今朝、私共は主イエスのご復活を覚え、喜びの礼拝をささげています。金曜日に十字架の上で死なれた主イエスが、日曜日の朝にご復活され、その復活の体を弟子達に現されたのです。この主イエスの復活の出来事により、キリスト教の歴史は始まりました。もし、復活がなければ、主イエスが十字架の上で死んでそれで終わりであったのなら、弟子達は散り散りになり、聖霊は降らず、弟子達が伝道することもなく、主イエスの名前もこの歴史の中から消えていたに違いありません。実に、この主イエスのご復活により、世界は変わったのです。復活の主イエスに出会った弟子達の人生が変わっただけでなく、この世界の歴史が変わったのです。この主イエスのご復活の出来事は、主イエスがまことに神の子であられること、神そのものであることを示しました。そして、その神様が生きて働き、この世界のただ中に、そして私の人生の中に突入し、神と共に生きる者となることへと促し、招き、造り変えようとされていることを示したのです。主イエスのご復活の出来事は、遠い昔話ではありません。確かに、主イエスの復活の出来事そのものは、二千年前にただ一度起きた出来事です。しかし、このことによって明確に示された神様の促し、招き、私共を新しい者に造り変えられる神様の救いの御業は、今も継続しているのです。キリストの教会は、二千年の間、このキリストのご復活によってもたらされ、今も継続している神様の救いの御業を宣べ伝えてくると共に、その救いの御業が現れる場として立ち続けてきたのです。
今朝私共は、主イエスがご復活された日、二人の弟子に復活の主が現れた出来事を記した御言葉が与えられています。この出来事は、一人の名前はクレオパという、具体的なある二人の弟子が経験したことです。しかし、ここに記されていることは、全てのキリスト者が経験していることでもあるのです。こう言っても良いでしょう。ここに記されていることは、全ての人に備えられている主イエス・キリストとの交わりを示している。この交わりから排除されている人は一人もいません。皆、この交わりの中に生きるようにと招かれ、促されているのです。主イエス・キリストによる救いの御業とは、そういうものです。体験した出来事は、それぞれ個別のものであり、二つとして同じことはありません。しかし、皆、「ああ、私もそうだった。」と自分の経験を重ね合わせることが出来る。
先週、私共は受難週祈祷会を火曜日から金曜日まで四日間にわたって開きました。各会から奨励者が立てられ、証しが為されました。どれもその人しか語ることの出来ない、その人が自分で経験したことでした。しかし、それを聞きながら、皆、自分の経験と重なる神様の救いの御業の出来事を聞き取った。そして、主をほめたたえ、共に祈りを合わせたのです。神様の救いの御業の普遍性と言うべきものがそこにはあるのです。この聖書に記されている、二人の弟子の復活の主イエスとの出会いの出来事、これもそうなのです。
この記事は、こう書き出します。13〜15節「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」「ちょうどこの日」というのは、主イエスがご復活され、マグダラのマリアを始め、幾人かの婦人達に出会われた、ちょうどその日ということです。つまり、主イエスがご復活された日です。エルサレムからエマオという村へ行く道でのことです。このエマオという村は、エルサレムから60スタディオン、約11km程の所にありました。現在、この村を特定することは出来ません。このエマオへの途上で、二人の弟子が復活の主イエスと出会ったのです。「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」のです。ところが、この時二人は、一緒に歩き始めた方が「主イエスだとは分からなかった」のです。不思議なことです。正直に申し上げますと、私は洗礼を受けてからも長い間、このエマオ途上での復活の主イエスとの出会いの場面を記した、この聖書の個所がよく分かりませんでした。どうして、二人は主イエスだと分からなかったのか。そして30〜31節には「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」とあります。