富山鹿島町教会

礼拝説教

「何故判らないのか、何故悟らないのか」
イザヤ書 42章18〜25節
ルカによる福音書 18章31〜34節

小堀 康彦牧師

 今年も大変暑い日が続いております。この8月になりますと、毎年先の大戦のことが思い起こされます。8月1日夜の富山の大空襲。この日は毎年花火大会となるのですが、今年は水曜日で、ちょうど祈祷会の時間と花火大会の時間が重なりました。ドン、ドンという大きな音が鳴り響く中で祈りを合わせました。それは初めての体験でしたが、本当に空襲の中で祈りをささげているような錯覚を覚えました。そして、本当に二度とあのようなことが起きませんようにと祈りを合わせました。8月6日は広島の原爆、8月9日は長崎の原爆、そして8月15日は敗戦の日と、先の大戦の出来事を思い起こす日が続きました。皆さんも平和への願いを祈られたことと思います。先の大戦では、日本だけで何百万人という人が殺され、死にました。原爆も使われました。あの大戦の前と後では、戦争に対しての思いが変わったと思います。変わらなければおかしいと思います。戦争してまで守らなければならない国益とは何なのか。そんなものは存在するのか。人は誰も戦争なんてしたくない。戦争が悪いことと誰もが知っている。しかし、この地上から戦争が無くならない。それが悲しい。この悲しみは、人間の罪の悲惨さによる悲しみではないかと思う。
 「人は見たいことしか見ない、見たいことしか見えない。」と言います。そうなのでしょう。先日、アメリカで広島の原爆のドキュメンタリー映画が放映されたと報道されていました。スミソニアン博物館で原爆の展示が中止になったのが数年前のことです。アメリカも少し変わってきたのかもしれません。広島、長崎の原爆のことを知ろうとしないアメリカがあります。しかし、日本も又、中国や東南アジアでしたことを見ようとしません。しかし、自らが犯したこの罪の現実を見ずに忘れようとしてしまうのであれば、私共は何も学ばず、何も変わらず、それ故再び暗い闇の力に、罪の力に引きずられていくことになるのではないか、そう思うのです。先の大戦からもう62年。あの悲惨な戦場を経験した人はもう80歳以上になります。思い出したくもないことでしょうが、私共は聞いておかなければならないのだと思うのです。そしてその為には、私共の聞こうとしない耳と、見ようとしない目を、聖霊なる神様の力によって開いていただきたい。そう心から願うのです。

 今朝与えられております御言葉において、主イエスは自らの死と復活について、三度目の予告をいたしました。一度目と二度目は、9章に記されております。ルカによる福音書の場合、正確には17章25節に「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」とありますから、4回の予告をされたのですが、どうして主イエスは何度も何度も、自らの死を弟子達に告げられたのでしょうか。主イエスは、自らの死と復活の予告をただ一度だけなされたのではないのです。3度も4度も為された。同じことを何度も言われるということは、どうしても忘れないで欲しい、覚えておいて欲しい、そういう思いがあったからでしょう。弟子達に、自分の死というものをちゃんと見て欲しい、自分は十字架にかかって死ぬことを知った上で、業を為し、言葉を語っているのだということを分かって欲しい、主イエスはそう思われたのだと思うのです。或いは、自分が教え、様々な奇跡を為したことを、十字架の死と復活の出来事から受け取り直して欲しい、そう願われたのではないかと思うのです。しかし、この主イエスの思いを、弟子達はきちんと受けとめることが出来ませんでした。34節に「十二人はこれらのことが何も分からなかった。」と記されています。この時弟子達は、主イエスが何を言おうとされているのか、何を言っているのか分からなかったのです。主イエスは、何も隠していません。はっきりと、御自身がエルサレムにおいて、受難を受け、殺され、三日目に復活されることを語られました。しかし、弟子達はそのことを本気で受け取ることが出来なかったのです。どうしてでしょうか。私は、ここに弟子達の、そして私共の、「見ようとしたものしか見ない、見ようとしたものしか見えない」姿が現れているのではないかと思うのです。弟子達にとって、主イエスは力あるメシア、ローマに支配されている神の民を解放する方、そのようなイメージではなかったかと思います。そのような方が、異邦人(つまりローマ人ということでしょう)に引き渡され、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられ、鞭打たれ、殺されてしまったのでは困るのです。そんなことはあってはならないことなのです。あってはならないことですから、それは無いことにする。聞いても聞かなかったことにする。そういうことだったのではないかと思うのです。
 ここで、少し説明が必要でしょう。聖書は、「十二人はこれらのことが何も分からなかった。」と語ってすぐに、「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」と続いています。これは、神様が主イエスの言葉の意味をわざと隠して、弟子達に理解出来ないようにさせたというように取れます。しかし、そういうことではないと思います。これは、出エジプトの際に、神様が「ファラオの心をかたくなにされた」ということが何度も繰り返し記されておりますが、それと同じで、「放っておいた」ということではないかと思います。神様がわざわざファラオの心をかたくなにされたのなら、何度も災いを起こしてイスラエルの民をエジプトから脱出させようとされたことと矛盾してしまいます。それでは神様の一人芝居でしょう。そうではなくて、かたくななファラオの心を、神様は放っておいたということだと思います。ここでは、主イエスの言葉をきちんと受けとめようとしない弟子達を、神様は放っておいたということなのだと思います。何故放っておいたのか。それは、やがて時が来れば、この主イエスの死と復活の出来事に出会い、その意味を悟る時が来ることを神様は知っておられたからであります。

