主イエスは、ご自身の周りに集まって来ていた人々に向かって、「偽善者よ」と言われました。きつい言葉です。激しい言葉です。この言葉を突きつけられて、ドキッとしない人はいないでしょう。聖書を読み始めた頃、この主イエスが語られる「偽善者よ」という言葉に、自分の心の中を見すかされたような畏れを覚えたことを思い出します。偽善者、表面では善人ぶっているが、その心の中ではそれとはほど遠い、自分のことしか考えていない人。この偽善者という言葉の鋭さ、激しさは、この言葉を突きつけられた人は誰も反論することが出来ない程に、誰にでも該当するという所にあります。誰もが自分は偽善者ではないと言い切ることが出来ない面を持っている。主イエスは律法学者やファリサイ派の人々という、当時のユダヤ教の宗教的指導者だった人々に向かって、しばしばこの言葉を用いて批判されました。代表的な所はマタイによる福音書23章1〜36節です。ここで主イエスは「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」という言葉を、6回も繰り返しています。聖書を少し読むようになると、イエス様は律法学者やファリサイ派の人々に向かって偽善者と言っている。自分は律法学者やファリサイ派の人々ではない。だから、この偽善者という言葉は自分に向けられたものではないと思い始めてしまう所があるかもしれません。しかし、それこそ偽善者であります。主イエスは今朝与えられた御言葉において、律法学者でもファリサイ派の人々でもなく、群衆に向かって告げられているのです。つまり、今朝、ここに集まって来ている私共に向かって告げられているのであります。
一体主イエスは、群衆の何が偽善者なのだと言われているのでしょうか。主イエスはここで、当時の人々の空模様の見分け方に触れています。54、55節「イエスはまた群衆にも言われた。『あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際その通りになる。また、南風が吹いているのを見ると、「暑くなる」と言う。事実そうなる。』」これは、パレスチナの気候で当時の常識のようなものだったのでしょう。日本で言えば、夕焼けがきれいだから明日は天気になるとか、今の季節の富山ですと雷が鳴ると天気が不安定になるというようなものでしょう。そのように、天気の具合を見分けることが出来るのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。だから偽善者だと主イエスは言われるのです。
しかし、これは少し判り難いのではないでしょうか。あなたがたは天気を見分けることが出来る。それなのに今の時を見分けることが出来ない。だったら、それは「愚かだ」と言われるべきことなのではないでしょうか。しかし、主イエスは偽善者と言われている。何故なのでしょうか。実は、この「偽善」ということと「愚か」ということは、根っこにおいて結びついているのであります。私共は「偽善」と言いますと、表面と心の中とが食い違っている、表面は善人ぶっているけれど心の中は違う。そういうことを考えます。それも偽善であるに違いないのですけれど、ギリシャ語のもともとの意味は少し違います。それは役者が役を演じる、そういう意味なのです。つまり、本来の自分と別の自分を人前で演じてしまう、それが偽善ということなのであります。そうすると、偽善から抜け出す道は、三つあることになります。一つは、人前で演じるのをやめて、本来の自分そのままに生きるということです。しかし、これはなかなか大変なことになるでしょう。イエス様は偽善と言うけれど、世の中、心で思っていることを皆がそのままにやり始めたら、とんでもないことになるのではないか。これはすぐに想像出来ることです。これではダメです。第二の道は、自分が演じている姿に、自分の本来の姿を変える。そうすれば演じることはなくなります。しかし、これもダメでしょう。それが出来ないから演じている訳で、これが出来るくらいなら、誰も偽善的に生きることはないのです。分裂することはないのです。
