本日礼拝後、私共は2007年度の教会総会を開きます。既に総会資料が配られておりますのでお読みになっておられることと思いますが、今年度の教会聖句はテモテへの手紙二4章2節「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」です。伝道する教会として、一つでも多くの御言葉を宣べ伝える場を広げていきたいと願っています。この教会の建物以外の場で、御言葉を伝えていくのです。具体的には、家庭集会を増やしていきたいということであります。ぜひ、自分の家をその為に用いて欲しいという申し出を待っています。月に一度で良いのです。申し出が多すぎて、調整するのが難しいという程になってくれたらと思います。
では、どうして私共は伝道するのか。これはあまりに当たり前すぎるので、改めて「どうして」と問われると、答えに困ってしまうかもしれません。第一には、復活の主イエス御自身が弟子達にお命じになられたからです。マタイによる福音書28章18〜20節「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」これは主イエスの大号令とも言われているものですが、復活された主イエスがこのように弟子達にお命じになられた。そして弟子達は文字通り全世界に出て行ったのであります。そして、教会は二千年の間、この弟子達の歩みを自分達の歩みとして為し続けてきたのであります。「主イエスのご命令だから」、これが私共が伝道する第一の理由であります。しかし、ここで改めて問わなければならないことは、だったら弟子達は主イエスのご命令だから、嫌で仕方がなかったけれども、全世界に伝道しに行ったのかということであります。そうではないでしょう。弟子達は喜んで出て行ったのです。もし、弟子達が嫌々伝道したのなら、決して主の福音がこのように世界中に広がることはなかったと思います。伝道している者が喜びの中でその業に仕えている。そういう姿がなければ、福音は伝わるはずがないからであります。
ある先輩の牧師が、こう教えてくれたことがあります。伝道というものは正しいことを伝えなければいけない。正しい福音、正しい生き方、正しい聖書の読み方、そういうものを伝えなければならない。だけれど、ただ正しいだけではなかなか伝わらないものだよ。そこには楽しいということがないといけない。伝えようとしている者が、楽しんでいる。楽しくてしょうがない。その楽しさと共に、正しいものは伝わっていくものなのだ。だから、伝道者は明るくなければいかんよ。教会もね。そう言われたことがあります。伝道者として歩み始めたばかりの頃です。多分、私が正しくなければといつも説教しながらピリピリしていたのでしょう。私はその時、先輩の牧師の言葉の意味が、良く判りませんでした。今は、少し判るようになりました。
伝道は喜びの業と言われます。ある時、神学校を出たばかりの伝道者の歓迎会がありました。そこで集まりました近隣の牧師達が、伝道は喜びの業だから、大いに楽しんで、喜んでやりなさいと口々に語りました。すると、最後に、一番年長の牧師が、みんなは伝道は楽しいと言うけれど、本当は孤独で、苦しいもんだ。毎週説教を作るのに、誰も助けてなんてくれやしない。それでも、あなたは伝道していかなければならない。ご苦労なことだが、頑張りなさい。そう言われました。
伝道は楽しいのか、つらいのか。これはどちらも本当のことです。使徒言行録を読みますと、使徒パウロを始め、使徒達は次々と苦難に遭ったことが記されております。しかし、彼らは伝道することを止めませんでした。又、多くの喜びも記されております。しかしその多くの場合の表現は、「彼らは喜んだ」ではなく「彼らは神を賛美した」なのであります。つらいこともあるけれど、神を賛美する、賛美しないではいられない、そのような大きな喜びも又、経験したのです。
今朝与えられておりますルカによる福音書15章には、三つのたとえ話が記されております。このルカ15章は、福音書の中の福音書とも言われる程に、福音の真理を示している所です。ここにある三つのたとえ話は、とても有名なものばかりです。「九十九匹と一匹の羊の話」「無くした一枚の銀貨の話」そして「放蕩息子の話」です。この三つの話は、共通したテーマを持っています。それは、失われていたものが見つかった喜びであります。
