富山鹿島町教会

礼拝説教

「自分の十字架を背負って」
箴言 10章1〜2節
ルカによる福音書 14章25〜35節

小堀 康彦牧師

 先週、月・火と改革長老教会協議会の全国代表者連絡会と全国連合長老会の常置委員会に出席する為に東京に行ってまいりました。各地域での活動が報告され、次の活動の計画などが話し合われました。私は北陸連合長老会の議長として、能登半島地震の被災教会について報告をいたしました。七尾教会の牧師館は建て替えなければならないこと、富来伝道所も建て替えなければならないこと、魚津教会は雨漏りがするようになり修理が必要なこと、羽咋教会と輪島教会については診断を受けて今後の対応が決められること、七尾と羽咋の幼稚園はそれぞれたくさんの亀裂が入っており修理が必要なことなどを、写真を持っていって説明いたしました。そこで、週報にもありますように、改革長老教会協議会と全国連合長老会の名前で、3000万円の募金を募ることが決められました。もちろん、3000万円でどうにかなると思っている訳ではありません。教団、教区も募金を募るでしょう。しかし、被災した5つの教会の内、4つまでが北陸連合長老会の教会なのです。七尾、羽咋、富来、魚津です。私共としては、何としてもせめて3000万円は集めて、それぞれの教会の復興に協力したいと決めたのです。それぞれの教会の必要を思えば、3000万円というのは、まことに少ない金額です。しかし、私共が集めるとなると、これは少ない額ではありません。正直な所、3000万円と決まってから、私は胃が痛いのです。集まるだろうか、集める為には何をしなければいけないのだろうか。そんなことを考えると、正直な所、胃が痛くなってくるのです。
 そういう中で、不思議なように与えられた御言葉が、今日与えられている主イエスの言葉であります。27節「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」自分の十字架とは何か。この言葉は大変有名ですから一般にも使われることがあります。その場合、自分の病気とか苦しみとかを意味します。「自分のこの病気を自分の十字架として背負っていきます。」このように使われることが多いと思います。しかし、主イエスが「自分の十字架を背負って」と言われているのは、そのような単なる自分の苦しみというような意味ではありません。この十字架とは、明確に、神様の為に、主イエスの為に、神様の御心に従う為に負わねばならない苦しみのことなのです。私は、胃の痛みを覚えながら、これが今、私に与えられた十字架なのだと思いました。そして、何としても被災された教会を建て直していかねばならないと思わされている所です。

