私共の祈りは神様のもとに届き、神様はその祈りを聞き、事を起こして下さる。これは私共の信仰の根本を形作る、とても大切な信仰の確信であります。この所が揺らぎますと、私共は当然のこととして神様が生きて働いて下さっておられることが分からなくなる、神様が信じられなくなる。そして祈れなくなります。これが信仰の危機であります。これは大変なことです。大変なことではありますが、私共の信仰の歩みにおいて、このような危機を一度も迎えることがないという人も又、いないでありましょう。最近よく耳にする言葉に「危機管理」というものがあります。先週は中越沖地震があり、大変被害の大きかった柏崎には原子力発電所もあり、改めてこの言葉がクローズアップされましたけれども、私共にとりましては、信仰の危機管理と言うべきものを考えさせられるのであります。信仰の危機に陥ってからあわて、うろたえるのではなく、それに対しての十分な備えを為しておく。実は、そのことへの十分な備えそのものが、私共を信仰の危機に陥ることから守るということでもあるのでしょう。
私共は日々の歩みにおいて、祈らなければならないことを知っています。まして、何か本当に困ったことが起きれば、私共は必ず祈るでしょう。実は、私共の「本当の信仰の危機」というものは、祈らないから起こるのではなくて、この祈りにおいて起きてくるのではないかと思うのです。祈った。一週間祈った。二週間祈った。一ヶ月祈った。三ヶ月祈った。半年祈った。一年祈った。しかし事態は少しも変わらない。事態が良くならないばかりか、ますます悪くなり、深刻化していく。そのような日々が長く続く中で、自分の中で何かが折れてしまう。神様は私の祈りなんか聞いてくれていないのではないか。そもそも神様に私の祈りは届いていないのではないか。更には、神様などいないのではないか。そんな思いに心に湧き上がり、そのな思いが心を支配され始める。そして、ある日、祈ることをやめてしまう。一度、やめてしまいますと、再び祈り始めるまで、私共はとてつもなく長い日々を必要とするものなのです。これは、大変な「信仰の危機」であります。
キリストの教会は、これと同じ様な深刻な信仰の危機を歴史の中で何度も迎え、それを乗り超えてまいりました。その最初の、そして最も深刻な危機の中で、福音書というものは記された。そう言って良いと思います。主イエスが十字架にかかり、三日目によみがえられたのは、だいたい紀元30年頃と考えられます。その主イエスが天に昇り、聖霊を注がれて、キリストの教会は建った訳ですが、それから35〜40年してマルコによる福音書が記され、更にそれから15年ぐらい後にマタイによる福音書やルカによる福音書が記されました。主イエスが十字架におかかりになり、復活されてから50年が経った。しかし、主イエスはまだ来られない。主イエスの復活の御姿に出会った直弟子達も、多くはすでに地上での生涯を終えた。教会においては「マラナ・タ」、「主イエスよ、来たり給え」、というのが、礼拝のたびごとに祈られていた。しかし、主イエスは来られない。そして50年が過ぎた。何故主イエスは来られないのか。祈りは神様に届いていないのか。主イエスは来られると言われたではないか。教会は、そのような信仰の危機に直面する中で、今朝与えられている主イエスの御言葉を思い起こし、この危機を乗り超えてきたのであります。
今朝与えられております御言葉の冒頭に、「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」とあります。主イエスは、気を落として祈れなくなる、その様な時代が来ることを見越して、弟子達の為にこのことを語られたのです。主イエスが来られない。終末が来ない。そういう中で、気を落とし、自分達の祈りは聞かれているのだろうかという信仰の危機を迎えた教会に向かって、弟子達はこの主イエスの言葉を思い起こしました。そして、この主イエスの言葉を教会に集う信徒達に語りかけ、「自分達は今一度、祈る者として立っていこう。」、そう呼びかけたのではないかと、私は思うのです。そして、キリストの教会は祈りの民として立ち上がり、祈る民として続けたのです。ですから、私共も又、この主イエスの言葉に立ち帰るならば、今出会っている、あるいはやがてやって来る、祈ることが出来ないという信仰の危機を乗り超えることが出来る。そう思うのであります。
さて、主イエスが語られたたとえ話は簡単なものです。一度聞けば、忘れることのない程、印象深いものです。登場人物は二人だけ。神を畏れず、人を人とも思わない裁判官とやもめです。多分、この裁判官というのは、ユダヤ人のそれではなかったと思います。ローマによって遣わされていた裁判官でしょう。わいろ、コネ、そんなものが横行していた時代です。やもめには、そんなものはありません。やもめは、ただただ、この裁判官に何度も何度も、ひっきりなしに、「相手を裁いて、わたしを守ってください。」と願い続けたのです。この裁判官は、「もううるさくてかなわん、彼女の為に裁判をしてやろう。」と言ったというのです。このやもめには、何もありませんでした。ただ願うしかなかった。どうでしょう、私共も、もう何もない。祈りしかない。そういう時があるのではないでしょうか。祈るしかない。しかし、こご私共が覚えておきたいことは、私共には祈ることがまだ残されているということです。祈りは、全能の力の神に頼ることであります。自分の小さな力に頼るのではなくて、全能の父なる神様に全幅の信頼を置くことです。その意味で、祈ることは私共の最後の、そして最大の武器なのです。主イエスは、この不正な裁判官でさえもそうなのだから、「まして神は」それ以上だろうと言われたのです。7節「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」そう、主イエスは言われました。
ここで、三つのことが言われています。第一に、神様は昼も夜も叫び求めている祈りを聞いておられるということ。私共の祈りが神様のもとに届かないなどということは、決してないということです。第二に、しかもあなた方は選ばれた者ではないかということです。神様が、我が宝の民、我が子よと呼ばれる、神の民ではないか。どうして、神様が御自分で選ばれた民を忘れることがあろうか、ということであります。ここで私共は、出エジプト記2章23〜25節の御言葉を思い起こすことが出来るでしょう。「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」第三に、神様はいつまでも私共を放っておかれることなく、必ず速やかに裁いて下さる、ということであります。
