礼拝説教「キリストの決意」申命記 32章7〜18節 ルカによる福音書 13章31〜35節 小堀 康彦牧師 レントの日々を歩んでいます。「今年のイースターは何時ですか。」と聞かれることが多くなる時期を迎えています。今年は4月8日です。クリスマスと違って、イースターとペンテコステは毎年祝う日が違います。それは、イースターとペンテコステは、私共が現在使っております暦、これは太陽暦ですが、これとは違う月の満ち欠けを元にした暦に基づいて決められているからなのです。理由は単純です。イエス様の時代には、太陽暦は使われていなかったからです。イースターの決め方は、春分の日の後の満月の後の最初の日曜日ということになっています。ちなみに、ペンテコステは7*7=49で、イースターの7週後の日曜日です。私の手帳には、2000年から2020年までのイースターの日がメモされております。それより後の日については、調べなければ私にも判りません。2020年までのメモによりますと、2008年のイースターが3月23日で一番早く、2011年が4月24日で一番遅いようです。ほぼ一ヶ月の間を移動することになっている訳です。
レントの日々を歩む私共にとりまして大切なことは、主イエスの十字架への歩みを心に刻んでいくことでしょう。しかし、そこで私共が気をつけなければならないのは、「イエス様、おいたわしい」という思いの中で、主イエスの十字架への歩みを見ないということであります。
主イエスの十字架への歩みは、偶然、たまたま、主イエスを亡き者にしようとした人々の策略によって起きたということではないのです。もちろん、ユダが裏切らなかったらどうなのか、祭司長達が主イエスを捕らえて裁判にかけなかったらどうなのか、ピラトがバラバではなく主イエスを赦していたのならどうなのか、そのようなことは色々考えることが出来るでしょう。しかし、主イエスは自ら進んで、エルサレムへの道を、十字架への道を歩んで行かれたのです。誰かに強要されたのではありません。この十字架への道こそが、神様がご自身に与えられた道であることを、主イエスは知っておられたからです。そして、それに従われたのです。まさに、主イエスの十字架への道は、神様の御心によって備えられた道だったのです。神の道だったのです。人間の様々な思惑が重なり合って起きた偶然の出来事ではなく、神様による必然とでも言うべき出来事だったのであります。そのことを、今日与えられております御言葉は明確に示しているのです。 ヘロデはバプテスマのヨハネを殺した人です。理由は、自分の結婚が兄弟の妻を嫁としたことを、ヨハネが御心にかなわぬと公言したからでありました。自分の罪を指摘する者は亡き者にする。ここには人間の罪が最もあらわに現れています。私共は、ヘロデを極悪人として非難するだけでは済まないでしょう。私共の中にも、神様の御心よりも、自分の願い、自分の思いを大事にする。そのような所があるからであります。小さなヘロデが居るのです。神様の言葉は、私が聞いて心地良い範囲では聞くけれど、自分の罪を指摘されるというような所になると、聞きたくない、聞かない。そういう所があるのであります。そして、それがはなはだしい場合には、神様の道さえじゃまをする。自分の思い、自分の願いと違うのならば、それを受け入れようとはしない。そういう所があるのです。しかし、神様の御業を止めることは誰にも出来ませんし、主イエスは「今日も明日も」御心を為し続けられるのです。主イエスの御業は、今も止まってはいません。「今日も明日も」、その救いの御業を為し続けておられるのです。良いですか、皆さん。主イエスの御業は二千年前の十字架と復活によって終わってしまったのではないのです。今日も、明日も、続いているのです。悪霊を追い出し、病をいやし続けておられるのです。神様こそ、全ての者の王、ただ一人の支配者であることを明らかにする為に、主イエスはその御業を止めることはないのです。レントの日々、私共の目は二千年前の主イエスの御業に向けられることが多いでしょう。しかし、その同じ目を持って、今日も明日も働かれている主イエスの御業を見なければなりません。そして、その主イエスの御業をじゃまするのではなく、その御業にお仕えしていくのです。 私共の人生は、しばしば曲がりくねっているように見えます。あっちにぶつかり、こっちにぶつかりして、ちょうど川が蛇行しているように、ちっともまっすぐに進んでいかない、そう思う。失敗もある。そのたびに、ため息が出ます。ため息が出ない人生など無いでしょう。若い時には挫折もある。年をとれば体のあちこちが痛くなる。そのたびにため息が出る。しかし、私共の人生が曲がりくねって蛇行しているように見えるのは、私共が、その時その時に、自分のもくろみ、計画、目的があるからでしょう。それが叶わないから、曲がりくねっているように見える。しかし、その曲がりくねった人生は、神様の目から見れば、少しも曲がっていないのではないか。神様のご計画、救いの御業から見れば、これが良い、これが一番良い、そういうものなのではないか。出エジプトには40年が必要だったのであり、主イエスはエルサレムに上り、十字架におかかりにならなければならなかったのです。この神の必然は、私共の人生の上にもあるのでしょう。私共は自分の親を選べない。そして、自分の子も選べないのです。こんな子に育つようにと思って育てても、決してその様にはならないものです。しかしそこには、神の必然があるのです。レントの日々、主イエスの御苦難に心を向けるということは、私の為に主イエスは苦しみを受けられた、主イエスはその苦しみへの道を神様の御心として受けられた。そうである以上、私共も又自分の人生の苦しみを、神様の救いの御業の中にあるものとして、受け取り直す。そういうことではないのかと思うのであります。
34節で主イエスは「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはおまえの子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」と告げられました。主イエスは長い神の民の歴史を顧みて、エルサレムの為に嘆くのであります。アブラハム以来の神様の救いの歴史、出エジプトがあり、ダビデがおり、エレミヤがおり、イザヤがいた。その全ての歴史は、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」神様が御自分の民を愛し、その愛の中にいつくしもうとされた営みだった。その神様の愛の業の成就として、主イエスは来られたのです。しかし、今までの神様の招きに応じようとしなかったように、エルサレムよ、神の民よ、お前は今、私を受け入れようとしない。主イエスは、ここで自分がエルサレムで十字架の上で死ぬことを嘆いているのではないのです。そうではなくて、エルサレムの為に嘆いているのです。そのままでは、神様の救いから外れてしまうではないか。そのことを嘆いておられるのです。 [2007年3月18日] |