エジプトにおいて起こった七年の豊作、そしてそれに続く飢饉。この飢饉はエジプトだけではなくて、その周辺の国々をも襲いました。ヤコブの家の者たちが住む地域にも、飢饉が激しくなります。食べる物がない。これは最も深刻な危機です。生きていけない、生存の危機です。私のような、昭和三十年代に生まれ、日本の高度経済成長と共に育ったような者には、正直なところ、この食べ物がないということの恐ろしさが分からないところがあります。以前、七十歳代の戦争には行かなかったけれど、子供時代に先の大戦を経験された方が、こう言ったのを聞いたことがあります。「戦争の何がイヤかって、腹が減ることだよ。毎日毎日、目が覚めると腹が減っている。朝メシを食べても、昼メシを食べても、晩メシを食べても、食べてる時も、食べ終わった時も、腹が減っている。ずーっと腹が減っている。もうあんなのはイヤだ。」皆さんの中には、これと似たような経験をした人もおられるのではないかと思います。ヤコブたちも、毎日蓄えた食べ物がなくなっていく中で、もうこれがなくなれば飢え死にするしかない、そこまで追い込まれたのではないでしょうか。命の危機です。そういう中でヤコブは、エジプトに行けば穀物がある、食糧がある、そんな話を聞いたのです。ヤコブは息子たちに、エジプトに行って穀物を買ってくることを命じました。しかし、ヤコブはヨセフの弟、つまり、自分と愛する妻ラケルとの間に生まれた、ヨセフの弟ベニヤミンだけは、エジプトに下って行かせようとはしなかったのです。なぜでしょうか。ヤコブの心には二十年前の出来事、ヨセフを兄たちの所に行かせて死なせてしまったという不幸な出来事が影を落としていたのです。兄たちと一緒にエジプトにベニヤミンを送り出したら、ヨセフの時のようにベニヤミンも不幸な目に遭うかもしれない。そう思うと、ヤコブはベニヤミンを手放すことが出来なかったのです。
ここで皆さんは、二十年前のヤコブの家の状況を思い出すでしょう。ヤコブに一人溺愛されていたヨセフ。そのヨセフをねたみ、まともにヨセフと口も利けない兄たち。ヤコブはベニヤミンをヨセフと同じように特別に可愛がり、二十年前と同じ状況を作り出してしまっていたのではないでしょうか。今、このヤコブの家には二つのことが暗い影を落としています。一つは食糧がなくなってきているという、生存がかかった問題。もう一つは、ヨセフの時から続いている家庭内の不和です。実は、この二つの問題は、現代の私共も出会う最も深刻な問題であると言っても良いと思います。確かに、私共にはこの時代のように食べるということが直接的に生存を脅かすということはないかもしれません。しかし、経済の問題、生活の問題が、私共の心配事の多くの部分を占めていることに変わりはないでしょう。家のローンをどうする、教育費をどうする、老後の生活は、年金はどうなる、等々です。そして、もう一つの家庭の中の不和の問題は、私共の心を苦しめる大きな問題であることに変わりありません。この二つの問題がからみ合って、ヨセフ物語は進んでいきます。
多分、この時ヤコブはもう食糧のことしか考えることが出来ない、そういう状況だったのではないかと思います。私共もそうでしょう。自分の生活が立ち行かなくなるかもしれないとなれば、もうそれを何とかすることしか考えられなくなる。それが普通です。ヤコブはエジプトの穀物の話を聞いて、息子たちをエジプトに穀物を買いに行かせる。これも当然のことでしょう。じっとしていても、食糧は減っていく一方ですし、それも底をつくのは時間の問題です。エジプトに穀物を買いに行くのは当然でしょう。ヤコブは当然のことをしたまでです。しかし、そのエジプトにおいて、当然ではないことが起きます。ヤコブに買い出しに行かされた十人の息子たち、つまりあのヨセフをエジプトに売った兄たちがヨセフと出会うことになるのです。これが神様の導きでなくて何でしょうか。ここには、神様の導き、神様の働きによってという言葉は直接には出て来ません。しかし、ヨセフと十人の兄たちとが出会い、再会するするのは神様によって為された出来事であるに違いありません。それは6節の「ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した。」という言葉から分かります。これはヨセフが昔、兄たちに語って聞かせたヨセフの夢、兄たちに語って兄たちを怒らせた、37章7節の夢です。「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」という夢の成就です。夢が神様のお告げであるとするならば、夢の成就はとりもなおさず、神様の御業の現れということになるのであります。8節、9節には「ヨセフは兄たちだと気づいていたが、兄たちはヨセフとは気づかなかった。ヨセフは、その時、かつて兄たちについて見た夢を思い起こした。」とあります。ヨセフは兄たちに気づき、夢を思い出しました。しかし、兄たちはヨセフに気づきませんでした。二十年前にエジプトに奴隷として売った弟が、目の前にいるエジプトで王様の次の位にいる者だと、誰が気づくでしょうか。