 私共は、自分の家族や自分の為ならば、苦しいことも苦しいとも思わずに頑張ることが出来るものです。そこで信仰が問われることはありません。誰でもしていることですし、当たり前のことです。子供を持つ、これを育てるというのは、なかなか大変なことです。一大事業です。しかし、それは信仰がなければ出来ないということでもありません。もっとも、正しい子育てには信仰が必要だと私は考えていますけれど、しかし、自分の子供の為の苦労なら、それは喜んで誰でもがすることでしょう。しかし、それが自分の家族以外の者の為となるとどうでしょうか。自分のこと、家族の為なら苦労をいとわない。しかし、それと同じように神様の為に、主イエスの為に、隣り人の為に労苦することが出来るか。主イエスはそのことを問うておられるのであります。
 私共は、しばしば聖書の言葉というものに対して、聴かない、聴こうとしないところがあります。そんなこと言われても…。そう思うのです。今朝与えられている主イエスの御言葉は、私共の心にその様な反応を起こさせる言葉ではないかと思います。しかしそのような心の動きこそが罪なのであって、私共はこれと戦わなければなりません。私共は主イエスの言葉を値引きするようなことがあってはならないのです。
 ここで主イエスは26節「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」と言われます。大変厳しい言葉です。私共の心に拒否反応を起こさせるに十分な言葉でしょう。ただこの「憎まないなら」という言葉は、誤解を招きかねない言い方です。これは誇張した言い方です。十戒には「父と母を敬え」とある訳で、父や母や家族を憎めという言葉は、文字通りに受け取ったら大変なことになってしまうでしょう。キリスト者の家庭は、どこも家族が憎み合っている家庭になってしまいます。ここで主イエスが言おうとされていることは、33節の「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」と同じことなのです。自分の家族も、自分自身の命さえも、自分のものとして握りしめていてはダメだ。それを与えて下さったのは神様ではないか。だから全てを神様のものとしなさい。神様に一切を委ねなさい、ということなのであります。「一切を捨てる」とはそういうことです。「委ねよ」ということなのです。家族のことも、自分のことも、一切を神様に委ねなさいということです。
 私は献身しようとしている人や、これから伝道者として歩み出そうとしている人に出会いますと、いつも一つのことを尋ねます。「もう、全てを捨てましたか。」という問いです。この問いにはっきりと「ハイッ」と答えることが出来る人は大丈夫です。中には、何を言われているのか判らないという顔をする人がいます。そういう人に出会いますと、オヤオヤ、この人は大丈夫かなと思います。キリストの為に、教会の為に、全てを捨てなければ、全てを捨てて委ねた者でなければ、伝道者として立つことは出来ません。当たり前のことであります。現在の牧師は時代もあるのでしょう、昔に比べて大変豊かになりました。私自身、こんなに豊かで良いのかなと思うことがあります。別に牧師は貧しくなければならないとは思いません。しかし、この豊かさが、主の為に全てを捨てるということに対しての誘惑になってはならないと思います。これが誘惑であることを弁えて、これときちんと戦わなければならないのです。
 小さな思い出ですが、私は神学校に入る時、それまで読んだ本を全部捨てました。大した本はありませんでしたけれど、大好きだった小説の類を皆、捨てました。私が教会に行くきっかけもドストエフスキーの小説を読んだことでした。今思えば、そんなことをする必要は少しもなかったのですけれど、これから神学校に入る自分は、全てを捨てなければならないと思ったのです。大好きな小説を読む時間を捨てて、神学しなければいけないと思ったのです。その時は小説を読むことさえも誘惑だと思ったのです。小さな思い出です。 もちろん、神様は何一つムダにはされません。何であれ、身につけたものは神様は御自身の業の為に用いて下さいます。しかし、一度は捨てなければなりません。捨てた上で、主が用いて下さるというのであれば、存分に用いていただく。そういうものなのでしょう。こう言い換えても良いと思います。私共が与えられているものは、全て神様から受けたものでありますから、神様にお従いするのに邪魔になったりするようではいけない。邪魔になるような関わり方であってはならないということなのでしょう。家族も仕事も富も、全ては神様にお仕えする為に備えられているもの、与えられたものだからであります。
 こんな話しを聞いたことがあります。ある女性の音楽家が、洗礼を受けた時のことです。準備の時に、牧師から、全てを捨てて主イエスに従っていきますか、と尋ねられました。その女性は、少し困った顔をされて、「音楽もですか。」と尋ねました。牧師は「全てです。例外はありません。」と答えました。そして、その後で、「あなたが捨てた全てを、神様が用いようとされたなら、喜んで献げて用いていただきなさい。しかしそれは、あなたがやりたいから、というのではありません。その為に、あなたは今、全てを捨てなければなりません。良いですか。」その女性は、「分かりました。音楽も捨てます。」と答えたそうです。その女性と音楽との関わり方は、洗礼を受ける前と後とでは、全く違ったものになったことでしょう。
 キリストの弟子として生きるということは、自分と周りの全ての関わり方が変わるということなのでありましょう。私共は子供の為に生きるというのでもなければ、夫の為、妻の為に生きるというのでもないのです。空の巣症候群という言葉があります。我が子の為にと、全てをささげて子育てをしたお母さんが、子供達が自立して家を出て行った後、空になった巣を前に、何をして良いのか分からない。何の為に生きていけば良いのか分からない。そのようなウツの状態に入ってしまう人々のことを言うのですが、それもひとつ、我が子との関わり方に問題があったということなのではないでしょうか。私共の子育ては、自分の生きがいというようなことではないのです。まして、我が子を自分のもののように思い、自分がなれなかったものや夢を子供に期待するというようなことではないのです。神様に与えられた命を、神様に向かって育てていくのであります。それが、キリストの弟子としてのあり方なのであります。

