先週は花の日礼拝で幼子達と共に礼拝を守りました。礼拝の後で、教会学校の生徒達は逓信病院に入院されている方にお花を持って行きました。その為に、事前に病院の方に何時くらいに行けば良いのかというようなことを話しに伺いました。「花の日ですね。」と毎年のことですので、事務長の方も覚えていて下さって話は簡単だったのですが、その時、ちょうど田島兄の葬式が入っておりましたので、前夜式等があって、夜少し音がもれたりするかもしれませんがご容赦下さいと申しました。すると、「教会では葬式もするのですか、結婚式というイメージしかなかったものですから」、と驚かれてしまいました。確かに、友人・親戚が教会あるいはキリスト教式で結婚式をしたという人は多いと思います。しかし、教会での葬式は初めてという人は意外と多いのです。私共は当然と思っておりますが、どうもまだ日本ではキリスト教は死と向かい合っている宗教として認知されていないようです。そして、結婚式と葬式を同じ所でやるということにも、意外な印象を持っているようなのです。日本人の一般的印象としては、この二つは全く別のもので、この二つが一緒になるということは、どうも違和感があるもののようなのです。しかし、私共の神様は天地を造られ、終末を与える方です。私共に命を与え、人生の全てを御支配し、死と死んで後も御手の中に私共を治め給う方であります。生と死と、その全てを御支配しておられる方であります。生きている時だけの神様でもありませんし、死んでからだけの神様でもありません。
今朝与えられております御言葉において、主イエスは、ある金持ちとラザロという貧しい人のたとえ話を語られました。このたとえ話は、欧米の教会においては、自分達は金持ちで、貧しいラザロはアジア・アフリカの人々であるという風に読む傾向があるようです。その様に読みますと、日本でもすでに経済大国と言われるようになって随分経ちますので、私共もこのたとえ話においては「ある金持ち」にあたる。ラザロではない。ということになるのかもしれません。そしてその様に読みますと、「だから貧しいラザロに対して、私共が何をするかが大切なのだ。そうしないと、このたとえ話にあるように陰府に落とされることになる。天国に行けない。」そのように読むことになってしまいます。しかし、主イエスはこのたとえ話で、そのようなことを本当に語ろうとされていたのでしょうか。私はそうではないと思います。
聖書を読む時に、私共がいつも気を付けておかなければならないことは、その言葉や物語がどのような文脈の中で語られているかということです。このことを無視しますと、聖書が本来語ろうとしていることを、きちんと受け取ることが出来ないということになってしまうからです。言葉というものは、いつでもそうなのです。文脈の中で意味を持つのです。この主イエスのたとえの場合、主イエスは13節で「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われました。それを聞いた金に執着するファリサイ派の人々が主イエスをあざ笑ったのです。どうして笑ったのか。それは、彼らにとって富とは神様の祝福のしるしであり、それは自分達が律法を守り、神様の御前に正しく生きているから、その報いとして神様が与えてくれたと理解していたからです。逆に言えば、貧しいということは、その人が正しくないから、神様がその罰としてそのような境遇を与えたということだと理解していたからであります。主イエスは、このたとえにおいて、そのような信仰理解の誤りを指摘しているのです。
金に執着するファリサイ派の人々の、このような信仰理解の根本にあるのは何かと申しますと、徹底的な現世主義あるいは因果応報ということなのではないかと思うのです。善いことをする、正しい人である、そうすると神様は富に代表されるこの世の幸を与える。逆に、悪いことをする、正しくない人である、そうすると神様はその人に不幸を与えるという理解です。これは別にファリサイ派の人々に限ったことではありません。いつの時代でも、世界中どこにおいても、最も一般的に受け入れられている宗教観であると言って良いと思います。おまじない、占いから始まって、多くの宗教が語っていることでもあります。宗教儀礼の多くは、本来そうでなくても、それを行う人はこのような理解の上で行っていることが多いのです。これをやらないと収穫が減る。病気になったのはこれこれをしていなかったからだ。主イエスはそうではないと、このたとえ話を語って諭されたのであります。ラザロは神様に見捨てられたから貧しかったのではないし、金持ちは神様に愛されたから金持ちだったというのではない。そう告げようとされたのです。