私共が今手にしています共同訳聖書には小見出しが付いております。この小見出しは、この単元はこういう話が書いてありますよというのを示していて、あの話はどこにあったのかと、聖書の個所を捜すのには便利なのですけれど、どの小見出しも内容を正確に示しているとは限らない所があります。ちなみに、聖書を朗読する時には、この小見出しは聖書協会が付けたものですから、聖書の言葉とは言えませんので、これを読むことはしません。この15章の三つのたとえの小見出しは、どれも失われたものの方に目を向けております。「見失った羊」であり、「無くした銀貨」であり、「放蕩息子」です。しかし、この三つのたとえで語られておりますのは、その失ったものを見出した者の喜びなのです。「羊飼いの喜び」であり、「女の喜び」であり、「父の喜び」であります。この「羊飼い」、「銀貨を持っていた女」、「父」、それは皆、天の父なる神様を指しています。そして、失われていたもの、一匹の羊、失った銀貨、放蕩息子というのは、神様から離れ、神様との関係を見失ってしまった人間、罪人としての私共を指しています。この罪人が悔い改めて、神様のもとに立ち帰る、神様との関係を回復する。そこで生まれる大きな喜び、神様の喜び。それをこの三つのたとえは告げているのであります。
実は、伝道の喜びというものは、この神様の喜びに与る、神様と共に喜ぶ、そういう喜びなのであります。ですから、神を賛美せざるを得ないのであります。伝道が喜びの業であるというのも、そういうことなのです。伝道は喜びの業だから、つらいことなど何もないというのは嘘であります。つらいことは山程ある。しかし、それにも増して、神の喜び、天上の喜びに与ることが出来る。これは何と幸いなことであろうかと思うのです。この地上にも、多くの喜びがある。しかし、この天上の喜びに比べることが出来るものはありません。神様の喜びだからです。しかし、これは、まことに不思議なことではないでしょうか。「何を喜ぶのか」というところには、その人の本質といいますか、その人の心の有り様というものが現れていると言っても良いと思います。この神様の喜びを喜ぶことが出来る、神様と共に喜ぶ者とされている。実にここにこそ、私共が「神の子」であるということの確かな印があるのではないでしょうか。信仰が与えられ、キリスト者となった。しかし、ちっとも善人になったようには見えない。私共よりも品行方正で、人に優しく、よっぽど善人であるという人は周りにいくらでも居るのです。しかし、それらの人々がこの「神の喜び」を知っているでしょうか。神様と共にこの喜びを喜ぶことが出来るでしょうか。それは出来ない、そう思うのです。
人間に過ぎない、罪人に過ぎない私共が、神様と同じことを喜ぶことが出来る。それは、神様がこの喜びへと私共を招いて下さっているからです。6節「家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」とあります。又、9節「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」とあります。ここで、「一緒に喜んでください」という言葉が繰り返されています。神様はご自分一人で喜ぶのではなく、一緒に喜ぶことを求めておられるのであります。そして、私共は、この神様の喜びを共に喜ぶ者、神の友達とされているということなのであります。私共がキリスト者とされたということは、この神の喜びを共に喜ぶ者とされた、神の友達とされたということなのであります。何という光栄でありましょう。
この喜びを具体的に味わうときは、洗礼式の時でありましょう。洗礼式というのは、本当に嬉しい。教会に集っている者は、皆、この喜びを味わったことがあります。
私はこのたとえ話を何度もして来ました。特に、前任地の教会には幼稚園がありましたので、幼稚園のお母さんや教師達に良くこの話をしました。この99匹を残して一匹を捜す、ここにキリスト教保育の原点があると話して来ました。ここでは、99匹よりも一匹が大切なのだということが言われているのではありません。この見失われた羊が特別な羊であったわけでもありません。もし、見失われた一匹が他の羊であっても同じことなのです。ここで言われているのは、どこまでも神様が見つめられているのは「一人」だということなのです。一人一人が見られているということなのです。十把一絡げではないのです。
