今朝私共に与えられております御言葉は、「不正な管理人のたとえ」と呼ばれる主イエスのたとえ話です。このたとえ話は、直前の15章にあります三つのたとえ話と比べますと、いささか判りにくいところがあるかもしれません。このたとえ話では、不正を働く管理人が出てきます。主人の財産をごまかす訳です。そして、主人はこの不正を働いた管理人の抜け目のないやり方、賢いやり方をほめたというのです。これではまるで、不正を働くことを勧めているかのように受け取られかねないのですが、そんなはずがありません。主イエスはこのたとえ話を用いて、何を語ろうとされたのでしょうか。
主イエスのたとえ話を読む時には、そのたとえ話に出てくるものが何を指しているのかを、まず考えなければなりません。ただ、これは少し気を付けないといけないところがあって、あまりに細かく、これは何を指していると決めようとしますと、無理が出ます。あくまで、たとえ話はたとえ話なのであって、厳密に一対一で対応させることは出来ないところがあるからです。そのようなことを念頭に置いて考えてみますと、ある金持ち、主人、これが神様であることは問題ないでしょう。管理人というのは主イエスの弟子達、これは教会、あるいは私共と考えて良いと思います。すると、2節にあります「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」というのは何を指しているのか。これは終末を指していると考えて良いだろうと思います。神様の前に出て、自分のしてきたこと全ての報告を出さなければならない時が来る。その会計報告はどうかというと、計算が合わない。そういうものだと言うのです。これは、私共の人生というものは、神様の御前に出れば誰でもそうなのであって、罪に満ちている。「義人はいない。一人もいない。」のであります。神様の裁きに耐えられる人は誰もいないのであります。問題はここからです。この不正を働いた管理人は考えた。3〜7節「『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』」
ここで第一に思わされることは、この管理人が真剣に主人から仕事を取り上げられた後のことを考えたということです。私共もまずこのことをきちんと受け取らないといけないのです。自分がやがて神様の御前に立つ日が来る。この地上での全ての仕事が取り上げられる時が来る。このことをまじめに、真剣に受けとめているかということです。このことを受けとめる時、私共の、残された地上の生涯における歩みは変わってくるはずだということなのであります。
この管理人は、主人に借りのある人々を呼んで、その証文を書き換えるということをしたのです。油百バトス、これは油2,300リットルということです。それを五十バトス、1,150リットルに書き換えた。次の人には小麦百コロス、これは23,000リットルです。それを八十コロス、これは18,400リットルです。これはある人の計算によりますと、500デナリ、約二年間の労働者の賃金に相当する分をまけてやったということになるそうです。これも立派な不正です。もう自分はこの会社は停年になるから、その前に次に迎えてくれる会社の為に便宜を図るようなことでしょう。ところが、この主人は、つまり神様は、この不正な管理人のやり方をほめたというのです。もちろん、イエス様は私共に不正を働くことを勧めている訳ではありません。この抜け目のない賢さをほめたのです。8節「この世の子らは、自分の仲間に対して、光りの子らよりも賢くふるまっている。」とある通りであります。主イエスは、光の子、すなわち私共に対して、もっと賢くふるまえと言われているのです。
この賢さは、友人・仲間を作る賢さであります。そしてそれは、負債を免じる、赦すというあり方で表す賢さなのであります。この管理人は、主人の富である負債を減らします。罪の赦しというのは、本来神様しか出来ないことでしょう。しかし、それをこの管理人はやる訳です。そして、それが主人にほめられている。普通の主人なら、とんでもないことをすると言って怒るところですが、天の父なる神様は怒りません。赦すということによって仲間を作る、そのあり方を賢いと言ってほめるのであります。私共は人を裁き、あの人はダメだと言うことにかけては知恵もあり、賢いのであります。しかし、人を赦し、受け入れようとすると知恵が出ない。しかし、そうではなく、赦し、愛し、仲間を作るところにおいて賢くあれ、知恵を用いよと主イエスは言われるのです。