主イエスはここで、どうしてあなた達は、この生きている間だけの豊かさ・貧しさ、幸いと不幸ということしか見ないのか。神様は生きている時だけの神様ではなく、死を超えて私共の全てを御支配される神様なのではないのか。そして、死を超えた所においては、この世における富は、何の意味も持たない。この世の富は、死んで後の救いの、何の保証にもならない。そう告げられたのであります。
19節を見ますと、主イエスはこう語り出します。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」「紫の衣」とは、王侯貴族だけが身に付けることが出来た最上級の着物です。柔らかい麻布とは、最上級の下着です。それを着て、毎日、お祭り騒ぎをして遊び暮らしていた。実際にそんな生活をしている人がいるとはあまり思えないのですが、それは私が本当のお金持ちの知り合いがいないということだけなのかもしれません。そして、20節以下に、ラザロという人のことが語られます。ラザロは、この金持ちの門前に、できものだらけの体を横たえ、金持ちの食卓の残りもので腹を満たしたいと思っていた。そして、やがてラザロは死に、金持ちも死にました。ところが、アブラハムのすぐそば、これは天国と言い換えても良いでしょう、そこに招かれたのはラザロであり、陰府に落とされたのは金持ちの方であったというのです。
金持ちであるということが神様の祝福と全く同じであるのならば、死んで後に天国に行くのは金持ちで、ラザロは死んで後も陰府に落ちるということになるでしょう。しかし、主イエスはそうではないと言っているのです。ここで注意しなければならないことは、主イエスはこのたとえ話の中で、金持ちは悪人でラザロは善人であったとも言っていないし、金持ちは不信仰でラザロは信仰深かったとも言っていないということです。主イエスはここでそういうことを言おうとされているのではないのです。そうではなくて、死んで後のことは、この地上での富や豊かさとは全く関係がないと言われただけなのです。
ここで、ラザロという名前にも注目する必要があるでしょう。主イエスはたとえ話の中で具体的な名前を出すということは普通しません。たとえ話の中で名前が出て来るのは、このラザロだけなのです。このラザロというのは、ヘブル語に直しますと、エレアザルとなりまして、「神は我が助け」あるいは「神は救い給う」という意味なのです。主イエスがこのたとえの中で、ある貧しい人と言わず、ラザロ、「神は救い給う」という名前を付けて語られたということには意味があるのです。この世の人生において貧しく、みじめな生活をしていた者も、「神は救い給う」のです。神の救いは、善き業の報いとして与えられるのではなく、又、その人の正しさや善き業の報いと考えられる富や豊かさと関係なく、ただ神様のあわれみによって与えられるのだということを、主イエスはここではっきりとお語りになられたのであります。
私はここで、ラザロを聖書に出て来る二人の人と重ねることが出来るのではないかと思います。一人は、旧約のヨブです。ヨブは豊かで幸いな日々を送っていましたが、一瞬にしてその全てを失います。身体中が皮膚病に冒されます。そして友人達が来て、お前は自覚していないが、何か悪いことをしたからこんな目に遭ったのではないかと語ります。しかしヨブは、そんなことはないと言い切ります。ヨブ記は旧約の限界として、明確な復活信仰、永遠の命の信仰にまでは至っておりません。しかし、先程お読みいたしました19章25〜27節には、死を超えた神様との交わりへの憧れを見ることが出来るのではないかと思います。ヨブは神様に捨てられた者だったのでしょうか。そうではないでしょう。
