富山鹿島町教会

召天者記念礼拝説教

「死を超えて、主イエスと共に生きる」
詩編 139編1〜18節
テサロニケの信徒への手紙一 4章13節〜5章11節

小堀 康彦牧師

2007.10.28

 今朝、私共は先に天に召された愛する者たちを覚えて、礼拝をささげています。今朝、皆さんの手許には、この教会の教会員として天に召された方々の名簿があるかと思います。昨年の名簿よりも4名の方が増えました。もちろん、私共はこの名簿には記されていない、先に天に送った愛する者をも覚えて、礼拝しているのであります。若くして召された方、長寿を全うされた方、突然召された方、長い闘病生活の後召された方。お一人お一人の人生が様々であったように、その死の迎え方もお一人お一人違っておりました。しかし今朝、私共は同じ思い、同じ希望の中で、愛する者の死を受けとめ、心を高く上げるために、ここに集められて来たのです。その同じ思い、同じ希望とは、この私共の愛する者たちは、この地上の生涯の歩みにおいて主イエス・キリストと共にあったように、死して後も主イエス・キリストと共にいるということです。そして、やがて時が来れば共々に復活するということです。

 今朝与えられておりますテサロニケの信徒への手紙一4章13節は「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」と告げます。聖書は「既に眠りについた人たち」と言うのです。既に死んだ人たちのことです。それを「既に眠りについた人たち」と言うのは、この人達はやがて目覚める時が来る、だから「眠りについた」のだと言っているのでしょう。愛する者の死は、いつでも悲しく、つらいものです。自分の体の一部を失うようなつらさです。悲しみも嘆きもない、愛する者の死などありません。それは信仰を持っていようと、持っていなかろうと変わりません。しかし、聖書は私共が愛する者の死に出会うとき、それが全てではないのだと告げるのです。復活がある。そのことを信じ、そのことを心に留め、希望と慰めを受け取って欲しいと告げるのです。
 14節を見てみましょう。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」とあります。主イエス・キリストは十字架にかかって死なれ、三日目に復活されました。それと同じように、主イエスを信じて眠りについた人々、つまり死んだ人々ですが、その人々も「イエスと一緒に導き出」される。導き出されるというのは、「死」より導き出されるということです。つまり、復活するというのです。先に眠りについた者、そして私共が復活する根拠は、主イエスが復活したということなのです。
 どうして、主イエスが復活したということが、私共が愛した人々の復活、或いは私共自身の復活と結びつくのでしょうか。このことはとても大切なことです。イエス・キリストは二千年も前に、ユダヤに生まれ、生活し、十字架にかかって死んだ。その方がたとえ三日目に墓から復活したとしても、どうして二千年も後の現代の日本に生きる私共や、先に天に召された私共の愛する者と、そのことが関係するのか。このことをはっきりさせておかなければなりません。
 今日の聖書の個所で、キリスト者として死んだ人たちについて、二通りの言い方がされています。一つは、14節の「イエスを信じて眠りについた人たち」という言い方です。そして、もうひとつは16節にあります「キリストに結ばれて死んだ人たち」という言い方です。この二つの別の言い方で表現されている人たちは同じ人たちでしょう。キリスト者であって死んだ人のことです。「眠りについた」と「死んだ」は同じことであることは見ました。そして、キリスト者を言い表すのに「イエスを信じて」という言い方と「キリストに結ばれて」という言い方が為されているのです。キリスト者とは、キリスト・イエスを信じている者のことだ。これは当たり前と言いますか、その通りのことだと思われると思います。問題は「キリストに結ばれて」です。イエスを信じるということと、キリストに結ばれるということは同じことなのです。この「キリストに結ばれて」という言い方は、口語訳では「キリストにあって」と訳されていました。「キリストにあって」より一歩踏み込んだ翻訳です。元々は〈εν χριστω〉 エン・クリストウ、英語で言えばin Christ です。キリストを信じて死んだ人は、キリストに結ばれ、キリストの中で、キリストにあって死んだのです。ですから、その死も、キリストの死と結ばれているのです。キリストの死と結ばれ、キリストと一つにされての死なのですから、キリストが復活されたように復活することになるということなのです。
 主イエス・キリストを信じるということは、主イエス・キリストを愛し、主イエス・キリストを信頼することでありますが、それは深く人格的に主イエス・キリストとの交わりに生きるということなのであり、主イエス・キリストの命と一つにされるということなのであります。これは、まことに不思議なことでありますが、私共の信仰の現実なのであります。私共は主イエス・キリストをこの目で見たことがありません。しかし、主イエスを愛し、信頼し、生き生きとした主イエスとの交わりの中に生かされています。主イエス・キリスト御自身が、私共と共に、私共の中に、生きている。
 私は、今朝どうしてもこのことを分かって欲しいのです。主イエスを信じるということは、私共の頭の中のことではないのです。信仰というものは、私共の生き方、考え方、心の持ち方というような小さなことではないのです。この肉体も含めて、私という存在そのものが、主イエス・キリストと結ばれるということなのです。私共が主イエス・キリストと共に生きている。主イエスの中で、主イエスが共に生きている。それは見えないことです。手で触れることも出来ません。しかし、それはまことに確かなことなのです。もし、主イエスが私共の中で生き、私共が主イエスの中で、主イエスと一つにされて生きているのでなければ、キリストが復活したのだから、私共も復活するということにはならないでしょう。キリストはキリスト、私は私、ということになってしまう。しかし、そうではないのです。
 その「しるし」として、私共は天地を造られた神様に向かって、「父よ」と言って祈ることが出来るということになるのです。天地を造られた神様の御子は、ただ独り主イエス・キリストだけです。そのキリストと一つにされているから、そのキリストが私共の中に生き給うが故に、私共は誰憚ることなく、「父なる神様」と祈ることが出来るのです。そればかりではありません。主イエスが私共の中に、私共と共に歩まれるが故に、私共は神様の御心に従って生きたいと心から願うのです。主イエスが共におられ、私共の中におられ、私共も主イエスの中に生きていないのなら、私共の願いは、いつも自分の欲、自分の誉れ、自分の幸せというものばかりを追い求めるものになってしまうでしょう。しかし、主イエスを信じる者は、そうではない。神様の御心を第一にしたいと願い、生きるのであります。ここに、私共がキリストの命の中に生かされている「しるし」があるのです。

