富山鹿島町教会

礼拝説教

「自分の正しさ、神の正しさ」
サムエル記上 16章1〜13節
ルカによる福音書 16章14〜18節

小堀 康彦牧師

 「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」これは、サムエルがダビデにイスラエルの王として油を注ぐ時に、主がサムエルに言われた言葉です。イスラエルの初代の王サウルは、神様の言葉に従わず、それ故神様に退けられることになってしまったのです。サムエルは次の王となる者に油を注ぐことを主に命じられました。しかし、誰に油を注ぐのかは、エッサイの子とだけ知らされており、その中の誰であるかまでは知らされておりませんでした。サムエルはエッサイの子に油を注ぐために、ベツレヘムへ向かいました。始めに会ったのは長男のエリアブでした。サムエルは、彼こそその人だと思ったのですが、主の選びは彼にはありませんでした。次にアビナダブ、次にシャンマ、次々と七人の息子全てをサムエルの前を通らせましたが、神様は彼らを選ばれませんでした。そして、まだ羊の番をしている幼いダビデを神様は選びました。サムエルは彼に油を注いだのです。この時、この幼いダビデこそがイスラエルの王にふさわしいと思った人は誰もいなかったのです。まことに、神様が見通されることを、人は同じように見ることは出来ないのでありましょう。
 私共はそれぞれ自分が正しいという考え、主張を持ちます。しかし、この神様によるダビデの選びという出来事は、私共の判断や考えの正しさというものが、神様の御前においては当てにならないということを示しているのではないでしょうか。もちろんそれは、私共が正しい意見、考え方を持たなくて良いということではありません。しかし、私共は自分の考える正しさというものに対して、それは神様によって変えられるという柔らかさを持つということでなくてはならないのです。それはまことの自由を持つと言っても良いでしょう。それは自分自身からの自由です。私共は何よりも自分から自由になれないものなのです。自分の経験、自分の考え方、習慣。それは目に見える場合もありますけれど、目に見えない心の習慣というものもあります。そして、私共はこれをなかな手放しません。変わろうとしない、変わりたくないのです。私共はまことに頑固なのです。例外なく頑固なのです。そして、この頑固さこそ、主イエスを十字架につけた原因だったのではないかと、私は思うのです。
 主イエスを十字架につけたファリサイ派の人々、律法学者達。彼らには、正しさがあった。それは自分の考える正しさです。自分はそれに忠実に生きているという自負もあった。それ故に、その自分の正しさを脅かす主イエスを認めることは、彼らには出来なかったということなのではないかと思うのです。ファリサイ派の人々も律法学者達も、自分の正しさを守る為に主イエスを十字架につけた。そうなのではないでしょうか。