そして、もう一人は主イエス・キリスト御自身であります。主イエスは十字架にかけられ、このラザロと同じようなみじめな死を味わわれます。しかし、神様は主イエスを死人の中から甦らされ、天に上げられました。もし、この世の富と幸とが、神様の愛の証しであるとするならば、ヨブも、そして誰よりも主イエス・キリスト御自身も、神様に愛されず、神様に捨てられた者ということになるのではないでしょうか。しかし、そうではないのであります。私共の神は、ヨブの神であり、主イエス・キリストの父なる神であり、ラザロの神なのであります。神様は決してラザロを見捨てていないのであります。確かに、そのことは地上における命だけを見ていたのでは判りません。しかし、私共の命は死では終わらない。そして、この死を超えた所において、神様は私共に必ず報いて下さるのであります。そこに目を注がなければ、この神様の愛は判らないのであります。
私は、牧師として生きながら、色んな人と出会ってきました。そういう中で、私共の人生というものは、この生きている時だけでは決して、十と一がバランスがとれる、帳尻が合う、そういうことはないのだと思わされています。悪いことがあれば良いことがある。良いことがあれば悪いことがある。そんな風にうまい具合には行かないのです。不幸に次ぐ不幸の果てに死を迎える人だっているのです。しかし、私はその人が神様の愛の外にあったとは考えていません。その人はこのラザロと同じように、神様の御許において、永遠の命の祝福に預かっていると信じておりますし、私共も又その御国へと招かれており、入ることが出来ると信じています。その御国は、アブラハムがいる所でありますが、誰よりも主イエスがおられる所です。主イエスと同じ食卓につくのであります。私共は、この御国への憧れを持って、この礼拝に集ってきているのでしょう。
自分の生きている間の幸いしか求めることの出来ない人は、金に執着するファリサイ派の人々と同じように、この御国への憧れをあざ笑うでしょう。しかし、この御国への憧れこそ、私共が死と直面する時にも、私共から決して奪われることのない希望の光なのであります。
私は自分が信徒であった時、牧師という者がいつもこの死と向かい合って生きている者であるということが判りませんでした。神学生であった時にも、正直な所何も判っておりませんでした。教会には、いつも死と戦っている人がいるのです。牧師はその人のことを思い、毎日祈っている。忘れる日は一日もありません。出張先で携帯電話が鳴ると、ドキッとします。病院を訪ねます。何が出来る訳でもありません。しばらくの間、話をし、聖書を読んで、祈るだけです。そこで、言葉にして、永遠の命がある、御国がある、そのように必ず告げる訳ではありません。しかし、そのことを信じる者としてお話しをし、聖書を読み、祈るのです。私は病床聖餐というものの意味の一つはここにあると思っているのです。病の中にある人が、神様への信頼を失いかける。死の力に飲み込まれ、希望も平安も失いかける。そういう中で守る聖餐。それは私共に再び御国への憧れを取り戻させる、そういうものではないかと思うのです。
このたとえ話において、陰府に下った金持ちは、こんな苦しい所に来ないように、自分の五人の兄弟にラザロを遣わして下さいと願います。死んだ者の中から誰か兄弟の所に行けば悔い改めるでしょうと言うのです。しかし、アブラハムは、モーセと預言者がいる、それに耳を傾けない者が、どうして死者の中から生き返る者の言うことを聞くだろうかと言う。これは、主イエスの復活をファリサイ派の人々が受け入れないという預言になっている訳でありますが、それ程までに現世のことしか考えない人の心はかたくなであるということなのでありましょう。この心のかたくなな所においては、現代の日本も又同じであります。しかし、私共は落胆しません。自分達の伝道がたとえ目覚ましい成果を上げないとしても、私共は自分のしていることが無駄にはならないと知っているからです。御国において受ける報いを信じているからです。
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の15章において、復活の命について語り続けた最後に、58節「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」と告げている通りなのであります。復活の命を信じ、御国への憧れに生きる者は、この地上の生涯の労苦が何一つ無駄にならないことを知っている者として生きるのです。目に見える成果だけに目を奪われることなく、主の業に励むのです。この一週も、御国への憧れを持つ者として、主の御前に誠実に、真実に歩んでまいりたいと心から願うものであります。
[2007年6月17日]
へもどる。