ここで私が思い出すのはアウグスチヌスという人です。4世紀から5世紀の人ですが、その後のキリスト教を決定付ける程大きな働きをした人です。彼が生きた時代は正統教理が形成されていく時代でもありました。彼の時代にドナトウス論争というものが起こりました。これは単なる神学論争ではなく、教会を二つに分けてしまう大変な事態を引き起こしたものでした。それはこういうものです。ローマ皇帝によるキリスト教への迫害がありました。そこで信仰から離れた人が出た訳です。そして迫害が終わると、これらの人々が再び教会に戻ろうとした。この人々をどうするのかということで論争となったのです。「一度教会から離れた人はもう一度洗礼を受け直さなければ受け入れてはならない。又、一時でも教会を離れた司祭によって洗礼を受けた人の洗礼は無効だ。教会は聖なるものであって汚すことは許されない。」そういう主張をしたのがドナトウス派と呼ばれる人達でした。これを人効説、人によって効力をもたらす、人効説と言います。皆さんはどう考えるでしょうか。真面目で、潔癖で、この人たちの主張は筋が通っているようにも思えます。しかしこの時、アウグスチヌスという人は、洗礼はそれを授けた人によるのではなく、その事柄によって有効である。従って洗礼の受け直しは必要ない。悔い改めた者を教会は受け入れるということを主張しました。これが事効説、事柄によって効力をもたらす、事効説です。これがその後の教会の教理となっていったのです。アウグスチヌスは単に事態を丸く収めまようとしたということではないでしょう。しかし、大変な知恵がここにはありますし、これにより教会は分裂という事態を乗り越えたのです。このことを私共は覚えておいて良いと思うのです。
「賢くあれ」と言われますと、自分のような愚かな者には何も出来ないと思ってしまうところが私共にはあるかもしれません。確かに、私共には知恵もなく愚かなのであります。しかし、知恵というものは神様から与えられるものなのではないかと私は思うのです。この不正な管理人も、主人に不正が見つかりどうしようかと、本気で考えたのだと思います。私共も何とかしようと本気で考えるならば、神様は必ず知恵を与えて下さる。そう信じて良いのだと思います。
さて、主イエスはたとえ話に続いて、9〜11節で、「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」と告げられます。この「不正にまみれた富」とは何を指すのか。様々な議論がありますが、これは、次の「小さな事」ということと対応していること、更に13節の最後の「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」を見るならば、地上における富と考えて良いと思います。富そのものが不正に満ちたり、正当であったりするということではないにしても、私共が手にしている富というものは、いつでも私共を神様から離れさせる力を持っているのであり、その意味では「不正にまみれている」という面を持つということなのでありましょう。
この「富」というものと私共がどのような関わりを持つのか。これは、私共がやがて神様の御前に立つということを真剣に受け取る時、それまでとは全く違った関わりとなるのではないでしょうか。私共の信仰は、この富との関わりの中で明らかになる。そう言っても良い程であります。主イエスはここで、富はどうでも良いと言っているのではありません。私も、富やお金はどうでも良いとは思いません。お金が無いというのは、大変なことです。普通の生活をするのには、それなりの収入が必要なのです。主イエスはここで、ただ、富は「小さい事だ」と言っておられるのです。大きな事、決定的に大切な事ではないと言っておられるのです。だったら、大きな事、決定的に大切な事とは何か。それは、神様の御前にやがて立つ日が来るということであり、その日に向かって備えをなすという事なのであります。その為には、小さな事である富に対しても、忠実に対応しなければいけないと言われているのです。富に対して忠実であるというのは、富に仕えるということではありません。そうではなくて、神様に対して忠実に富を用いるということであります。神様に忠実な者として生きる為に、富を用いる。友人、仲間を得る為に用いるということであります。そして、神様に従う為に、神様の御心にかなう生き方をする為に富を用いる時、私共は知恵が必要だということなのだろうと思います。