ここが問題なのです。主イエスは、いつまでも放っておかないと言われた。更に8節では、「神は速やかに裁いてくださる」と言われた。それなのに、どうして自分がこれだけ祈っているのに、少しも事態は変わらないのか。速やかにと言い、いつまでも放っておかないと言われたが、それは一体いつまでなのか、ということなのでしょう。ここで私共は、人間の時と神の時は違うということを知らなければなりません。私共は明日を知りません。しかし神様は、創造から終末までの全ての時を知っておられます。知り尽くされておられます。その上で、時を定め、その時に最も良いことを為して下さるのであります。そして、もう一つ大切なことは、神様はここで裁くと言っておられるのです。何か私共に都合の良いことをしようと言われているのではないのです。私共は、しばしば神様の永遠の裁きよりも、目の前の困難を取り除いて欲しいと思うものであります。しかし、私共にとって大切なのは、永遠の裁きであり、それによって罪赦され、復活し、永遠の命に与ることであります。私共は気がつかず、思いもしていないのかもしれませんけれど、神様は私共の祈りを聞き、すでに裁いておられるのです。その裁きが、私共の目の黒いうちに明らかになる場合もあるでしょうし、明らかにならない場合もある。しかし、それは裁きが為されていないということではないのです。そのことは、主イエスが再び来られる時に明らかになります。その時、私共は自分達の祈りが何一つ聞きもらされずに神様のもとに届いており、神様が全き裁きをして下さったということを知るのでありましょう。私共の祈りは、この終末と深く関わっているのです。ですから、主イエスが終末を語られた17章に続いて、この祈りのたとえが語られているのです。私共の祈りは、この主イエスが来られる、裁きの時に成就するのであります。そして、それはすでに神様の中では為されているのであります。私共はそのことを信じて良いのです。そして、私共のまなざしが、この主イエスが再び来られる時に向かっていなければ、実は何を祈っているのかさえ、私共は分からなくなってしまうのではないでしょうか。そして、そこで信仰の危機が起きてしまうのであります。主イエスは、このたとえ話の最後に、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」と言われたのは、そういうことなのでありましょう。主イエスが来られる、その日を待ち望みつつ、その時に自分達の祈った全ての祈りが成就される。そのことを信じていなければ、気を落とさずに祈り続けることは出来ないではないか。目の前の困難を取り除いて下さいと言うだけが私共の祈りならば、「御国を来たらせ給え」という祈りに連なることのない祈りしか知らないのならば、いつまでなのだ、本当に聞かれているのか、そのような私共の中に湧き上がる不信仰に勝つことが出来るのかということを、主イエスは心配されたということなのでありましょう。
先程、詩編22編をお読みいたしました。この詩編の冒頭にある言葉「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」は、主イエスの十字架の上の言葉として有名です。このことは、主イエスは十字架の上でも祈られていたということを示しているのでしょう。そして、この詩編22編は、単に神に捨てられた嘆きを歌っているだけではないのです。今、ていねいにこの詩編全体を見ていく時間はありませんけれど、この詩編全体が主イエスの十字架の予言となっているのです。例えば、8〜9節「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」。これは、主イエスが十字架にお架かりになられたときに、主イエスの十字架を見て、人々が語ったことであります。16節「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」。これは、主イエスが十字架の上で「わたしは乾く」と言われた御言葉を思い起こします。18〜19節「骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」これは、主イエスのの十字架の上でのあばら骨が浮き出た姿や、主イエスの十字架の下で兵士達が主イエスの上着をくじ引きで分けたという出来事を思い起こさせます。まさに、この詩編の22篇は、主イエスの十字架のお姿を指し示しているであります。そして、何よりもこの詩編は、最後の28〜32節の所において、終末における神の国の到来、主イエスの十字架によってもたらされる救いの現実を見ているのです。つまり、主イエスは十字架の上という、まさに死が迫っているその時にも、終末を仰ぎつつ、祈られたということなのではないでしょうか。主イエス御自身が、気を落とさずに絶えず祈るということがどういうことなのかということを、その十字架の上においてまで、弟子達にお示しになったということなのであります。
私共は、自分達が祈らねばならないということにばかり思いが向いてしまいます。しかし、それ以上に、私共は自分の祈りが聞かれ続けているということに目を向け、驚き、感謝するべきなのではないか。そう思うのです。主イエスのたとえ話の中で、不正な裁判官は「うるさくてかなわん。」と言いました。それはそうだろうと思います。私共だって、不正な裁判官ではありませんけれど、同じことを毎日毎日お願いされたら、そう思うのではないでしょうか。もし、30分でも、一時間でも、同じ人から電話がかかってきたらどうでしょう。一日、二日なら良いでしょうが、それが三日、一週間、十日と続いたら、もういいかげんにしてくれ、そう言うに違いありません。しかし、私共の父なる神様はそうではないのです。気を落とさずに、絶えず祈れと言われているのです。主なる神さまは、「私は、うるさい、もう聞かないとは言わない。私は必ず、いつも聞いている。だから祈れ。」そう言われるのであります。聞いているから、祈れと言われるのであります。そして、速やかに裁くと言われるのです。私共は、この主の御言葉を信頼して良いのであります。私共の祈りは聞かれており、すでに神様の中では速やかなる裁きが為されているのであります。そのことが明らかになるのは、主イエスが再び来られる時であります。ですから、私共はその日を待ち望みつつ、神様に心を注ぎ出して祈るのであります。
[2007年7月22日]
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