富山鹿島町教会

礼拝説教

「新しい始まり」
創世記 45章16節〜46章34節
ルカによる福音書 2章22〜32節

小堀 康彦牧師

 今日からアドベントに入りました。クリスマスのシーズンに入ったわけです。週報にありますように、今週は金曜日の夜に市民クリスマスが、土曜日には刑務所でのクリスマスが行われます。教会の玄関にはアドベント・クランツが置かれ、一本目のローソクに火が点りました。クリスマス・リースも飾られました。クリスマス・ツリーには、昨日教会学校の子供たちが飾り付けをしてくれました。喜びのクリスマスへの歩みが今年も始まりました。救い主の誕生を待ち望んだ神の民の歴史と自分たちを重ね合わせ、主イエスが再び来たり給うを待ち望む信仰を整える時であります。教会の暦では、このアドベントから一年が始まるというのが長い間の習慣です。今日から新しい一年が始まるのです。新しい未知の年に向かって、一歩を踏み出すのです。私共は、この新しい年に何があるのかを知りません。しかし、この新しい年への一歩は、クリスマスに向かっての一歩、主が再び来たり給う日に向かっての一歩なのであります。それは、神様が備えて下さっている喜びと祝福に向かっての一歩であることなのであります。神の民はそのことを信じ、新しい年を神様の祝福に向かっての新しい出発の時として迎えてきたのです。

 ヨセフ物語を共々に読み進んでまいりましたが、今日で終わりです。来週からは再びルカによる福音書に戻ってまいります。このヨセフ物語は、創世記の最後の部分に当たるわけですが、ヤコブとその家族がエジプトに移り住んだということで終わるわけです。そして聖書は次の出エジプト記となります。ヤコブの家族がエジプトに移り住んだ時から何百年か後、聖書ははっきり430年後と書いておりますが、彼らはエジプトで奴隷となってしまい、神様によってモーセに率いられてエジプトから脱出し、再び約束の地カナンへと戻って来ることになるのです。この出エジプトの40年間の旅の途中で十戒が与えられるわけです。エジプトに移り住んだ時、ヤコブとその家族、聖書はその数を70人としていますが、それが出エジプトの時には60万人にまでなっています。大変な数に増えているわけです。
 私共はここで思い出さなければなりません。そもそもこの神の民の出発は、たった一人のアブラハムという人を神様が選び、あなたを大いなる国民にするという約束から始まったということを。アブラハムには子供が出来ず、100歳になってからやっとイサクが与えられました。そして、イサクにはヤコブとエサウという双子が生まれ、ヤコブがアブラハムの祝福を受け継ぐ者となりました。アブラハム、イサク、ヤコブ、この三代目にしてやっと家族が70人にまで増えたのです。そして、この70人がエジプトの地で60万人にまで増えたのです。更に言えば、この神の民は主イエス・キリストの救いの御業によって、イスラエル民族という枠を超えて全世界に広がり、今では19億人にまで増えたのです。ちなみに次に多いイスラム教は10億人、次のヒンズー教は7億人、仏教は3億人です。私共はこのアドベントの時、この壮大な神様の救いの御業、救いの歴史に目を向けなければなりません。この歴史は継続中なのです。私共の人生は、この神様の壮大な救いの歴史の中にあるのです。そしてそれは、神様の祝福の歴史です。ですから、私共は未知の新しい出発の時に当たっても、少しも心配することなく、安んじて、希望の中で一歩を踏み出すことが出来るのであります。