そこで、第三の道です。これこそ、主イエスが私共に示して下さった道なのです。つまり、本当の自分というものが生まれ変わり、新しくなり、偽善的に演じなくて良い、演じるということ自体から離れた生き方をするということであります。ここで重要になるのが、「今の時を見分ける」ということなのです。「今の時」それは、主イエスが来られた時です。すでに神様の裁きが始まっている時です。すでに終末が始まっている時です。この「時」を知るならば、私共は「神の御前に生きる」という生き方をしなければならないことは明らかでしょう。この時を知らないから、「神の御前に生きる」という生き方にならず、人の目ばかりを気にして、人前で善人を演じてしまう、偽善者になってしまっている。そう主イエスは人々に告げられたのであります。偽善というのは、実に呑気な生き方なのです。神様の御前に立たねばならないことを忘れている生き方だからです。誰も、明日終末が来ると知ったなら、そんな呑気な生き方は出来ない。それを知らないから、呑気に偽善的に生きているということなのであります。
主イエスが人々に向かって「偽善者よ」と告げられたのは、この言葉によって人々をたじろがせ、不安にさせる為ではなかったと思います。そうではなくて、主イエスは人々を、そして私共を、偽善者的生き方から真実な生き方へ、人前で演じなくても良い神の御前に生きる者へと招いて下さったのでありましょう。そして、その為には何よりもまず「今の時を見分けよ」と言われたのです。
主イエスが「今の時」と言われた、この「時」という言葉は、いわゆる時計で計る時、時間、時刻ということを意味する言葉ではありません。これは「クロノス」と言います。機械式時計のことをクロノメーターと言いますが、ここから来ています。主イエスがここで言われた「時」は、クロノスではありません。カイロスです。カイロスというのは、絶好のチャンスとかタイミングという時で、その時に意味がある、そういう特別な「時」を言います。主イエスが「時は満ちた、福音を信ぜよ。」と言われた時の「時」が、このカイロスです。つまり、主イエスは、今という時が、どういう時なのか、どういう意味を持っているのか、そのことを見分けよ、愚かにも見落としてはいけない、そう言われたのです。主イエスが来られたということは、どういう意味があるのか、そのことを悟れと言われているのであります。裁きの時は近い。終末がもう始まっている。「神の国は近づいた。福音を信ぜよ。」であります。そのような時に生きている者として、どう生きるのかということなのであります。
主イエスは続けて言われます。57〜59節「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」「あなたを訴える人」とは、自分の隣り人のことでしょう。裁判官とは、主なる神様のことであります。神様の裁きを受ける前に、隣り人と和解せよと言われるのであります。悔い改め、神様と和解し、隣り人と和解せよと言われるのであります。ここに、偽善から抜け出す、新しい道があると主イエスは告げられているのであります。
主イエスが「今の時」と言われたのは、何も主イエスが来られた二千年前、主イエスの言葉を人々が直接に聞いた二千年前の「あの時」だけを指しているのではありません。主イエスが来られた時から始まった新しい時のことであります。私共も又、主イエスが語られた、「今の時」に生きているのです。私共は、神様の御前における永遠の今を生きているのです。
詩編の詩人は言いました。詩編95編7節「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」この詩編は、礼拝の招きの詞として用いられてきました。代々の聖徒達は、礼拝のたびにこの言葉を耳にしてきました。私共は礼拝のたびに、この主イエスが言われた「今の時」に生かされていることを知らされたのです。今が、今日が、主の声に聞き従わなければならない時であることを知らされてきたのです。そして、この主の声に聞き従う時、本当の自由を与えられることを知らされてきたのです。主の声に聞き従う、主の御前に生きる。その時私共はもう善人を演じなくても良くなるのです。善人か悪人か、人が自分をどう見るのか、そんなことよりももっと決定的なこと、神様が自分をどう見られるのか、その神様のまなざしの中に生きる者となるのであります。
