共にいて、あなたを用います。」そう、お声をかけて下さっています。ありがたいことです。本当にありがたい。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、その御声に応えていきたいと思う。主よ、我らを用い給え。
[2007年12月30日]
へもどる。