今朝私共は、「冬期総員礼拝」として主の日の礼拝を守っております。「冬期総員礼拝」といつもの礼拝とは、何が違うのか。特に違っている所はありません。総員礼拝と言うけれども、改めてそのように言わなくても、毎週の主の日の礼拝は総員礼拝ではないのか。そう思われる方もおられるかもしれません。その通りなのであります。だったら、どうして今朝の礼拝は改めて総員礼拝と呼ぶのか。この日の礼拝の為に、私も何十人かの方に今朝の礼拝の案内の葉書を出しました。どうしてそのようなことをするのか。この総員礼拝という言い方で二月の第一の主の日の礼拝を守るようになったのは、多分、大久保牧師の時代からではなかったかと思いますが、あるいは、もっと古いのかもしれません。しかし、その意図ははっきりしています。当時は、毎月第一日曜日に聖餐を守るということをしておりませんでした。クリスマス、イースター、そして、夏期総員礼拝、冬期総員礼拝。年に四回だけ聖餐を守ったのです。この年に四回の聖餐をいうのは、宗教改革者カルヴァンの時代から、改革派教会の一つの伝統となっておりました。歴代の牧師達は、総員礼拝と呼ぶことによって、皆が聖餐に与ることを願ったのです。そして、何よりも聖餐を重んじる教会を建て上げていきたかったのではないかと思うのです。その思いは私も同じです。私共の教会は、今は毎月、第一日曜の礼拝には聖餐を守っています。もちろん、クリスマス、イースター、ペンテコステにも守ります。ですから、聖餐を守るのは一年に14、5回と以前に比べて回数は増えました。しかし、回数が増えたから聖餐を以前よりも重んじるようになったとは、単純には言えないでしょう。自分は何としても聖餐に与る。その思いが、教会員の中にみなぎっていなければならないのだと思うのです。
私を育ててくれた福島勲という牧師は、40年程一つの教会で牧会された方ですが、その教会を退かれる数年前、牧師としては晩年でありますが、神学校に行っておりました私に、「この教会も最近になって、やっと第一日曜の礼拝出席が他の週より多くなった。聖餐を重んじるという信仰が、少し身に付いてきたのではないかと思う。」そう言われたことがありました。この言葉を聞きながら、この牧師は何としても聖餐を重んじる教会を建てていきたい、そういう思いで牧会・伝道をしていたということが伝わってまいりました。牧師の思いは、皆同じなのです。私もそうです。私は、洗礼の準備会や転入の準備会で、いつもこう申します。「毎週、礼拝に集えない、そういう時がある。仕事や家庭の事情や体調など、いろんな時が来る。そういう時には、第一週の礼拝を守って下さい。何としても聖餐に与って下さい。ここにあなたの命がかかっているのですから。生涯、聖餐に与り続ける歩みをして下さい。この聖餐に、あなたの信仰を支え続ける力がある。自分が何者であり、どこに向かって歩む者であるのかを、私共はこの聖餐のたびごとに新しく示されるのです。」
宗教改革者カルヴァンは、「この聖餐は、弱い私共の為に主イエスが制定して下さった。」と申しました。この私共の弱さとは、キリスト以外のものに目を奪われ、心を奪われてしまうという弱さです。キリストの恵み以上に、自分を生かすものがあるかのように、地上のものに目も心も奪われてしまう弱さです。その私共の弱さを主イエスはよくご存知であったが故に、その私共の信仰の歩みを励まし、支え、導く為に、主イエスは聖餐を制定して下さったと言うのです。その通りだと思います。信仰、信仰と言った所で、やっぱり、大切なのは金だ、健康だ、家族だ、そんな思いが私共の中に浮かんでくる。そのような私共の為に、目と心と耳とを、天の父なる神様と、主イエスとに向かわせ続ける為に、主イエスは聖餐を制定して下さった。そして、二千年の教会の歴史は、その出発の時から、この聖餐に与り続ける歴史だったのであります。教会とは、何よりも、聖餐に与り続ける者達の群なのです。