 今朝与えられておりますルカによる福音書16章の14節に「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」とあります。どうしてファリサイ派の人々は主イエスをあざ笑ったのでしょうか。それは前の13節の所で、主イエスが「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われたからです。ファリサイ派の人々の多くは、神と富とは矛盾しない、一つのことだと考えていました。つまり、自分の経済的豊かさ、社会的地位は、神様からの祝福である。自分達が正しいから、神様は自分達にこのような恵まれた状態を与えたのだ。逆に、貧しい者、社会的地位の低い者、不幸な者、それはその人が正しくないから神様がそのような境遇を与えたのだ。この考えでいけば、神と富とに仕えることは出来ないという主イエスの教えは話にならない。神と富とは一つであるということにさえなってしまうのであります。病気の人は神様の愛から見放されているとか、貧しい人は罪深いとか、そんなことは断じてないのです。私は以前、ある新興宗教の教祖が、「人の話を聞こうとしない独善的な人は、年をとってから耳が遠くなり、しまいには聞こえなくなる」という話をするのを聞いたことがあります。障害を持つ人は、その人がそういう本性だからそうなったというのです。それを聞いて本当に腹が立ちました。
 このような理解の仕方は、一部のキリスト教にも見られるものです。しかし、それは間違っています。自分の富や境遇を単純に神様の祝福と置き換えるならば、人はいつの間にか神に仕えることを第一とせず、富を得ることを第一にするようになるのではないでしょうか。そして、富を得た自分は神様の祝福を受けている者、神様に愛されている者、救われている者ということになってしまうでしょう。ここに悔い改めは起きません。自分の正しさの上にあぐらをかくということが起きるだけであります。それどころか、自分の富を自分の正しさのしるしとして自慢するということさえ起きる。聖書はここで、この人々を単に「ファリサイ派の人々」とは言わず、「金に執着するファリサイ派の人々」と言っているのです。「金に執着する」、これは、直訳すれば「金を愛する」という言葉です。神を愛しているのではなくて、金を愛している人だ。そう言っているのです。この言い方で、このファリサイ派の人々の心を見抜いているのです。
 そして、主イエスは言われました。15節「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」主イエスは、このファリサイ派の人々の心を見抜いて、あなた方は結局の所、人に尊ばれようとしているだけで、神様を愛してはいない。神様はそのことをお見通しだ。そのような心を神様は嫌われる。そう言われたのであります。
 私共はこのことをよくよく心に刻んでおかなければならないと思います。「人に尊ばれる」、これは本当に魅力的なものなのです。人には様々な欲がありますけれど、その中でも人に尊ばれることを求める名誉欲というものは、とても強いものです。よく言われることですが、人が最初に手に入れたがるのは富だ。そして、それを手に入れると次に欲しくなるのは名誉だ。人々からの賞賛だ。これは年齢と共に衰えることはありません。しかし、私共が求めているものは何なのか。それは、ただ神様に義しとしていただくことであり、神の国に入ることであります。それ以外のものは、まことに取るに足らない、塵あくたに過ぎないのであります。使徒パウロがフィリピの信徒への手紙3章7〜9節で言っている通りであります。私共がキリストの香りを放つとすれば、このことに対しての潔さではないかと思うのです。
 ファリサイ派の人々は、人々に自分の正しさを見せびらかし、自分の正しさを人々に賞賛されたかったのです。そして自分の富も又、自分の正しさの証拠として誇っていたのです。しかし、誇るべきは自分ではありません。「誇る者は主を誇れ」であります。人に賞賛されたいということ自分を誇るということは、一つのことなのです。

 さて、ファリサイ派の人々は自分達が律法を守っていることを誇りとし、自分達こそが、自分達だけが神の国に入ることが出来る、救われると考えていた訳でありますが、主イエスはそれこそが根本的な誤りであることを告げられたのです。16節「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」ここで主イエスは、御自身の到来と共に時が変わった、律法と預言者の時代は終わり、新しい神の国が始まったと告げられたのです。人々は主イエスによって「神の国の福音」を告げられている。それによって、誰もが神の国に力ずくで入ろうとしていると言われるのです。ここでのポイントは「誰もが」ということです。ファリサイ派の人々や律法学者達だけではないということです。主イエスのもとに来た、徴税人や罪人も、みんな、誰でも、主イエスの福音を聞いている。それによって、神の国の門はその福音を聞いている誰に対しても開かれ、誰もが神の国に入ろうとしているのだと言うのです。ただ、ここで少し気を付けなければいけないのは、「力ずくで入ろうとしている」という表現です。これは、主イエスの福音を聞いた者が、皆、自分の力で神の国に押し入ろうとしているかのように受け取られかねません。それでは、ファリサイ派の人々と何も変わりないことになってしまうでしょう。そうではないのです。主イエスから神の国の福音を聞いた者は、自分の力で神の国に入ることは出来ません。そんな力はないのです。ファリサイ派の人々であろうと、律法学者であろうと、罪人であろうと、皆同じように、そのような力はないのです。神の国の門は神様によって、神様の憐れみによって開かれるのであって、私共の力によって、良き業によって開くことが出来るものではないのです。これは、誰もが力ずくで入ろうとしているかのように、神の国に殺到している、それ程までに、神様が力強く招いているということなのであります。この神様の招きの強力さ、圧倒的恵みの大きさを、このように主イエスは言われたのであります。私共も又、この力強い、圧倒的な神様の招きによって、神の国へと招かれている。まことにありがたいことであります。これはただ、神様の恵み、神様の招きなのでありますから、私共の中に誇るべきものは、何一つないのであります。人の賞賛を受けるようなものは何もないし、それを求めてもいないのです。恵みであり、招きなのですから、ただただ神様に感謝するしかないのであります。