富というものは、まことに不思議な力を持っています。最初は私共が富を持っていると思っています。しかし、その富が増えていきますと、いつの間にか富が自分を支配しているということになってしまう。貧乏人の悔しさで言うのではなく、本当に富を持っていないということは幸いなことだと思います。しかし、そうは言っても富の誘惑から全く自由という訳ではありません。牧師とて、これから全く自由ということではないでしょう。私が牧師になる時に先輩の牧師が教えてくれたことがあります。それは、「牧師は、謝儀だけで生活しなさい。」ということでした。結婚式や葬式、あるいは講演という形で、教会からの謝儀以外の収入が牧師にはある。それを決して、自分の生活の為に使ってはいけない。そう教えられました。我が家では、それを忠実に守ってきました。それは、富の誘惑から自分達を守る為の知恵だったと思います。
主イエスは、「あなたがたは神と富とに仕えることはできない。」と言われました。二人の主人に仕えることは出来ないのです。主イエスは「してはいけない」と言われたのではありません。「できない」と言われたのです。これは本当に素敵な言葉です。私共はこのような御言葉に出会うと、つい「してはいけない」と受け取ってしまうところがあります。そうすると肩に力が入ると言いますか、こうしてはいけない、ああしてはいけない、お金に仕えてはいけない、そんな風に思ってしまいます。しかし、主イエスは「出来ない」と言われているのです。つまり、神様にお仕えするということに忠実であるならば、富に仕えることは出来ないのです。私共は神様にお仕えするということに忠実であるならば、富から自由になれることを主イエスは約束してくださっているのです。富の問題は、私共が神様にお仕えするということに忠実であるならば、神様の御業の為にどのように使うのかという問題になるのでしょう。そして、このことは私共にとって、また教会にとって、とても大切な事なのだと、主イエスは教えて下さったのです。
ここで、宗教改革のきっかけになった免罪符のことを思い浮かべることも出来るでしょう。当時ローマ・カトリック教会の財政はひっ迫していました。宮殿のように豪華な礼拝堂を建てていたからです。その為に考え出されたのが、免罪符の販売でした。この免罪符を買えば、魂は天国に行けると言って、修道士達が売り歩いたのです。ルターは、免罪符を買うことによってではなく、ただ悔い改めることによってのみ魂は天国へと行くのだと言って、宗教改革が始まったのです。これは、教会が富という小事に対して忠実でなかった場合、神様から託されている重大な使命である福音を曲げてしまう、神様に忠実でなくなつてしまうという例でありましょう。富との関係を誤ると、私共は神様との関係をも誤ってしまうことになるのであります。
主イエスの弟子に求められていること、私共に、教会に求められていることは、忠実であるということであります。主イエスに対して、神様に対して忠実であるということであります。富を扱うに際しても、その他この地上におけるどんなことに関わるにしても、神様に対して忠実な者として歩まねばならないということなのです。そんなことは小さな事だと言って馬鹿に出来るようなことではないのです。
私は、現在、富山地区の会計をしています。会計というのは、おおよそ私の苦手なことです。領収書を作り、帳簿を付け、伝票を起こします。なかなか細かい仕事です。正直なところは、やりたくありません。慣れないから時間を取られます。しかし、丁寧にキチンとやっています。まさに、小事に忠実でなければならないことを思い起こすからです。
教会にとって、お金のことは大きな、決定的に重大な事ではありませんけれど、やっぱり大切な事なのです。ここがいいかげんであるならば、教会は本当に大切なところで、福音において、伝道において、教会形成において、間違いを犯すことになると私は思っています。
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一4章1〜2節で「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」と申しております。これは、主イエスがここで語られたことを、パウロが自分の言葉で言い換えていると言って良いでしょう。神様に忠実であること。それが私共に求められていることなのです。神様に忠実であるが故に、富に仕えることをせず、与えられた富を神様の御業の為に用いるのです。知恵を用いて互いに赦し合い、友を作り、神様の御前に立つ日に備えて、この地上の生活を歩むのであります。
[2007年5月20日]
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