どうして急に、一緒に食事を始めたら主イエスだと分かったのか。更に、主イエスだと分かったとたんに、どうして主イエスの姿が見えなくなったのか。さっぱり分かりませんでした。それは、復活ということを単なる肉体の蘇生としか考えていなかったからです。そうではなくて、この復活という出来事は、パウロが言うところ(コリントの信徒への手紙一15章44節)の「霊の体」によみがえるということなのであります。それは、この目に見える体がそのまま同じ体として、タンパク質の組み合わせによるこの同じ肉体をもって生き返るということではないのです。罪なき体、永遠の命の体、天上の命の体としての「霊の体」に生まれ変わるということなのであります。ですから、主イエスのご復活という出来事は、私共に天上の命、天上の体が確かにあるということを示したのです。それを、この地上の理屈で考えてみても分からないのは当たり前のことなのでありましょう。これは霊の事柄です。霊の事柄は、信仰によってしか受け取ることは出来ないのです。霊の目が、信仰の目が開かれなければ分からないことなのです。
しかし、ここで私共はこの二人の弟子の目が遮られている時に、復活の主イエスが一緒に歩いているのに気付かなかったこの二人と共に、主イエスはすでに一緒に歩いて下さっていた。このことに私共は注目しなければなりません。彼らは肉体の目で主イエスを見たことがありました。彼らは主イエスの弟子でしたから、主イエスと共にエルサレムへの旅もしたかもしれません。彼らがその肉体の目で見た主イエスの姿は「行いにも言葉にも力のある預言者」でありました。ですから「イスラエルを解放してくださる方として望みをかけていた」のです。しかし、十字架にかけられ、死んでしまいました。死んでしまった。もう終わった。全てが終わった。そう思って、彼らは暗い顔をしていたのです。その二人に、主イエス御自身が近づき、共に歩かれたのです。良いですか皆さん。復活の主イエスは、私共が主のご復活を受け入れ、信じられるようになってから、共に歩んで下さるようになるのではないのです。私共の目が復活の主に向かって遮られている時に、主イエスのご復活を信じることが出来ない時に、すでに共に歩んで下さっているのです。私共は、それに気付かないだけなのです。この二人が、主イエスの十字架の死をもって全てが終わったと思い、暗い顔をしていた時に、すでに復活の主は共に歩んで下さっていたのです。私共が、目に見える現実が全てだと思い、次々に襲い来る困難の中で、暗い顔をして歩むしかないような状況の中で、主イエスはすでに私共と共に歩んで下さっているのです。そして、私共の目が開かれるようにと、語りかけて下さっているのです。
復活の主イエスは、この二人に何をされたのでしょうか。主は、彼らに「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。それは、主イエス・キリスト御自身が説教をされたと言い換えて良いでしょう。私は、これと同じことが、二千年の教会の歴史の中で、日曜日の主の礼拝毎に為されていたことなのであり、今も為され続けていることなのだと思っています。
主イエスはこの二人に対して、25節で「物分かりが悪く、心が鈍い者」と言っています。随分厳しい言葉です。聖書が告げていることを信じることが出来ず、主イエスが死んでしまって、全ては終わったと思ってしまっていたからです。「物分かりが悪く、心が鈍い」この二人に、主イエスは聖書を解き明かされるのです。もうお前達は「物分かりが悪く、心が鈍い者」だから、見込みがない、そう言っているのではないのです。関西の言葉で言えば「アホやな」という感じではないかと思います。主イエスはこの「物分かりが悪く、心が鈍い者」のために、御言葉を与え、信じる者へと導いてくださるのです。「物分かりが悪く、心が鈍い者」というのは、この二人に限ったことではありません。私共は皆、そうなのでしょう。礼拝に来て、説教を聞いて、すぐに主イエスを信じることが出来て、この方と生涯生きていこうと心に決めた。そんな人は居ないでしょう。何度御言葉を聞いても判らず、信じることが出来ず、甚だしくは「私はキリスト教なんか信じない」などと言っていた私共なのです。