この話をしますと、中には、一匹よりも99匹の方が大切ではないかと言う人もいます。確かに、99匹の方が一匹よりも99倍大切とも言えるかと思います。量で見ればそういうことになります。しかし、主イエスがここで言おうとされているのは、そういうことではないのです。主イエスが言おうとされているのは、一人の大切さなのです。私共一人一人に神様の眼差しが注がれているということなのです。99匹の方が大切だと言う人と話していて気がついたことがあります。それは、99匹の方が大切だという人は、いつも自分は99匹の方に居る、自分の子も99匹の方に居ると思っている人だということでした。しかし、本当はみんな、この見失われた一匹の羊なのです。それが罪人であるということです。「義人はいない。一人も居ない。」のです。誰も神様の前では、「私は99匹の方に居ます」と言える者はいないのです。しかし、そのような私を捜し出す為に、神様は労苦をいとわれない。私に目を注ぎ、再びご自身の元に連れ戻す為に、父なる神様は労苦をいとわれず、ついには愛する独り子主イエス・キリストを与えて下さったのであります。この一匹を愛おしむ神様の愛の現れが主イエス・キリストの誕生であり、十字架であり、復活なのであります。
このたとえ話が語られた状況を考えてみましょう。1〜3節「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。」とあります。ファリサイ派の人々や律法学者達は、不満だったのです。自分達は救われる。しかし、徴税人や罪人達が救われることには不満だったのです。そこで、話されたのが、このたとえ話だったのです。主イエスはこのたとえを話し、「ファリサイ派の人々よ、律法学者達よ、あなた方は神の喜びを知らない。神様の喜びは、自分が救われればそれで良い、他の人はどうでも良いというような喜びではないのだ。」と、教えられたのであります。父なる神様は、共に喜びたいのだ。あなた方も神様と共に喜ぼう。そう招かれたのであります。
このたとえ話しの中で、羊は何もしていません。羊飼いに見つけ出され、羊飼いに担がれて帰ってくるだけです。無くなった銀貨もそうです。私はここにいますと、不思議に光った訳ではありません。ただ落ちていただけです。ドラクメ銀貨というのは、1デナリオンと同じです。一日の労賃にあたりますが、それ程高価なものではありません。当時のイスラエルの家は小さな明かり窓が一つあるだけで、床には干し草が敷いてある。そこで小さなコインを無くせば、それは大変なことでした。銀貨を無くしたこの女性は家を掃き、目をこらして捜した。そして見つけたのです。羊飼いは見失った羊を求めて、山を越え、谷を渡り、探したことでしょう。そして、見つけたのです。
羊飼いにしても、この女の人にしても、どうしてそれ程までして見つけようとしたのでしょうか。理由は簡単です。羊飼いにとってその羊は自分のものであり、この女性にとってその銀貨は自分のものだったからです。神様が、私共を捜し求められたのも同じです。私共は神様のものなのです。だから神様は私共を求めてやまないのです。
詩編100編、これはカルヴァン以来、改革派・長老派の教会の礼拝では、冒頭の招きの言葉として用いられてきました。この教会でも中高科の礼拝の招きの言葉は、これを用いています。1〜3節「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」私共の教会の先達達は、この御言葉と共に礼拝を始めてきたのです。この3節に「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」とある。そうなのです。私共は神様に造られた、神様のものなのであります。だから、神様は私共を捜し求めるのであります。そして、何としてもご自分の民とされようとされるのであります。見失われた羊とは、自分が神様のものであることを忘れた者のことなのであります。実に、私共が悔い改め、神様のもとに立ち帰る前の姿であります。しかし今、私共は神の喜びを自分の喜びとすることが出来る者とされています。神の子とされたからです。ありがたいことであります。この喜びの中で、私共は伝道へと歩み出さないではいられないのであります。
[2007年4月29日]
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