富山鹿島町教会

クリスマス記念礼拝説教

「全ての人を照らす真の光の到来」
イザヤ書 60章1〜3節
ヨハネによる福音書 1章1〜18節

小堀 康彦牧師

 今朝、私共はクリスマスの恵みを共に喜び祝う為に、ここに集っています。いつもは体調のこともあり、なかなかこの礼拝に集うことの出来ない方も、今朝はクリスマスということで、ここに集っておられます。その方達の姿を見ながら、私はこのように皆さんと一緒にクリスマスを喜び祝うことが出来るということを、何よりうれしく思います。私共がこのようにクリスマスを喜び祝うことが出来るのは、何よりも私共一人一人が、主イエス・キリストの救いに与ったからでありましょう。主イエス・キリストの誕生というクリスマスの出来事が、私共の人生を変えてしまう、力ある恵みの出来事であったからです。もし主イエス・キリストを私共が自分の人生の主人として受け入れることが無ければ、私共のクリスマスに対しての思いは、「めでたさも、中くらいなり、おらがクリスマス」ということになっていたでありましょう。クリスマスのめでたさは、私共にとって取り立てて言うほどのことではない、中ぐらいのものというようなことではありません。私共にとって、クリスマスは自分の誕生日よりもうれしい、喜ばしい日なのでしょう。神様の恵みと真実とが、この出来事により明らかにされたからであります。

 ヨハネによる福音書は、クリスマスの出来事をこのように告げております。14節「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネは大変短い文章で、簡潔に語ります。ヨハネによる福音書の文章は、どれも短いのです。難しい言い方はしません。文法的には大変易しいのです。ギリシャ語を学び始めますと、最初に読まされるのはヨハネによる福音書です。しかし、その意味するところは、少しも簡単ではありません。含蓄のある美しい言葉が、短い文章で続きます。この「言」というのは、1〜4節で繰り返されております「言」です。1〜4節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、始めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」このように記されている「言」です。この「言」というのは、キリストと言い換えて良いでしょう。初めからあり、神と共にあり、神である言です。全てのものを造った言であり、命があり、光がある言です。どうして、神の独り子であるキリストが「言」と言われているのか。それは、キリストが神様の御心そのものを現しているお方だからでしょう。この「言」、ロゴスという単語は、単に言葉という意味だけではなくて、理性とか、論理とかいう意味もあります。この世界を造られた神様の御心そのものをロゴスという言葉で表現し、それこそ神の独り子キリストであると告げているのでしょう。その永遠に神と共におられた、神そのものであられたキリストが、天から下り、肉をとられた。乙女マリアからイエスとして生まれた。それがクリスマスの出来事なのであります。神の独り子キリストが人間イエスとしてお生まれになられた。天の高みから下ってこられ、人となられた。そして、私たちの間に宿られたのです。キリストがイエスとなられ、人間としてこの地上を歩まれ、弟子たちと出会い、出会った者たちの人生を作り変え、新しくし、神の子、神の僕として下さった。主イエス・キリストは、彼を信じる者たちの人生を横切って行ったのではなく、共に歩み、彼らの中に宿り給うたのです。それは、今も変わりません。主イエス・キリストは私共の中に、そして私の中に宿り給う。「神、我らと共にいます」というインマヌエルの恵みが、主イエス・キリストの到来と共に明らかにされたのです。
 「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とあります。私たちは見たのです。主イエス・キリストというお方の中に、神の栄光、神そのものを見たのです。それは、恵みと真理に満ちていました。肉眼で見れば、クリスマスの日に見えたものは、貧しい大工の息子が旅先の馬小屋で生まれたということでしかありません。特別変わったことではありません。しかし、信仰のまなざしをもって見るならば、そこにあるのは、神の恵みと真理に満ちた栄光の輝きだったのです。
 16節を見ると、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」とあります。主イエス・キリストの中に神の栄光を、恵みと真理を見た者は、ただ見たのではないのです。主イエス・キリストから恵みを受けたのです。だから、キリスト・イエスの中に、私共を恵み救う力を見、神の栄光を見ることが出来るのであります。皆が言っているからイエス・キリストは神様だ、皆が祝っているから何となくクリスマスを喜び祝う、というのではないのです。私がこの主イエス・キリストによって救われたのです。恵みを受けたのです。だから、この方はまことに神であられると言うしかないのです。この方にこそ、神様そのものの栄光を私は見る、というのであります。私共は主イエスから恵みを受けたのです。それも「恵みの上に、更に恵みを受ける」というあり方で受けたのです。「恵みの上に、更に恵みを」というのは、直訳しますと、「恵みに代わって恵みを」となります。これは、私共が主イエスから受けた恵みが、一度きりのものではなかったということでありましょう。何度も何度も、その時にかなった恵みを受け続けたのであります。受け続けているのであります。若い時には若い時の恵みがあり、年老いてからは年老いてからの恵みがある。幼子の時に恵みがあり、成人するに恵みがあり、結婚するに恵みがあり、子が与えられるに恵みがあり、孫が与えられるに恵みがあり、両親を天に送るに恵みがある。私共が強い時には強い時の恵みがあり、私共が弱い時には弱い時の恵みがあるのであります。私共は弱い時には恵みを求めますが、強い時、元気な時には、主イエスの恵みなど必要ないと思ってしまうようなところがあるかもしれません。しかし、この一年の歩みを振り返るならば、強い時も、弱い時も、一日一日、神様の守り、支えの中に生かされてきた自分を発見するのではないでしょうか。クリスマスとは、この神の恵みと真実とを数え上げる時なのでありましょう。いろんなことがあった。人には言えない嘆きもあった。しかし、守られた。そして、こうしてクリスマスを共に喜び祝うことが出来ている。「アバ、父よ」と、神様に向かって祈ることが出来る。神の子とされている恵みの中に留まり続けることが出来た。まことに幸いなことであります。
 私はクリスマスを迎える度に思う。今年も、講壇を守り続けることが出来た。体調が悪い。時間が無い。心が押しつぶされそうになる心配事がある。思い起こせば、万全の状態などというような時は、ほとんどありませんでした。しかし、恵みに恵みを加えられるようにして、守られ続けました。主イエスが共にいて下さり、キリストが私共の中に宿って下さっていたからであります。まことにありがたいことであります。

