富山鹿島町教会

礼拝説教

「今日、救いがこの家に来た」
エゼキエル書 34章11〜16節
ルカによる福音書 19章1〜10節

小堀 康彦牧師

 昨日、富山刑務所でのクリスマスに行って来ました。週報にありますように、日本基督教団の富山地区6教会から42名の方が参加し、讃美歌を歌いました。参加された受刑者の方は60名くらいでした。福野伝道所からのハンドベルクワィヤによる演奏、又、私共の教会の三鍋姉による腹話術もありました。私はこの会に参加するのは4回目なのですが、毎回、このクリスマス会に出ている人たちは「クリスマスの出来事は自分には関係ないこと」と思っているのではないか、そう思わされるのです。場所は刑務所ですから、整然と並んだイスに受刑者の人たちが座っています。その周りには、刑務所の職員の方が十数名立っているわけです。私共は、壇の上に立って讃美歌を歌ったりする。壇の上の私共は、これが終わればすぐに塀の外に出て行く。壇の下の人たちは塀の中に残る。この超えられない格差の中で、それでも私共は共にクリスマスを喜び祝おうとするのです。この教会が大久保先生の時代から、30年以上続けていることです。本当にクリスマスを共に喜び祝うということが出来たかと問われれば、心許ないのです。しかし、クリスマスの出来事は、この受刑者の方々とも、共に喜べる、共に喜び祝うべきものであるということは間違いないことなのです。クリスマスの出来事、救い主イエス・キリストの誕生は、全ての人に与えられた喜び、全ての人に告げられる救いの到来だからです。例外はないのです。どんな境遇の中に生きている人の所にもやって来た神様の救いだからです。受刑者の人々に限ったことではありません。病気の人、経済的困窮の中にある人、悩みの中にある人、どんな人にもこのクリスマスの喜びは届けられ、喜びに包まれるべきものなのです。勿論、クリスマスを自分の喜びとしていない人は、この日本にも大勢います。私自身、20歳で洗礼を受けるまでそうでした。世間がクリスマスと言って騒いでいても、いや騒げば騒ぐほど、自分には関係ないと思っていました。幼い頃、サンタクロースというのは、金持ちの家にやって来るものだと思っていました。しかし、そうではありません。主イエスは、神様なしで生きてきた、そのような人の所に来て、「さあ、神様と共に生きよう。あなたも神様に造られた者、神様に愛されている者なのです。神様の子として新しく生きよう。」そう告げられるのです。