 事実、この後弟子達は主イエスの十字架の死に直面し、主イエスを捨てて逃げます。そして、復活された主イエスに出会って、初めて主イエスが救い主であるということがどういうことなのか悟るのであります。弟子達はこの時まで、「自分は全てを捨てて主イエスに従っている」そう思っておりました。しかし、主イエスを捨てて逃げてしまうという現実の中で、本当は自分の夢や自分の理想や自分の願いを主イエスに託していただけであって、主イエスに本当に従い、全てを主イエスに委ねていた訳ではないということが明らかにされて、弟子達は初めて主イエスの十字架の意味が判ったのであります。自分の弱さ、愚かさ、身勝手さ、そういうものを突きつけられて、それでも主イエスが自分達を愛し、召して下さっていることを知った時、彼らの目と耳とは、初めて主イエスに向かって開かれたのであります。復活の主イエスに出会って、初めて弟子達は主イエスが自分達に、何度も何度も自らの死と復活を予告されていたことを思い起こしたのであります。主イエスは始めから、この十字架と復活に向かって歩まれていたということを悟ったのであります。ルカによる福音書24章13節以下には、エマオ途上の二人の弟子達が、復活の主イエスに出会って、心が燃え、目が開かれたことが記されています。これは十二弟子達の上に起きたことと同じでありましょう。使徒パウロに起きたことも同じであります。聖霊なる神様の働きによって、自分の中には何も無い、先週も引用しましたカルヴァンの言葉で言うならば、「私共の中には一粒の義さえもない」、このことが明らかにされた時、主イエスの受難と死の意味が明らかにされたということなのであります。「私の中には一粒の義さえもない。」このことは、まことに「見たくない私の現実」であり、「聞きたくない私の現実」であります。しかし、このことを認めない限り、主イエスの十字架の意味が明らかにされることはないのであります。
 先週私共は、金持ちの議員と主イエスのやり取りを見ました。金持ちの議員は、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と主イエスに尋ねます。彼は、自分は永遠の命を受け継ぐ程の良い業を自分ですることが出来ると思っていた。この思いを主イエスは、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けよ。」と告げられることによって打ち砕かれました。この時、弟子達は「わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました。」と言うのです。自分達は、この金持ちの議員のように、全てを捨てて主イエスに従うことの出来ない者ではない。自分は従っている。なかなか大したものでしょう。そう主イエスに告げたのです。この時、彼らはまだ主イエスに従い切ることの出来ない自分の弱さ、愚かさ、自分の罪の悲惨さに気付いていなかったのです。だから、主イエスの受難と死、そして復活の意味を知ることが出来なかったのであります。
 私共が主イエスの受難と死、そして復活の意味を悟るとするならば、それにはどうしても自分の見たくない罪の悲惨さに気付かなければならないのであります。この罪の悲惨さとは、個人的なことにとどまりません。戦争はそれが国家という単位で現れたものでありましょう。私共は、原爆による唯一の被爆国ということだけを見ることでは済まないのです。朝鮮で、中国で、アジアで何をしたのかも見なければならないのでありましょう。このどうしようもない、一粒の義さえ持ち得ない私共が、どうして救われるのか。主イエスの贖いしかないのであります。自分は正しく、相手は間違っている。私共はそれをいつでも、どこまでも言い張る。しかし、神様の御前に出た時、そのようなことは決して言えないことを知らされるのではないですか。私の中には何も無い。一粒の義さえもない。「主よ、憐れんで下さい。」としか言えない自分が、そこには居る。この自らの傲慢が打ち砕かれ、神様の御前に憐れみを求める、この所においてしか平和は来ないのです。人と神、人と人、国と国との間においても、それは同じことなのであります。

 弟子達は、復活の主イエスに出会い、主イエスが自らの死と復活を何度も予告していたことを思い出しました。そして、主イエスの十字架は、たまたま、偶然、そのようになったということではなく、主イエスはそのことを承知の上で、エルサレムへの道を歩まれていたこと。主イエスはご自身の受難と十字架の死を承知の上で、なおその後の復活を見すえて、全てを神様に委ねて、神様に全き服従をされたことを悟ったのであります。神様に従うということはどういうことなのか、主イエスの十字架への歩みを思い起こしつつ、学んだのであります。この地上の命を超えた命を見据えて、全てを支配し、全てを導き給う神様に、自分の全てを委ねて良いのだ。そう悟ったのです。そして、弟子達は全世界に出て行って、神様に従う者、主イエスに従う者として生きたのであります。そして、そこに教会が建ちました。自らの力によらず、正しさによらず、ただ神様の御支配と導きの中に歩む民が生まれたのです。
 平和を思うこの8月、私共は主イエスの十字架と復活を悟らぬ者としてではなく、自らの罪の悲惨さに目を開かれた者として、平和を求めていきたい。主イエスの十字架と復活にしか、自分の希望も、世界の希望もないことを知らされた者として、平和を求めていきたい。人には出来なくても、神には出来ることを信じ、まことの平和を求めていきたい。。平和の主である主イエス・キリストをほめたたえつつ、「御国を来たらせ給え。御心が天になるごとく、地にもなさせ給え。」との祈りをささげつつ、平和を求めて歩んでまいりたいと思います。 

[2007年8月19日]

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