 5節を見ましょう。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。この「暗闇は光を理解しなかった」と訳されております所は、私共が今使っている新共同訳の前の口語訳では、「闇は光に勝たなかった」と訳されておりました。「理解しなかった」と「勝たなかった」では、全然意味が違うではないかと思われる人も多いと思います。これも直訳すると、「闇は光を捕らえることが出来なかった」となります。闇は光を捕らえられない。当たり前です。光が来れば闇は退くしかないからです。捕まえることが出来ない、だから、勝たない、理解出来ない、と訳したのです。ヨハネによる福音書は、大変短い文章で、印象的な、特徴的な言葉を用いて語ります。それはあるイメージをもって伝えようとしているからなのだろうと思います。この所は、私はこんなイメージで理解しています。まことの光である主イエスがおられる。それに向かって、闇が迫る。その光を消し去ろう、闇で覆ってしまおうとする。しかし、光はどんな巨大な闇にも飲み込まれることなく、輝き続ける。光を捕まえ、飲み込もうとした闇は、主イエスの光によって撃退され、滅ぼされ、逃げ退いていく。そんなイメージだと思います。
 9節を見てみましょう。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とあります。主イエス・キリストは「まことの光」です。偽りの光ではありません。少しの間輝いて、やがて消えてしまうような、弱々しい光ではありません。吹けば消えてしまうような光ではないのです。どんな巨大な闇も、これを飲み込むことが出来ない、力に満ちたまことの光です。そして、この光は「すべての人を照らす」のです。すべての人です。例外はないのです。この光に照らされていない人は1人もいないのです。ただ、この光に照らされていることを知らない人がいるだけです。この主イエス・キリストの光のイメージは、太陽を考えて良いでしょう。キャンドル・サービスがあるものですから、何となくローソクのイメージを持つ方も多いと思いますけれど、全てをの人を照らす光とは、太陽のようなイメージだろうと思います。ですから、クリスマスはこの主イエス・キリストの光が輝き出す、朝日が昇ってくる、そんなイメージと重なります。真っ暗な夜、闇が支配する夜。そこに朝日が昇ります。この世界を覆っていたすべての闇は、朝日が昇ると共に退いていきます。もう、闇の支配はありません。ただほんの少しの所でだけ、闇はまだ力を持っているかのように思われています。
 一つは、太陽の光が届かないように、固く雨戸を閉じた部屋の中です。しかし、雨戸を開けさえすれば、そこには主イエスの光が射し込み、闇は退きます。私共は、「もう朝ですよ、雨戸を開けましょう、主イエスの光はあなたの所にも射し込んできますよ、夜はもう明けたのですよ。」そう告げていかなければなりません。
 もう一つは、影です。主イエスの光はすべての人を照らします。この光が強ければ強い程、影も又濃くなります。どんなに光が明るく照り輝いても、この影が無くなることはありません。主イエスの光の中を歩もうとも、私共自身の影が無くなることはないのです。この影は、私共の罪と言っても良いでしょう。罪の闇が無くなることはないのです。しかし、ここで大切なことは、私共がどっちを向いているのかということなのです。私共が「まことの光」である主イエスに対して全身を向けているのならば、影は必ず私共の後ろに映ります。影は無くなりませんが、私共の後ろに移る影を気にする人は居ません。しかし、私共が「まことの光」である主イエスに背を向けるならば、私共の濃き影はいつも黒々と私共の前にあります。そして、私共の目はいつの間にか、自分の目の前に黒々と伸びる自分の影にばかり向けられることになりかねません。そして、まだ朝日が昇っていないかのように、目を上に上げることなく、自分の影の持つ、小さな闇に怯えかねません。良いですか皆さん。主イエスは来られました。「まことの光」は私共を照らしています。この「まことの光」を無きものにすることの出来る闇など存在しないのです。闇の力に怯えてはいけません。心と体を、私共の全身を、主イエスの方に向けるのです。そして、この光に向かって歩み出すのです。そうすれば、影は私共の後ろに退くのです。罪の値は死です。主イエスは、この死の闇をも打ち破られたのです。
 今年は、6月に田島さんと魚津さん、7月に澤田さん、11月に大野さん、そして週報にありますように、先週は西井さんが天に召されました。ご遺族の方々にとっては、つらい一年であったと思います。しかし、この5人の方々は、死の闇の中に飲み込まれていったのではありません。主イエスの光の中に、復活の光の中に包まれて行かれたのです。

 私共はただ今から聖餐に与ります。主イエス・キリストが肉体をとり、私共の中に宿られたことを心に刻む為であります。まことの光が私共の中に宿り、一切の闇を打ち滅ぼして下さったことを心に刻む為であります。そして、私共がまことの光である主イエス・キリストに照らし出されて、心全体、体全体を主イエス・キリストに向けて歩み出す為であります。

[2007年12月23日]

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