 今朝与えられております御言葉は、ザアカイという人と主イエスとの出会いの出来事が記されています。幼子たちにも良く親しまれている話です。教会学校に来ていた人は、このザアカイの話を紙芝居などでも見たり聞いたりしたことがあるでしょう。
 主イエスがエリコという町に入った時のことです。その町にザアカイという徴税人の頭がいました。この徴税人というのは、福音書を読んでおりますと何度か出てまいりますが、口語訳では取税人と訳されておりました。徴税人でも取税人でも、税金を取り立てる人であるということは、字を見れば分かります。しかし、ここには少し説明が必要であろうかと思います。税金を取り立てる人ということで、現代の日本の税務署の職員のような人を想像されると困るのです。当時のユダヤはローマ帝国に支配されておりました。ローマはその支配している地域から、自分たちが直接税金を取るということをしませんでした。征服されている人に、自分達で税金を集めさせたのです。この地域の税金はこれだけと決めまして、その値段でその地域の税金を集める権利を売ったのです。これでローマは税金を集める為の様々な労力を使うことなく、確実に税金を集めることが出来ました。言うなれば、税金を集めることを完全民営化したわけです。そして、この税金を集める権利を買ったのが徴税人の頭であり、その人のもとでユダヤ人から税金を集めていたのが徴税人です。少し考えれば分かることですが、例えば5000万円で税金を集める権利を買って、5000万円だけ税金を集める人はいないでしょう。6000万、7000万、あるいは1億と集める。既にローマには5000万円は支払っているわけですから、残りは自分のものとなります。こんなうまい話はありません。徴税人の頭というのは、その町で一番の金持ちということだって起きたことでしょう。しかし、ユダヤの人々はその仕組みを知っているわけですから、ユダヤの人々にしてみれば面白くない。自分たちを支配しているローマの手先になって、自分たちから金を巻き上げ、自分は裕福な暮らしをしている。とんでもない奴だ。そう思うわけです。実際、当時のユダヤ社会の中で、徴税人というのは完全に差別の対象となっていたのです。普通のユダヤ人と一緒に食事をすることも禁じられ、裁判の証人としても認められていませんでした。同じユダヤ人でありながら、金の為に祖国を裏切り、民族を裏切った者。日本語としてはもう死語になっていますが、売国奴、これが当時のユダヤ社会における徴税人の立場であったと思います。お金はある、しかし、人からは忌み嫌われていた人々です。世間から相手にされない金持ち、それが徴税人の頭であり、ここに出てくるザアカイでした。
 そのザアカイが住むエリコの町に主イエスが来られた。人々は皆、主イエスを見ようと、主イエスの話を聞こうと、主イエスの周りに集まった。ザアカイも主イエスを見ようとしましたが、ザアカイは背が低かった。聖書がわざわざ「背が低かった」と記す程ですから、彼は余程背が低かったのだと思います。どちらかというと背が低い方だ、というようなものではなく、一目見て分かる程に背が低かった。あるいは、この身体的な欠陥が、ザアカイを、人の目を気にせずに徴税人になってでも金を集める道に進ませたのかもしれません。ザアカイは主イエスを見たいと思いましたが、人々がザアカイの為に道を空けてくれるということはありませんでした。主イエスの周りにいた人々が、ザアカイの邪魔をしたのだと思います。お前なんかが来る所ではない。そんな無言の圧力が、ザアカイの前に立ちはだかったのではないでしょうか。
 さて、ザアカイはイエス様を見る為に何と、道のそばにあったいちじく桑の木に登ったのです。この場面は、想像しただけでもおかしくなります。大の大人が、木に登ってイエス様を見ようとしているのです。自分が木に登ったことを思い出そうとしたのですが、小学生の頃に木登りをして遊んだことしか思い出せませんでした。ザアカイという人は、人の目など本当に気にしない人だったのだと思います。
 ここで、逆転が起こります。ザアカイは主イエスを見ようとして木に登ったのですけれど、そのザアカイに対して、主イエスの方がザアカイを見て、そして声をかけるのです。5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」主イエスを見ようとしていたザアカイ。しかし、ザアカイの方が主イエスに見られ、そして声をかけられる。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」ザアカイは驚きました。どうして自分の名前を知っているのか。ザアカイにとっては不思議でした。しかし、主イエスにとって、それは不思議でも何でもないことだったのだと思います。主イエスは神様ですから、ザアカイの名前を知っているなどということは不思議でも何でもない。しかし、それだけの理由ではありません。主イエスがザアカイを知っていたのは、主イエスがこのエリコの町に来たのは、ザアカイを求める為だったからです。ザアカイはそんなことは知りません。しかしそうなのです。先程、エゼキエル書34章を読みました。16節に「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」とあります。そして、主イエス御自身、10節で「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と言われている。主イエスにとって、この「失われたもの」こそ、人々に嫌われ、お金があればいいと考え生きていたザアカイだったのです。主イエスは、善人や正しい人を求めに来たのではありません。失われた人々。神様によって造られたのに、その本来の姿を失い、自分が神様の似姿に造られたことを見失ってしまっていた人々。神様に従い、神様と共に生きることを見失ってしまった人々。神様のもとにある希望と命と平安を失ってしまった人々。そういう人々を捜し出し、神様のもとに連れ戻す為に来られたのです。主イエスは、まさにこのザアカイを尋ねだし、神様の御許に連れ戻すために来られたのです。勿論、ザアカイ一人ではなくて、失われた大勢の人を訪ねてエリコに来たのでしょう。しかし、ザアカイにとっては、「わたしのために来てくれた。わたしを求めてきてくれた。」ということであったと思うのです。この鹿島町教会が建っているのは、今朝ここに集められた「あなた一人が救われるため」なのです。わたしはそう思う。確かに、富山の多くの人が救われるためでしょう。しかし、「私のために。私一人のために。」この教会は建ったのだと思う。ここに教会があるということ自体、神様がどれほど私を愛してくれているか、救おうとされているかの徴なのではないでしょうか。

