今日は礼拝後に、教会修養会を行います。聖餐についての学びを共にし、改めて聖餐に与る恵みを心に刻みたいと思っております。先週は、この学びの為の準備に、心と時間を注いできました。今まで何度も読んできましたカルヴァンの聖餐についての文章を、改めて何度も読み返しました。朝から晩までパソコンの前に座りながら、カルヴァンが書いた聖餐についての小さな書物を、繰り返し繰り返し読みました。カルヴァンの文章の抜き書きのようなレジュメを作りながら、カルヴァンが聖餐をどれほど重んじ、それに込められたキリストの恵みの中に生きる喜びを味わっていたかを思わされました。聖餐に与る真剣さに打たれ、思わず襟を正される思いを何度もいたしました。ぜひ、皆さん残っていただきたいと思います。
その中でカルヴァンは、「我々の中には、一粒の義さえも発見出来ない。」と言います。そして、そのことがはっきり分からないと、主イエス・キリストの救いに対して、飢えてこれを求めるということはないだろうと告げるのです。自分の中には何もない。神様に義とされ得るものは何もない。ただ滅びるばかりの自分しかない。だから、キリストの救いを求めるしかない。これが、聖餐に与る時、私共が知っていなければならないことだと言うのです。そして、キリストの中に私共の幸福の全てがある。キリストの中にしかない。だからそのキリストの約束を信じ、聖餐に与るのだと言うのです。本当にそうだと思いました。
今日与えられている御言葉には、永遠の命をめぐって、主イエスとある金持ちの議員のやり取りが記されています。マタイによる福音書では、金持ちの青年となっています。この「議員」というのが、何を指すのか。はっきりと判るわけではありません。最高議会、サンヘドリンと呼ばれる議会の議員と考える人もおりますし、会堂長のような人考える人もおります。何れにせよ、みんなに認められる社会的な身分、ポジションを持っていたと言うことでありましょう。このお金もあり、社会的地位もあり、真面目な一人の青年が、主イエスの所に来て、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねたのです。私は、カルヴァンの聖餐についての文章を読みながら、説教の備えをしてこのある金持ちの議員の問いを読みました時に、何という間が抜けた、のんびりした問いなのだろうかと思いました。この人は、自分の問いののんびりさに気付いていません。私は別に、この人を悪く言うつもりはないのです。本当に真面目な人だと思います。しかし、この人は自分が何か善いことをすれば永遠の命を受けることが出来ると思っている。自分は永遠の命に値する善いことをすることが出来る、そう思っているのです。そののんびりさです。
主イエスは、この人の問いに対して、「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」と、十戒の後半の戒めを答えます。すると、この人は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」そう答えます。きっと、その通りだったのだと思います。真面目なユダヤ人なら、これらの十戒の戒めは子供の頃から教えられ、それを守るようにきっちりとしつけを受けていたはずです。主イエスは、このような答えが返ってくるのを予測していたに違いありません。そして、この答えを聞いてから「あなたに欠けているものがまだ一つある。」と言われたのです。そして、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」と言われました。この言葉を聞いて、心の騒がない人はいないでしょう。もし、自分に主イエスがこの言葉を告げられたのならどうだろうか。そう考えますと、自分は全財産を売り払って貧しい人に分けてやるなどということは出来そうにない。そう思うのではないでしょうか。しかし、ここで考えなければならないのは、主イエスは持っている物を全て売り払って貧しい人に分けてやるならば、永遠の命を得られると言われたのでしょうか。もし、そう聴き取るのであれば、私共もそうしなければなりません。そうしなければ永遠の命を得ることは出来ないことになります。実際、そのように聞き取り、それを実行した人がいます。アッシジの聖フランシスコをすぐに思い起こすことが出来るでしょう。彼だけではありません。多くの人が文字通り、この主イエスの言葉を自分に向けられたこと場として聞いて、実行したのです。それはそれで、尊いことだと思います。しかし私は、主イエスがここで言おうとされていることはそういうことではないのではないかと思うのです。
私は、主イエスがこう言った時、主イエスはこの人はそれをすることが出来ないということを初めから分かっていたと思うのです。分かった上で言っている。それは、主イエスは無理難題をこの人に押しつけている訳ではなくて、自分の財産さえ処分出来ないあなたが、どうして自分の善き業で永遠の命を得られるなどと考えるのか、そののん気さに気付かせたかったのではないか。そう思うのです。主イエスはこの人に十戒の後半だけを告げられました。前半の部分、「あなたはわたしのほか、何ものをも神としてはならない。あなたは刻んだ像を造ってはならない。これを拝んではならない。あなたは主の名をみだりに唱えてはならない。安息日を覚えて、これを聖とせよ。」、これについては、何も言わなかった。実は、主イエスが、「あなたに欠けているものがまだ一つある。」と言われたのは、この前半の部分、この部分は、神様と自分との関わりに関する所です。神を神とすると言っても良い所です。特に、第一の戒である、「あなたはわたしのほか、何ものをも神としてはならない。」、これが欠けていると言われたのだと思うのです。確かにあなたは、父母を敬っているだろう。殺してもいない。姦淫もしていない。盗んでもいない。偽証もしていない。しかし、本当に神を神としているか。神様以外に何も頼らず、神様を信頼し、全てを神様に委ねているのか。あなたが頼っているのは、自分の富であり、自分の地位であり、自分の真面目さなのではないか。しかし、そんなものは永遠の命を受ける為には、何の頼りにもならない。そう、主イエスはこの人に気付かせたかったのではないかと思うのです。金もある、地位もある、名誉もある。しかし、まだ永遠の命がない。それを得るにはどうしたら良いのか。そんなのん気さを、主イエスは見抜かれたのではないかと思うのです。こののん気さこそ、この人を永遠の命から遠ざけていたものだったのです。