神様に背を向け、神様の御支配の中に生かされている自分が分からなくなってしまっていた私共なのです。神様に背を向けているというのは、積極的に神様を否定しているということだけを意味しているのではありません。自分の一日一日の歩みの全てが、神様の御支配の中にあるということを、本気で受け取っていないことでもあるのです。神様の御支配を本気で受け取っていないので、すぐに目に見える困難な状況に押しつぶされそうになってしまうのです。しかし、そのような私共に、復活の主は御言葉を与えます。神様の御支配、神様の愛、死で終わらない永遠の命、まことの救いを説き明かされるのです。そして、信じない者から信じる者へとしていただいた私共なのです。
さて、この主イエスの説き明かしを聞いた時、この二人に何が起きたのでしょうか。32節「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」とあります。二人の心は燃えたのです。心が燃える。それは、熱狂的になるということを意味していません。そうではなくて、自分が生きる意味、生かされている喜び、神様の御支配の確かさ、死で終わらない命の希望、そのような神の炎、聖なる炎とでも言うべきものが、生ける神様の御臨在に触れて、私共の内に点火されたということなのであります。
御言葉の説き明かしを受けて、心が燃えた経験のないキリスト者はいないでしょう。そうだ、これで生きていこう、生きていける。そんな思いを与えられ、私共はこの礼拝の場から遣わされていく。それは、このイースターの日に復活の主と出会った二人の弟子の上に起きたことが、私共の上にも起きているということに他なりません。この心を燃やされた人々を生み出し続け、キリストの教会は二千年の間歩み続けてきました。そして、この心を燃やした人々によって、神様の聖なる炎は、隣り人へと、そして全世界へと燃え広がってきたのです。
この心が燃えるというのは、一時のことではないのです。燃え続けていくのです。しかし、よくこのような話を聞きます。若い時は燃えていたのだけれど、いつの間にかマンネリ化してしまって。先週の受難週の証しの中にもそのようなものがありました。この経験も又、私共全てに、どこか重なる所があるものでありましょう。これは神様の救いの業の普遍性ではなく、私共の罪の普遍性と言うべきものです。どうして、私共は燃え続けることが出来ないのでしょうか。マンネリ化してしまうのでしょうか。私共はこの地上の歩みをしている限り、全ての誘惑から自由であることは出来ません。誘惑には、様々なものがありますけれど、その目的は一つです。私共の目を生ける神様に向かって閉じさせることです。神様からいただいた聖なる炎を消すことです。これは、どんな人にもやって来ます。例外はありません。サタンが居るからです。しかし、神様はこれから逃れる道をも与えて下さいました。それが聖餐です。
「説教は信仰を起こし、聖餐は信仰を保つ。」と言われます。聖餐によって現臨のキリストに触れ続けること。キリストの命に与り続けること。これは、復活の主イエス・キリストが私共に与えて下さった、恵みの手段なのです。この日、二人の弟子は復活の主イエスと共に食事をしました。すると、二人の目は開かれたのです。もちろん、この「目」とは肉体の目ではありません。この復活のキリストと出会う為に、肉体の目は何の役にも立ちません。聖書を説き明かして下さったのが、復活の主イエスであることが分かった。説教も聖餐も、共に現臨のキリストの御業なのであります。私共は、この現臨のキリストに触れ、神を畏れ、敬う者とされます。キリストの命に生きる者とされる。この時、二人の弟子達は、共に食事をしているのが主イエスだと分かると、主イエスの姿は見えなくなりました。もう見えなくても良くなったからであります。復活の主は、今は天におられます。しかし、聖霊として、復活の主イエスの霊が、私共と共におられ、私共に御言葉を与え、私共を導いて下さっているのです。私共がどのような状況の中を生きる時も、この恵みの事実は少しも変わりません。この復活のキリストとの交わりの中に、私共がどこまでも留まり続けることが出来るよう、心から願い、祈りを捧げましょう。
[2007年4月8日]
へもどる。