この話が浪花節であるならば、ヨセフは兄たちの所に降りて来て、「兄さん、私がヨセフです。」と言って涙の再会ということになるのかもしれません。しかし、そうはならないのです。ここからの話の展開は、いささか複雑です。私は随分長い間、このヨセフの複雑な行動が不可解でなりませんでした。浪花節のような、単純な、情で動く人々に心が慣れているからなのだと思います。実に、この不可解と思えるほどのヨセフの複雑な行動、ここには、罪・悔い改め・和解という聖書のメインテーマが展開しているのです。ヨセフの口調は厳しく、有無を言わせぬ言い方で兄たちを責めます。そして、ヨセフは兄たちをスパイ呼ばわりして、兄たちを牢獄に監禁してしまうのです。兄たちは、自分たちはそのような者ではないと言いますが、ヨセフは聞きません。どうして、ヨセフはこのような仕打ちを兄たちにしたのでしょうか。カギは13節、14節の兄たちとヨセフのやり取りの中にあります。13節で兄たちは自分たちが何者であるかを語ります。「僕どもは、本当に十二人兄弟で、カナン地方に住むある男(ヤコブ)の息子たちでございます。末の弟(ベニヤミン)は、今、父のもとにおりますが、もう一人(ヨセフ)は失いました。」この失われたもう一人の兄弟こそヨセフです。ここで兄たちは「失いました。」と言うのです。この言い方は、自分にはまるで責任がないかのようです。この時、ヨセフはその言葉を聞き逃しません。14節「すると、ヨセフは言った。『お前たちは回し者だとわたしが言ったのは、そのことだ。その点について、お前たちを試すことにする。』」「そのこと」なのです。20年前のヨセフを売ったときのことなのです。ヨセフは知りたかったのでしょう。二十年前に自分にしたことを兄たちはどう思っているのか。
ヨセフは「お前たちのうち、だれか一人を行かせて、弟を連れて来い。それまでは、お前たちを監禁する。」と言い、三日間牢獄に監禁したのです。そして三日目、ヨセフは前とは少し違うことを兄たちに告げます。「兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟(ベニヤミン)をここへ連れて来い。」兄たちはヨセフの言葉に同意します。そして互いに言った言葉が21節です。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。」兄たちは三日間の牢獄での不安な時間、そして一人の兄弟を牢獄に残して行かねばならない状況になって、二十年前にヨセフにしたことを思い出したのです。そして、「罰を受けている」と思った。ヨセフは兄たちを苦しめるのが目的ではなかったのです。思い出して欲しかった。そして、自分の罪を認め、悔い改めて欲しかったのだと思います。それは、ヨセフだけの思いではありません。誰よりも神様ご自身がそれを求めたのであります。だから、24節には「ヨセフは彼らから遠ざかって泣いた。」とある。ヨセフは兄たちの話すことを聞いて泣くのです。兄たちは苦しんでいる、いい気味だ、というのではないのです。ヨセフは泣くのです。しかし、まだ和解することは出来ないのです。ヨセフと兄たちとの和解への兆しが見えています。しかし、まだ時が来ていません。ヨセフは兄たちを帰すに際して、穀物を与え、銀を返し、道中の食糧も与えたのです。しかし、兄たちにはこれが何のことだか分からず、不安をいっそう大きくするばかりだったのです。そして、彼らの口から出た言葉がこれでした。28節後半「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。」
兄たちは食糧を求めてエジプトに下った時、ヨセフのことなど思い出してもいなかったでしょう。それが三日間牢獄に入れられ、一人を残して帰らなければならなくなった時、ヨセフにしたことを思い出して、「罰を受けている」と言ったのです。しかし、聖書の神様は罰を与えることで終わりではないのです。本当の神様の御旨は救うことです。ヤコブの家の者を、食糧の危機から救い、肉親の争いという罪の現実から救うことだったのです。