 28〜32節におきまして、主イエスは、賢く計算しなさいと言われます。塔を建てようとすれば、事前に費用の計算をするだろう。戦いをする時は、相手の兵力を見て、勝てるかどうか計算して、勝てそうになかったら和睦するだろう。それと同じように、主イエスの弟子として歩もうとするならば、これは一生の問題なのだから、きちんと考えて、覚悟をしなければいけない。そう言われたのです。このきちんとした覚悟こそ、一切を捨てて、一切を主に委ねて、その時その時に求められる神様の為の労苦を担っていくというものなのであります。ここで主イエス「自分の十字架を背負って」と言われています。しかし、この時主イエスはまだ十字架に架かっているわけではありません。まさに、十字架への歩みをされている、エルサレムに向けての歩みの中で言われた言葉です。とするならば、この主イエスの言葉は、明らかにご自身の十字架の死を見据えての言葉であっと言って良いでしょう。
 この「自分の十字架を背負って」の歩みとは、まさに主イエスの後に従っていく歩みに他ならないのであります。私共の歩みは、一人で道なき道を、十字架を背負って行くというようなものではありません。私共の歩みの前には、主イエスがいて下さるのです。私共は主イエスの足跡に自らの歩みを重ねるようにして歩んでいくものなのであります。そして、その私共の歩みは、一人ではない。主イエスが共にいて下さるのです。そしてまた、愛する同信の者達が、共に十字架を担って歩んでいるのであります。まことに幸いなことであります。ですから、この歩みは歯を食いしばって、一生懸命我慢して、一人で頑張っていくという歩みとは少しイメージが違うのであります。この「自分の十字架を背負って」の歩みには、どこか「軽やかさ」がある。そういうものなのではないかと思うのです。主イエスと共に、愛する兄弟姉妹と共に、主イエスに従う歩みだからです。
 ただ、この十字架は「自分の十字架」でありますから、他の人に代わってもらうということは出来ません。主イエスにこれを担いなさいと召されたのなら、私共は他の人に任せることなく、自分で担わなければならないのです。たとえ、胃が痛くなっても、ですね。

 さて、このような「自分の十字架」を背負って生きるということは、主イエスの恵みの中に生きていない人から見ますと、いささか変に見えるかもしれません。どうして、あの人は自分の得にもならないことの為に、あんなに時間や労力を使うのか。しかし、この少し変に見えるというのは、「馬鹿じゃないの。」というのとは少し違います。「あんな馬鹿になれたら良いな。」というような、憧れをもって見られることなのだと思います。実に、これこそ私共が「地の塩」とされているということなのであります。私共が神様の為に、主イエスの為に、隣り人の為に、労苦をいとわず、一銭にもならないことの為に、喜んでささげている姿。それこそがこの世が本当に求めている塩なのです。塩がなければ人は生きていけない。それと同じように、この世界も塩がなければ立ちゆかなくなってしまう、行き詰まってしまうのです。何故なら、この世界も又、神様によって造られたものだからです。たとえ世はそれを認めなくても、この世界は神様に造られた。だから、この世界は「神の塩」を求めているのです。損得だけで動いているようなこの世界の中にあって、それを超える塩を求めているのです。その塩こそ、実に主イエスの愛であり、福音であり、自分の十字架を背負って生きる者の姿なのです。私共はこの「神の塩」となる為に神様に召されているのです。このことの光栄を覚えます。

[2007年4月22日]

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