 さて、ヤコブの家に和解が訪れました。22年前に兄たちによってエジプトへ売られたヨセフと兄たちの間に和解がなされた。これが先週見たところです。そしてヨセフはヤコブとその家族をエジプトへ移り住むようにと招きます。これが今日与えられている所です。エジプトの王ファラオも、ヤコブたちをエジプトへと招きました。ヨセフの兄たちは、たくさんの食糧とみやげ物を携えて、父ヤコブのもとに戻ります。そしてヤコブに、ヨセフが生きていたことを、しかもヨセフがエジプト全国を治める者にまで出世していたことを伝えました。ヤコブは息子たちの言うことが信じられず、喜びのあまり気が遠くなる程でした。それはそうでしょう。22年間もの間、自分の息子は死んだと思っていたのです。突然、生きていたと告げられても、しかもエジプトの宰相にまでなっていると言われても、にわかに信じることは出来ないでしょう。息子たちは父ヤコブに、ヨセフが与えてくれた様々なものを見せ、エジプトに招かれたことを伝えました。その時のヤコブの言葉が45章28節にある「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」です。今までヤコブの口から出て来る言葉は、生きる喜びと希望を失った者のそれでした。42章38節「お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ。」愛する息子を失ったと思っていた父ヤコブ。もう生きる喜びも希望も失っていたヤコブ。しかし、ヨセフが生きているという思いがけない知らせに、彼は再び生きる希望を回復したのです。生きる力と希望が回復されたのです。そして、ヤコブとその家族は全員、エジプトに向けて出発しました。新しい土地、エジプトに向かっての旅立ちです。未知の土地です。しかし、そこには愛するヨセフが待っているのです。ヤコブたちは希望と喜びの中で旅立ちました。
 しかし、ヤコブには一つ、どうしても気にかかることがありました。それは神様によって与えられたこの約束の地カナンを離れるということでした。この土地は祖父アブラハムが、メソポタミアから出発して、神様によって与えられた地です。この地を離れても神様の祝福はあるのだろうか。若き日に、兄エサウと仲違いし、この約束の地を離れた時、神様は再びこの地に連れ帰る、わたしはあなたと共にいる、そう約束して下さいました。そして事実、神様は自分をこの約束の地に連れ帰り、家族も70人にまで増やして下さった。この地を離れ、エジプトに行くということは、この神様を裏切ることになるのではないか。父イサクがやはり飢饉にあった時、神様は「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福する。」(創世記26章2〜3節)と言われたではないか。そして父イサクはその言葉の通り、この地にとどまり、神様の祝福を受け、周りは飢饉だったのに収穫を得たではないか。本当に自分はエジプトに下って行って良いのか。それがヤコブの心の中にはあったのです。
 そのようなヤコブの心の中を知っているかのように、神様はヤコブに約束の言葉を与えられました。46章2〜4節「その夜、幻の中で神がイスラエルに、『ヤコブ、ヤコブ』と呼びかけた。彼が、『はい』と答えると、神は言われた。『わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。』」エジプトへ下ることを恐れるな。わたしはあなたと共にいる。必ず連れ戻す。そう神様はヤコブに言葉を与えられたのです。この言葉によって、ヤコブは安心してまだ見知らぬエジプトへと旅立ったのです。神様は新しい出発に際して不安を抱いている私共に、このような言葉を持って励まし、その一歩を歩み出させるのであります。
 私にもこのことは良く判ります。私が会社を辞めて神学校に行くことにした時に与えられたのは、エレミヤ書1章5節「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」でした。自分に牧師としての資質があるのかどうかも判らない。経済的な裏付けもありませんでした。会社に勤めていた間の若干の蓄えがあるだけでした。しかし、神様が私を生まれる前から選び、この時まで導いてくださったのなら、何も心配することはない。安んじて、神様の御手に全てを委ねればよいと思いました。この御言葉を与えられ、私は神学校へと行くことが出来ました。不思議なほどに、将来への不安は全くありませんでした。神様の言葉は実に力があるものなのです。
 ここで、4節「わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。」と言われていますが、このことは二重の意味があると思います。ヤコブはエジプトの地で死に、その遺体が息子たちによってカナンの地に運ばれて葬られることになるのですが、それが一つ。そしてもう一つの意味は、やがてイスラエルの民がエジプトにおいて増え、モーセによって率いられてこの約束の地の戻るということであります。
 神様の計らいというものは、まことに不思議です。ちっぽけな私共の頭の中では、なかなか分かりません。わざわざエジプトに行かせたりせず、この約束の地でヤコブの子孫を増やせば良いのに。何とも回りくどいといいますか、回り道といいますか、曲がりくねっている、そんな風にも見えます。私共は最短距離で、最も短い時間で目的地に着こうとします。効率、能率を求めていきます。その方が合理的でムダがない。しかし、私共の人生はなかなかそのようにはいかないのではないでしょうか。どこか曲がりくねっている。しかし、それはムダではないのだと思います。神様は効率を求めてはいらっしゃらないのです。私は大学に浪人して入って、卒業して会社に入って、それもやめて神学校に行きました。高校を卒業してすぐに神学校に入った人と比べると、卒業するのは7年遅れたことになります。しかし、それは少しもムダであったとは思いません。神様が備えて下さった時なのだと思っています。私共の人生は曲がりくねっている。ちっとも真っすぐではない。しかし、そこにこそ神様の御計画、憐れみというものが現れているのではないか。そう思うのであります。