「自分は罰を受けている。」というところでは、まだダメなのです。神様がなさろうとしていること、なしていること、私共を救おうとされている愛に目が開かれていかなければなりません。ヨセフの兄たちは、「罰を受けている」という思いから、一歩近づいて来た。「神が自分たちになさったこと、なさろうとしていることは何か。」そのことを思い巡らすところへと一歩進んだのです。罰を与える神というのは、「こんな悪いことをした。だから罰を与える。」ということですから、まだ人格の神、愛の神というところには至っていません。自動的な神、極端に言えば機械仕掛けの神ということになりかねません。ここで兄たちは、自分の兄弟であるシメオンが囚われの身となっているにもかかわらず、自分たちには銀が戻っているという恵みの出来事に出会って、「一体どれはどういうことだ。神は我々に何をなさったのか。何をなさろうとしているのか。」、そう問い始めているのです。これはちょうど、主イエス・キリストが私共に代わって苦しみを受け、それによって私共が救われ、恵まれ、豊かにされていることと似ています。この事実に触れ、私共は、これは一体どういうことか、神は何をなされたのか、と問わざるを得ないのであります。そしてこの問いは、自分が受けたのは、神様の罰なのか、試練なのか、それとも愛なのか、この問いへの答えへと私共を導いていくのであります。神は愛なのです。これは私共のどんな困難を前にしても揺らぐことのない真理なのです。
兄たちは、まだシメオンを捕らえたあの恐ろしいエジプトの主君がヨセフであることを知りません。そして彼が自分たちに食糧を与え、銀を返してくれた人であることも知りません。ですから、ただいたずらに恐れるしかないのです。その恐れは、根拠のない恐れです。それはちょうど、私共が出会う困難を前にして、全てを支配しておられる神様を知らずに恐れることと似ています。
この恐れは、父ヤコブに最もはっきりと現れています。兄たちはヨセフとの約束で、ベニヤミンをエジプトに連れて行かなければなりません。しかし、ヤコブはそれを許さないのです。38節「しかし、ヤコブは言った。『いや、この子だけは、お前たちと一緒に行かせるわけにはいかぬ。この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか。お前たちの旅の途中で、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ。』」とあるとおりです。私は、この恐れに支配されているかのように見えるヤコブは、決定的な一つのことを忘れているとしか思えないのです。その決定的なこととは、ヤコブ自身がアブラハム以来の祝福を受け継ぐ者であり、自分の子たちはそれをまた受け継ぐ者であるという事実です。ヤコブは若き日に、兄エサウを出し抜いてまで、この祝福をイサクから受けた者でありました。それなのに、今この恐れに支配されているかのように見えるヤコブは、このことを全く忘れ、目の前の食糧への不安と息子ベニヤミンへの不安で満たされてしまっているかのようであります。私共もそうなのでしょう。自分が神の子とされていること、神の民の一員であり、神の祝福を受け継ぐ者とされているということを忘れてしまうのであれば、目の前の不安、それは生活の不安であれ、体調への不安であれ、家族の問題に関しての不安であれ、それらのものに支配され、ただ恐れてしまうことになるのでありましょう。ですから、私共は忘れてはならないのであります。自分が神の子とされていること、神の民の一員とされていること。それ故、私共の家庭も子供たちも、神様の祝福を受け取り、受け継ぐ者として、神様の全き守りの中に置かれているということを、信じて良いのであります。そして、この神様の祝福を受け継ぐ者とされている故の安心は、明日へと目を向けることが出来るようになるのであります。ヤコブを支配しているのは、愛するヨセフという息子を失ったという嘆きであり、再び愛する者を失うのではないかという不安です。過去の不幸な出来事に縛られているのです。そこから私共を解き放つ力は、この神の子、神の民の一員とされているという事実を、心に深く受けとめるところから来るのであります。私共もこの事実に目を向け、安心してこの一週間も主の御前に歩んでまいりたいと思います。
[2007年11月11日]
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