私は、自分が牧師になったばかりの頃、この偽善者という言葉が、いつもどこか心に引っかかっておりました。幼稚園の子供達も、町で出会う人も、みんなが私を「牧師」と呼ぶ。小さな町でしたので、一、二年もすると、歩いて10分程の牧師館から教会までの道で、何人もの人に出会い、あいさつをする。相手はみんな私が牧師であることを知っているのです。そうすると、いつの間にか自分が牧師らしい笑顔でいつもいないといけないかのように思い始める。営業スマイルみたいなものです。バカバカしいと言えばそれまでのことなのですが、これがなかなかプレッシャーでした。しかし、十年もすると、周りの目というものが、全くと言って良い程気にならなくなりました。私は、その間牧師として生き、聖書を語り続けていた訳です。そういう中で、「神の御前に生きる」ということが、少しずつ身に付いてきたということではないのかと思うのです。人の目を気にして生きるのではなく、「神様の目差しの中に生きる」ということが少しずつ判ってきたのではないかと思うのです。私共は神の御前に生きるのです。その歩みは信仰と共に始まりますが、しかしそれが身に付いてくるには少しばかり時間がかかるのでしょう。「神の御前に生きる」というのは、堅苦しい、しんどい生き方ではないのです。偽善というものから解放された、まことに自由な歩みなのです。神様の御前に、裁きを恐れてビクビクして生きるのではないのです。今、すでに、神様の御前に立たされている者として、主イエス・キリストの救いに与る者として生きるということなのです。使徒パウロが「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(コリントの信徒への手紙二6章2節)と言ったように、恵みの時、救いの日に生きるということなのであります。
主イエスが来られたということは、神の裁きの日が近いということでありますけれど、同時にそれは私共の救いの完成は近いということでもあるのです。主イエスが来られたというのは、ただ悪人を裁いて地獄に投げ込む為に来られたというのではないのです。主イエスご自身が、私共の裁きを我が身に負って十字架におかかりになる為に来られたということなのであります。だったら、何をしても良いではないか。どんなことをしても赦されるし、救われるではないか。そう考える人は、主イエスを知らない人です。主イエスの愛の中に生きていない人です。自分の為に十字架におかかりになられた主イエスを、どうしてはずかしめることが出来るでしょう。この主イエスの愛に何としても応えて生きていきたいと思う。それが、主イエスとの愛の交わりに生き、主イエスの恵みの中、救いの中に生きる者の思いでしょう。それが、神の御前に生きるということであり、偽善から解放された者の新しい歩みなのであります。
田中剛二という人がいます。1899年の生まれですから、すでに天に召されておられますが、神戸にある日本キリスト改革派の神港教会の牧師をされておられた方です。私共の教会に以前おられた矢野三郎夫妻が訓練を受けた牧師です。東の竹森、西の田中と言われた、日本に連続講解説教を取り入れた方です。この方のエピソードにこういうものがあります。この方は牧師の息子として生まれましたが、社会主義にひかれ、アナーキスト運動にのめり込みました。鉄工所で働いたりしますが、特高警察に監視されるようになり、神戸神学校に逃げ込みました。神学校に入っても、それは献身のためというよりも「逃げ込む」ためでしたから、過激な思想と粗暴な生活はそのままで、授業も欠席しがちとなりました。ある日、いつものように授業をずるけて、校庭の隅から谷向こうの小学校の体操をぼんやり眺めていたそうです。そこにフルトン先生(宣教師であり、神学校の先生)が田中青年を見つけに来ました。そして田中青年に「田中さん、教室に出て勉強するのがあなたの義務ですか、体操するのが義務ですか。」と言います。田中青年はとっさに「教室に出るのが僕の義務です。」と答えました。するとフルトン先生は「では、その通りにしたらよいでありましょう。」と言われたそうです。田中青年は、大変なショックを受けた。「あなたの義務」。この先生は神様の前で生活している。人が神様の前で生活するとはこういうことなのだと、衝撃を受けたように感じた。この後、田中青年はフルトン先生が語られるカルヴァン主義神学を熱心に知りたいと願い、学びました。これが田中剛二牧師自身が語られた回心の出来事です。
田中先生の場合は、偽善というより、偽悪なのかもしれませんけれど、偽善にしろ、偽悪にしろ、その根っこには、罪人としての「私」があるのです。自分は良い目を見たい。損はしたくない。人には良く思われたい。自分が正義を立ててみせる。いずれにせよ、見ているのは自分であり、社会であり、周りの人の目です。ところが、その罪人としての私が、方向を変えて、今まで考えても見なかった神様の御前に生きるようになる。神様を見て生きるようになる。主イエスと共に生きるようになる。ここに本当の自由がある。罪人としての自分からの解放です。主イエスは今朝、この自由へと私共を招いて下さっているのです。
[2007年2月18日]
へもどる。