 主イエスは、「急いで降りて来なさい。」と言われる。私の立っている、この同じ所に来なさい。私と一緒に歩こう。そう言われるのです。そして、何と、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われたのです。主イエスが自分の家に泊まる。ザアカイは何が何だか分からない程に驚き、喜びました。世間の人間が誰も相手にしない、この自分の家に、主イエス御自身が泊まられる。そう、主イエスは私共の家に、私共の中に宿り給うのです。私共とすれ違い、私共の人生を横切っていくのではないのです。私共の中に宿り、共に歩み給うです。
 ザアカイは、喜んで主イエスを迎えました。しかし、これを見た人々は言うのです。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」これは陰口のつもりで言われた言葉でしょう。しかし、これはその通りなのです。主イエスは罪深い人のところに来て、宿り、その人を救い、その人を神の子として新しくして下さるのです。主イエスが来られたのは、その為だったからです。
 ザアカイは主イエスに言います。8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」今までのザアカイからは考えられないような言葉です。ザアカイは変わったのです。主イエスが自分を見て下さり、呼んで下さり、家にまで来てくれたからです。彼は新しくなったのです。主イエスに出会い、ザアカイの中で大切なものが変わったのです。それまでザアカイにとって大切だったものは、自分の財産でした。人から何と言われれようと、それを貯める為に生きていた。しかし、ザアカイはその自分の財産から自由になったのです。自由になって、神様の為に使う、正しく生きるということを選び取ったのです。主イエスに出会い、新しくされるとは、こういうことなのでしょう。大切なものが変わるということなのです。それまでのザアカイにとって、お金や財産というものは、自分の劣等感を覆うものだったのではないでしょうか。自分を守る為の、弱い自分をさらけ出すことが出来ない、そういう自分の鎧のようなものだったのではないでしょうか。しかし、もう主イエスに出会って、そのようなものが必要ではなくなった。そんなことより大切なことがある。神様に造られた者として正しく生きる。神様に認めていただいた者としてふさわしく生きる。そんな人生の転換がここで起きたのだと思うのです。
 主イエスは、そのようなザアカイの姿を見て、「今日、救いがこの家を訪れた。」と言われたのでしょう。訪れたのは、主イエス御自身でした。この主イエスが来られた時、救いが来たのです。主イエスの訪れとは、そういうものです。主イエスが来たのに何も起きない、主イエスと出会ったのに何も変わらない。そんなことはあり得ないからです。主イエスは救いをもたらす為に来られました。その主イエスが、私共のところに来られたのなら、私共も変えられるのです。私共もこのザアカイのように、神様の御前に新しく生きる者とされるのであります。実際、私共はそのように変えられた。だから、クリスマスを喜び祝わないではいられないのでしょう。

 皆さん、どうしてこのザアカイの話が聖書に載っているのだと思いますか。私は、実に単純な理由によると思っています。それは、ザアカイが、この話を何度も何度もしたからだと思います。そして、このザアカイの話を聞いた人々は、「ああ、自分もそうだった。」そう思ったからです。ザアカイが後にカイザリア地方の教会の監督になったという話が伝わっています。それがどこまで本当なのかは分かりません。しかし、ザアカイがキリスト者となったということは本当だと私は思う。そして、彼は自分が主イエスと初めて出会った時のこの話を何度も何度もしたに違いない。喜びと驚きと感謝をもって、この時の話を何度もした。そして、それを聞いた人々も、自分もそうだった。自分が主イエスを求めていたと思った時、既に主イエスが自分の名を呼び、自分のもとに来てくれ、自分と共に歩み、自分の中に宿って下さった。その恵みを、共に喜び、祝ったに違いないのです。それは、この話を読む私共が、このザアカイの姿に、自分自身を重ねて読むのと同じです。
 今年のクリスマス、まだクリスマスを自分の喜びの時として祝えない多くの人々のことを私共は覚えます。そして、一人でも多くの人に、この喜びを共に喜んでいただきたいのです。ザアカイが、何度も自分の主イエスとの出会いの物語、救いの証しを語ったように、私共も又自分の言葉で証しをなし、隣り人に主イエスの到来の喜びを伝えていきたいと思うのです。

[2007年12月9日]

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