主イエスは、持っている全てを売り払って貧しい人に分けなさいと言われた後で、「わたしに従いなさい。」と言われました。この主イエスに従うということこそ、この人に「なお欠けていた一つ」のことだったのです。つまり、主イエスに従うということは、神様だけを信頼し、神を神とし、神様以外のものに頼らないということなのです。十戒の前半の戒めを守るということは、実は「主イエスに従う」ということと同じなのです。
ここで、主イエスに従うということについて、少し思いを巡らしてみましょう。私共は、主イエスに従うということは、自分の決断や、自分の生き方の問題だと思っているかもしれません。もちろん、生き方も変わるでしょう。考え方も、価値観も変わるでしょう。しかし、主イエスに従うということは、そんな小さなことではないのです。主イエスに従うということは、自分のものは主イエスのものであり、主イエスのものは自分のものであるという、主イエス・キリストと一つにされることなのです。永遠の命と直接に結びついてくることなのです。私共が主イエスに従う一歩を踏み出す時、私共は洗礼を受けます。この洗礼という出来事は、主イエス・キリストと一つにされるということなのであります。そして、私共は主イエスに従う歩みを、聖餐に与りながら為してまいります。それは、キリストの命に与り続けるということなのです。洗礼もなく、聖餐も受けずに主イエスに従うというのは、その人の主体的な生き方の選択ということでしかないのです。信仰とは、そのようなことではないのです。良いですか、私共がどんな生き方をしようと、どんな生き方を選択しようと、その結果永遠の命が与えられるなどということはないのです。信仰というのは、私共の「選択」の一つではないのです。
この人は金持ちであった為、主イエスの言葉に悲しむしかありませんでした。そして主イエスは言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」この言葉を聞いて、私は財産がないから大丈夫、そんな風に安心することは出来ません。ここで主イエスが、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」というのは、不可能であるということです。この言葉を聞いた人々は、「らくだが針の穴を通る方が易しいとするなら、一体誰が救われることが出来るのか。」そう思いました。しかし、主イエスは言われます。「人間にはできないことも、神にはできる。」実に、このことこそ、私共が永遠の命を与えられる為に、決定的なことなのです。私共が永遠の命を与えられる。それは、私共が善き業をもって得られることではないのです。それは、らくだが針の穴を通る程に、不可能なことなのです。永遠の命を与えられるということは、私共の業によってではなく、不可能を可能にされる、全能の父なる神様の憐れみによるということなのです。何の善きものも持たない私共。自分の財産さえもささげることの出来ない私共。そのような私共が永遠の命を得るとすれば、それはただ神様の憐れみによるしかないのです。
私共は永遠の命を受ける。ここに私共の希望があり、憧れがあり、私共の地上の生涯の目的があるのです。何故なら、もし永遠の命を受け取ることが出来ないとするならば、私共は誰でも皆、やがて訪れるこの肉体の死によって全てが終わることになってしまうからであります。どんなに富を蓄え、この世の高い地位を得たとしても、それらは死と共に全ては空しくなるのです。しかし、私共には永遠の命がある。この永遠の命というものに目が開かれる時、私共は自分の財産からも、自分の家族からも自由になるのであります。
家族から自由になるというのは、少し変な表現かもしれません。家族というものは、神様が私共に与えて下さった大切なものです。しかし、家族であるが故のトラブルというものも少なくない。人は年をとって、初めて分かることということが少なくありません。その中に、夫婦、親子、兄弟というものが最後まで仲良く出来るとすれば、それは本当にありがたいことだ、神様の恵みとしか言いようがない。そういう現実も又、知るようになるのではないでしょうか。、夫婦、親子、兄弟というものが最後まで仲良く出来る、それは決して当たり前のことではないのです。そういうことが私共を取り巻く現実であるとするならば、私共はどうしたら良いのか。私は、ここにも「永遠の命の希望」というものが深く関わるのだと思うのです。それは、私共が神の国における永遠の命を受け継ぐ者として、キリストに従う者として、キリストの愛に生きる者として、自分の家族との関わりを受け取り直すということです。主イエスの愛の証しの場として、家族や家庭を受け取り直すのです。子供だからこうすべきだ。親だから、妻だから、夫だからこうすべきだ。そういうことから自由になって、それぞれに仕える道が拓かれてくるということなのではないかと思うのであります。主イエスは、この全き自由へと、私共を招いて下さっているのです。永遠の命を受ける者としての自由、キリストに従う者とされた者の自由であります。神様の前に誇るべきものを何も持たない者の自由であります。私共に欠けている一つのこと。神様を神様として、主イエスに従う。ここに集中していく時、私共は全てのものが与えられ、そして永遠の命さえも備えられるのであります。そして、そこには全き自由があるのです。この恵みに招かれていることを心より感謝したいと思います。
[2007年8月12日]
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