 では、その復活とはいつあるのでしょうか。5章の1節には「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。」とあります。いつなのか、それは分からないのです。しかし、それは必ず来ます。主イエスの約束だからです。皆さんの中には、「二千年間来なかったのだから、もう来ないのではないか。」或いは「たとえ来るとしても自分が生きている間は来ないだろう。」そう考えている人もいるかもしれません。しかし、それは誤解です。いつ来るか分からないということと、来ないということは全く別なことでしょう。それはちょうど、昨日まで自分は死ななかったから、明日も大丈夫だろうと言うのと同じです。確かに、明日は大丈夫かもしれません。しかし、死は必ずやって来るのです。例外はないのです。それは突然にやってくるのです。それと同じように、復活の時も必ず来るのです。この復活という出来事は、主イエスが再び来られる時に起きます。主イエスは復活されてから天に昇られて、今もそこにおられる。父なる神様の右に座しておられる訳ですが、そこから再びこの地上に下ってこられる。その時に復活が起きるのです。
 使徒パウロがこの手紙を書いた時、テサロニケの教会の人々は、自分たちの目が黒いうちに主イエスは再び来られると信じていました。しかし、主イエスが来られる前に死ぬ人たちが出る。そうすると、主イエスが再び来られる時に、先に死んだ者たちは、その栄光を受けられないのではないかという不安が生じたのです。そこでパウロは、15節「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。」と語ったのです。まず、先に死んだ人達が復活するのだと告げたのです。そして続いてパウロは、主イエスが再び来られる時の様子について述べております。しかし、ここを読んでも、主イエスが再び来られる時、どのようなことが起きるのか、映画を見るようにイメージを浮かべることは出来ないだろうと思います。主イエスが再び来られるときには、どういう姿で来られるのか、雲に乗ってでも来るのか、どちらの方角から来られるのか、この時地球の裏側の人達の所には来られないのか、その様なことは何も判りません。この終末に起きることについては、私共が知ることが許されているのは、ほんの一部分でしかないのでしょう。ただはっきり分かることは、主イエスが再び来られるということ、死んだ者が復活するということであります。そして何よりも、「わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。(17節)」ということなのです。
 「主と共にいる」これこそが私共の救いの実体なのではないでしょうか。私共はすでに、主と共に生かされています。主イエスと一つとされ、生かされています。しかし、そのことが時として分からなくなってしまう私共です。様々な困難、悲しみ、嘆きの中で、主イエスと一つにされている現実が見えなくなってしまう。そういう時があるのです。しかし、主イエスが再び来られる終末の時、私共は復活し、永遠の命に生き、神の国に生きるようになる時、この「主と共にいる」ということは、迷うことのない、疑いようのない現実となるということなのです。その時、私共は一切の罪をぬぐい去られた者として、主と共に生きるようになるからです。復活というのは、単に肉体が生き返る、肉体が蘇生するというようなことではないのです。キリストに似た者として、復活されたキリストの体、霊の体に新しく創造されるということなのです。
 私共は、先に天に召された方々を思います時に、「もっと、こうしてやれば良かった。」「どうして、あの時、こうしてあげられなかったのだろう。」という、悔いが残る。そういうことがあるかもしれません。そして、今さら悔やんでもしょうがないと言って諦める。しかし、そのような悔いも又、復活の希望の中で乗り超えさせていただけるのです。何故なら、死は全ての終わりではないからです。主イエスとの交わりが終わりなきものである以上、私共と先に召された人々との交わりも又、キリストにあって、終わることはないからです。そして、互いに主の御前に復活する時、私共は互いに全ての罪をぬぐわれた者として、再び会うことになるのからです。再び愛する者とまみえるとき、「どうしてあの時、こうしてくれなかったのか。」、そんな恨み言が告げられることはあり得ないのです。互いに、一切の罪を拭われた者として相まみえるからです。私共の地上の歩みは、この日を目指しての一歩一歩なのです。

 主イエスが再び来られる時起きるのは、復活だけではありません。神様の裁きも又あるのです。5章の3節「人々が、『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」とある通りです。ですから、私共は「身を慎んで」この地上の生活を為していくのです。身を慎んで生きるとは、信仰に生き、愛に生き、救いの希望の中を生きるということです。自らの思いを第一とすることなく、神様の御旨に従うことを何よりも喜びとする者として生きるということです。私共の愛する、先に天に召されたお一人お一人が皆、そのようにしてこの地上の歩みを歩んだのです。私共も又、その方々の後に続くのです。主と共に生きる者として、この永遠に破られることのない救いの恵みの中に留まり続ける者として、この地上での歩みを為すのであります。 

[2007年10月28日]

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