 ヤコブは神様の約束の言葉を受けて、70人の家族、といっても、女性や子供の人数は入っていませんので200人くらいいたと思いますが、全ての家族と共にエジプトに行きました。そして、ついにヨセフと再会を果たしたのです。再会の地はゴシェン、ナイル川のデルタ地帯の東方の地域です。29節「ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。」22年ぶりの父と息子の再会です。ヨセフは溢れる涙を止めることは出来ませんでした。そしてヤコブは言います。30節「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」「もう死んでもよい」とヤコブは言うのです。このヤコブの言葉は、22年ぶりに愛するわが子に再会した父の気持ちを述べているわけでありますが、それだけではないように私には思えるのです。私は、このヤコブの言葉に、生まれたばかりの主イエスが父と母に抱かれて宮参りをした時に、神殿にいたシメオンが幼子イエスを腕に抱いて言った言葉、ルカによる福音書2章29〜30節「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」が重なるのです。シメオンは救い主イエス・キリストの誕生を確認し、「もう死んでもよい」と言ったのです。もう何も思い残すことはない。神様の救いが確かに来た。シメオンは、主イエスの誕生に神様の真実と、この世界の救いを確信したのです。だから、もう思い残すことはない。死んでもよい。そう言ったのです。ヤコブもそうだったのではないかと思うのです。死んでしまったと思っていたヨセフが生きていた。もうカナンの地で飢饉の為に自分たちは滅びるしかないと思っていた。神様の祝福の約束は、もう反古になったと思っていた。しかし、そうではなかった。ヨセフは生きていたし、自分も自分の家族も飢饉で滅びることもない。神様の祝福の約束は、何一つ反古になっていないことが分かった。だから、もう思い残すことはない。もう何も心配いらない。全てが神様の御手の中にあることが分かった。だから、もう死んでもよいとヤコブは言ったのであります。
 皆さん、クリスマスを迎えようとしているアドベントのこの時、神様から私共に告げられていることも、これと同じことなのです。主イエスは生まれた。長く神の民が待ち望んでいた救い主が来られた。そうである以上、長くキリストの教会が待ち望んでいる、再臨のキリストも必ず来られる。だから、何も心配することなく、神様の御手の中にある明日を信じて、新しく一歩を踏み出していけば良い。曲がりくねった人生であったとしても、その先には必ず神様の祝福が待っているからです。たとえ、もうダメだと思う時があったとしても、決してダメになることはないからです。神様の御手の中にある明日があるからです。今から与る聖餐は、そのことを私共に示しているのです。神の国における饗宴が私共を待っているのです。
 ヤコブはカナンの地にあって、もうダメだと思っていた。生きる希望を失っていた。しかし、神様はヤコブが考えてもいなかったエジプトの地で、ヨセフを生かし、ヤコブの家族が生き延びる道を備えて下さっていたのです。私共もそのことを信じて良いのです。私共がまだ知らない、考えたこともないところで、私共の明日を切り開く神様の御業が進展しているのです。そのことを信じて良いのです。そして、今隠されている神様の救いの御業が明らかになる日、それが私共にとっての明日なのです。新しい年、今隠され、今進んでいる神様の救いの御業が明らかにされます。そのことを信じ、そのことを楽しみにしながら、新しい一歩を踏み出していくのです。

[2007年12月2日]

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