富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の国の食卓」
イザヤ書 55章1〜5節
ルカによる福音書 14章15〜24節

小堀 康彦牧師

 今日から受難週に入ります。週報にありますように、今週は火曜日から金曜日まで、毎日夜に受難週の祈祷会が開かれます。青年会・婦人会・壮年会・長老会から、それぞれ司会者と奨励者が立てられ、祈りが集められます。言うまでもないことですけれど、それぞれの祈祷会は、全ての人に出席していただきたいと願っています。今日は婦人会の担当だから自分は出ないで良いなどとは考えないでいただきたい。担当というのは、あくまで司会と奨励の担当というだけのことだからです。
 この受難週の守り方というのは、教会の伝統によって様々でありますけれど、何もしないという教会は少ないだろうと思います。どの教会も何かをするのです。やることは様々ですけれど、その思いと目的は一つであります。主イエスの十字架の出来事、それを心に刻むということであります。来週4月8日はイースターです。主のよみがえりを喜び祝う訳でありますが、この主イエスのよみがえりを真実に祝う為に、私共は主イエスの十字架の出来事を心に刻むのであります。イースターを真実に喜び祝うためには、主イエスの十字架を心に刻まなければならない。そう、代々の教会は考えてきたのです。十字架なしに復活を祝うことは出来ないからです。ただ、ここで心しておかなければならないことは、私共が主イエスの十字架の出来事を心に刻む時、私共はこの方がよみがえられた方であることを忘れる訳にはいかないということです。今週の受難週の間は十字架だけを思い、イースターの朝になったら、初めて主の復活を喜ぶ。そんな訳にはいかないだろうと思います。私共が主イエスの十字架を心に刻むということは、あの復活された主イエスが、十字架の苦しみをお受けになった。復活によって死を打ち破られた方が、私の為に、私に代わって、死の裁きをお受けになった。このことを感謝をもって受け取るということなのであります。これは、クリスマスを迎える時も同じであります。クリスマスは、実に私の為に十字架にかかり、私の為に復活して下さったイエス様がお生まれになった、だから嬉しい、喜ばしいのであります。クリスマスは誕生日だから、十字架の死を思い起こすことは縁起でもない。そうではないのです。当たり前のことであります。だったら、この受難週も、主イエスの御苦難を思って、暗い、沈痛な面持ちで過ごすということではないことも明らかでしょう。私共は、主イエスの十字架の出来事を、復活の光の中で受け取るしかないのであります。
 主イエスの十字架は、まことに悲惨な出来事であります。肉体を持つ者の死は、まことに痛ましい。主イエスの十字架も又、例外ではありません。主イエスの十字架を美化することは出来ません。まことに痛ましい出来事なのです。私共は人間の死ぬという場面に立ち会うのは、医者や看護士でもない限り、稀です。家族の誰かの死に立ち会うというぐらいで、人生の中で、何度もないことでしょう。私は牧師として、何度も立ち会ってきました。死というものは、実に圧倒的な力で、どうしようもない力で迫ってまいります。私共は、この死の前に何も出来ないのです。ゼーゼーと荒い息をする方の傍らで、何も出来ない。しかし、私は牧師として、いつも目の前で今まさに死に直面している方が、あの悲惨な十字架の死を遂げた主イエス・キリストと同じ道を通っている。そのことを思うのであります。そして、この方の苦しみが、主イエス・キリストの十字架の苦しみと一つであるならば、キリストの復活の命にも与るはずである。そのことを信じるのであります。主イエスの十字架と復活は、二千年前にイエスという方の上に起きた昔話ではないのです。私共の全てがやがて迎える死を、全て飲み込んでいる出来事なのです。主イエスの十字架と復活を心に刻むということは、私の愛する者の死と、私自身の死の全てが、この方の十字架によって担われ、この方の復活によって打ち破られていることを信じることなのです。私共は死によって終わらない。そのことを信じることなのです。

 主イエスは、そのことを私共に信じることが出来るようにと、今朝与えられている「たとえ話」を話されました。私共が死んでも、それで全てが終わるのではありません。神の国がある。この神の国は天国と言っても同じですが、この神の国は、聖書においてしばしば宴会のイメージで語られています。その宴会も、居酒屋で何人かが集まってやるようなものではありません。盛大な晩餐会であります。私共は、そこに招かれている。私共にはそれが用意されている。それは何と幸いなことかと思うのであります。
 しかし、主イエスのこのたとえ話では、この招きを断る人々のことが、まず語られています。当時の習慣として、大きな宴会が催される時には、まず招待状が届きます。そして、それに出席しますと返事をする。そして、いよいよ当日になりますと、準備万端整った時、改めて「どうぞおいで下さい」と知らせが来る。そういうことになっていました。
 主イエスがお語りになったのは、この二度目の知らせの時のことです。三人の断った人のことが語られます。皆が次々と断ったのですけれど、その中の三人のことが語られているわけです。最初の人は「畑を買ったので見に行かねばなりません。」と言って断りました。二人目は「牛を二頭ずつ五組買ったので調べに行かねばなりません。」と言って断りました。そして、三人目は「結婚したばかりなので行けません。」と言って断りました。一人一人、それぞれにそれなりの正当な理由があるのです。しかし、それを聞いた、宴会を催す主人は怒ったのです。この主人は、神様と考えて良いでしょう。この神の国への招きを断った人々。この理由を現代風に言えば、「とても仕事が忙しくて、信仰どころの話ではありません。もう少しヒマになったら教会にも行きましょう。」ということになるのかもしれません。私共は、皆忙しいのです。そして、多分死ぬまで忙しい。しかし、その仕事の忙しさは、神様の招きを断る程のものなのか。神様の招きを断る「正当な理由」などというものがあるのか。あなたは、自分が死ぬということを忘れているのではないか。その時になってからでは遅いのだ。神様は、今、あなたを招いている。そう主イエスは言われているのだと思うのです。