 この、ただ神様に感謝するしかないというところに立ちます時、私共は「自分の正しさ」というものからも解放され、ただ「神の正しさ」に従っていこうとする新しい歩みへと一歩を踏み出していくことになるのでありましょう。
 「神の正しさ」とは何か。それは、すでに律法において示されています。この律法に喜んで従うという人間が、そこに生まれるのであります。
 ここで、いつも言っていることですが、律法と律法主義の違いを確認しておかなければならないでしょう。律法主義と申しますのは、律法を守ることによって神の国に入ろうとする態度のことであります。律法を守るという自分の業によって神の国に入ろうとする。これがファリサイ派の人々の態度であります。これは主を誇るのではなく、自分を誇ることになり、自分の正しさにどこまでもしがみつこうとするものであります。これはいけません。私共は主の恵みと憐れみによって救われるのであって、自分の業によるのではありません。ですから、自らを誇るということもしません。これを律法主義に対して、福音主義と言います。私共の教会はしばしば自分の教会をプロテスタント教会と申しますが、それよりは福音主義教会と言った方が良いと思います。しかし、律法は神様の言葉、神様のご命令なのですから、これは悪いはずがないのです。律法は神の言葉なのです。どうも、「福音は良いが、律法はいけない。」そんな風に律法主義と律法を混同して言ってしまうことがあるので気を付けなければならないと思います。

 そして、この感謝して喜んで律法に従おうとする時、残念ながら律法に完全に従うことの出来ない自分を発見せざるを得ないのであります。そこで悔い改めが起きるのです。そして、神様の守りと導きとを信じて、再び神様に従っていこうとする歩みが新しく始まるのです。しかし、ファリサイ派の人々はそうではなかった。自分の都合の良いように、律法を変えたのです。自分に都合の良い解釈を作り出して、たとえ律法に従っていなくても、これで良いのだということにしたのです。その代表的なものが、18節に主イエスによって言われている、離婚の規定なのです。離婚が良いことではないことは誰でも判っています。しかし、どうしてもそうしないではいられないという状況もあるでしょう。離婚した方がお互いにとって良い場合だってある。しかし、主イエスの時代、「皿を割ること、道で長話をすること、見知らぬ男に話しかけること、夫の肉親を悪く言うこと、隣家に聞こえる程の大声でわめくこと」、こういうことをする妻には夫は離縁状を渡せば良いことになっていた。はなはだしい場合は、男が妻よりきれいな女を見つけた時はそれだけで離婚の理由になる、とまで言う律法学者までいたのです。このように、勝手に律法を自分の都合の良いように変えていながら、自分は正しいと信じて疑わなかった。主イエスは、それは間違っていると指摘されたのです。
 確かに、神の言葉、聖書の言葉、律法というものは、現実の状況の中で解釈されなければなりません。しかしそれは、決して自分の弱さ、自分の愚かさ、自分の罪を弁護する為に為されてはならないのです。私共は神様の正しさの前に立ち、悔い改めて、新しく神の言葉に従う者として歩み出す為にここに集っているのであります。
 今朝、私共は聖餐に与ります。この聖餐には私共を悔い改めへと導く力もあるのです。キリストの体、キリストの血潮、キリストの命に与る時、私共はまことにそれにふさわしくない者であることを知らされます。そして同時に、この聖餐に与った者として、御国への歩みを歩み出して行こうとの志も与えられるのではないでしょうか。私共は、自分を正しい者として、主イエスをあざける者としてではなく、自分の罪を認め、これを悔い、キリストをあがめて歩む者として召されています。それは、私共が神の国へと招かれているからなのです。このことを覚え、この一週も又、主の御前に真実に歩んでまいりたいと願うのであります。

[2007年6月3日]

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