 主イエスのたとえ話は続きます。この主人はあらかじめ招いていた人々が断ったので、怒って、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れてきなさい。」と僕に命じました。それでも席が空いているとなると、通りや小道に行って、誰でもいいから連れて来なさい、そう言ったというのです。多分、あらかじめ招かれていた人々というのは、ユダヤ人を指しているのでしょう。アブラハム以来、神の民として導かれてきた人々です。しかし、主イエスがまことの救い主として来た時、人々は主イエスの招きを断りました。そして、主イエスの救いは、当時のユダヤ人としては考えることの出来ない、異邦人へと広がっていったのです。とするならば、私共はこの主イエスのたとえ話の中では、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」、あるいは「通りや小道にたまたま居た人」ということになるでしょう。
 この「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」というのは、宴会に招かれても、後でそのお返しが出来ない人であり、通常の宴会のつき合いの外にいた人、つまり宴会に招かれる資格のない人と言って良いでしょう。そしてまた、この「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」というのは、このたとえの直前にある、13節「宴会を催すときには貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を招きなさい。」という言葉を受けているのです。つまり主イエスは、何もお返しのすることの出来ない人々を盛大な宴会に招いているのは、他ならぬ神様ご自身であるということを告げられたのであります。私共、この値無く招かれる神様の憐れみによって、神の国へと招かれているのです。自惚れてはならないのです。実に、私共がこのように、神様に向かって「我が父よ」と呼びかけることが出来、イエス様を「我が主よ」と呼ぶことが出来る。それは、本来あり得ないことなのであります。私共には、神の国に入る資格はない。美人でもなければ、信心深い訳でもない。何より異邦人であります。アブラハムの家系にはいない者です。その資格のない者が招かれている。ありがたいことです。この恵みこそ、主イエス・キリストの十字架によって、私共に与えられたものなのであります。私共の一切の資格を問わず、ただ、主イエス・キリストを信じる信仰によって、一切の罪を赦す。その恵みに与らせて下さることになった。主イエスはこのたとえ話を語りながら、この全ての者を招く神の国を来たらせる為に、私は十字架にかかり、よみがえる。そのご自身の道を見ておられたのであります。

 昨日、昨年の10月に天に召された藤田宏兄の納骨式がここで行われました。その式の中で、藤田兄の愛唱讃美歌のリストに挙がっておりました、讃美歌の453番を歌いました。それほど良く歌われる讃美歌ではありませんけれど、この教会の礼拝で何度か歌われたことがあるそうです。「何ひとつ持たないで、私は主の前に立つ」という歌い出しです。私も一回でとても好きになりました。礼拝においてこの讃美歌を歌いながら、藤田兄の心には「これだ。」、そんな思いが響いたのだろうと思います。「何ひとつ持たないで、私は主の前に立つ。」私共が、毎週ここでささげている礼拝の心というべきものが、この一句に表れています。この世の地位も名誉も財産も、自分が行った善き業も、信心深さも、何一つ持たないで、私共は主の前に立つのであります。神の国に招かれる資格など、何一つ持っていないからであります。
 先程、イザヤ書55章をお読みいたしました。1節「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」とあります。ここで、イザヤは神の言葉として、「来るがよい」と二度招きの言葉を繰り返します。「渇きを覚えている者」「銀を持たない者」、そのような者に、価なく、銀を払うことなく、水を与え、穀物を与え、ぶどう酒を乳を与えると言われる。これは、まさに神の国の食卓を指しているのでしょう。主イエスが生まれる500年前に、イザヤによって預言されていたことが、主イエスによって成就したのであります。3節「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。」神様は、私のもとに来るように招いている。私に聞け。私は永遠の契約を結ぼう、そう告げられている。この神様の意志が、主イエス・キリストとなって現れたのであります。

 ではどうして、三人の人は主人の宴会の招きを断ったのでしょうか。それは、皆、自分はこの宴会に招かれるのが当然だと思っていたからではないでしょうか。一回断っても次があると思っていたからではないでしょうか。とするならば、これは何もユダヤ人に限ったことではないでしょう。人はどこかで自分は大した者だと思っている所があります。全くの善人とまでは言わなくても、そこそこに善人であり、神様に恵みを受けて当然だと思っている所があります。そして、自分の死というものを、まともに考えることなく日を過ごしているのではないでしょうか。しかし、そうではないのです。私共は必ず死を迎えねばならない。そしてその後に何があるのか。私共は、主イエスの十字架の死と、三日目の復活によって備えられた神の国の食卓を信じます。しかし、この食卓は、神様の招きを拒む者、神の招きを断る者には与えられないのです。このことを、私共は良く覚えておかなければなりません。まだ、時間はあります。しかし、いつまでもある訳ではありません。私共は、今朝与えられている神様からのこの招きを真剣に受け取らなければなりません。

 今から私共は聖餐に与ります。この聖餐の食卓は、神の国の食卓を私共に思い起こさせるものであります。教会は、この食卓を囲んで、礼拝を守り続けて来た。それは、私共のこの地上の歩みが、天上の食卓へと続くものであることを覚える為でありました。受難週を迎えるにあたり、主イエス・キリストの死と復活を心に刻みつつ、自らの死と、その後に備えられている天上の食卓に招かれていることを覚える日々を過ごす者でありたいと、心から願うのであります。

[2007年4月1日]

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