今朝与えられている御言葉は、主イエスが弟子達と最後の晩餐を守られた時、弟子達に語られた言葉が記されております。言うまでもなく、この場面は、後に教会が聖餐として守ることになったものを主イエスが制定された所です。この主イエスと弟子達の最後の晩餐の食事は、ユダヤ教において大切な食事として守られてきた、過越の食事でした。過越の食事、それは、イスラエルの民がエジプトを脱出し神の民として誕生したことを記念した食事でした。イスラエルの民がエジプトの奴隷であった時、彼らはモーセによって率いられ、エジプトを脱出いたしました。その時、エジプトの王はなかなかイスラエルの民がエジプトを出て行くことを認めません。普通に考えても、王様が自分の国の奴隷の集団脱走を認めるはずがないのですけれど、エジプトの王ファラオも当然認めませんでした。そこで、神様は次々とエジプトの国に災いを下し、エジプトの王様にイスラエルの民がエジプトを出て行くことを認めさせようとしたのです。ナイル川の水を血に変えたり、蛙を大量発生させたり、家畜に疫病をはやらせたり、いなごを大量発生させたり、色々する訳です。エジプトの王ファラオは、災いが下ると、モーセに「もうエジプトを出て行って良い」と言うのですけれど、災いが収まると、言葉をひるがえして、出て行ってはいけないと言う。そんなことが何度も繰り返されて、ついに最後の災い、エジプト中の初子、その家で最初に生まれた子供、王様の家から牢屋につながれている人の家まで、そして家畜の初子に至るまで、すべて神様に撃たれて殺されるということが起きたのです。しかし、イスラエルの人の家は全て守られました。神様の裁き、神様の災いが、イスラエルを過ぎ越して行った。そのことを記念して守られたのが過越の祭りであり、その時に食べたのが、過越の食事でした。この過ぎ越しの出来事によって、イスラエルの民はエジプトを脱出し、現在のパレスチナの地に移り住むようになりました。この旅の途中、シナイ山で神様とイスラエルの民は契約をいたしました。この契約が十戒なのです。
少し長々と、出エジプトの話をいたしました。それは、この主イエスが制定された聖餐が、過越の食事であったということをどうしても覚えておいて欲しいからなのです。過越の食事というのは、イスラエルの民にとって、あの出来事があったから今の自分がある、あの神様の救いの出来事こそ自分達の原点である、そのことを心に刻む食事だったということなのです。
あの過ぎ越しの出来事は、イスラエルの民にとって、決定的な民族誕生の出来事、神様の救いの出来事でありました。しかし、あの過ぎ越しの出来事は、実に主イエス・キリストによる救いの出来事の預言、主イエス・キリストによる救いの雛型だったのです。あの過ぎ越しの出来事によってイスラエルが誕生したように、主イエス・キリストの十字架の出来事によって、新しい神の民、キリストの教会は誕生しました。あの主イエス・キリストの十字架の出来事によって、神の裁きは、私共の上を過ぎ越して行ったのです。あの主イエス・キリストの十字架によって、私共は神様と契約を結んだのであります。あの主イエス・キリストの十字架により、私共は罪の奴隷から解放され、神の子とされたのであります。イスラエルの民が、過越の食事をして、自分達が神の民とされたことを心に刻んだように、私共も又、新しい過越の食事としての聖餐に与るたびごとに、あの主イエス・キリストの十字架の出来事の故に、自分が罪赦され、神の子とされ、神様と契約を結んだ者であることを心に刻むのであります。
私は今、聖餐に与るたびに、自分の為に主イエス・キリストが為して下さった十字架の出来事を心に刻むと申し上げました。これはまことに大切なことなのです。しかし、聖餐に与るということはそれだけではないのです。主イエスの過去を思い起こすというだけではないのです。聖餐は、過去だけではなくて、主イエスの現在と主イエスの未来を、現在の主イエスと私共の交わりと将来の私共と主イエスとの交わりをも私共に差し出し、指し示しているのです。
主イエスはパンを取り、言われました。「取りなさい。これはわたしの体である。」そして杯を取り、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」私共は、聖餐に与るたびに、主イエス・キリストの体と血とに与るのであります。これはもちろん、このパンがキリストの肉に変わる、このブドウ液がキリストの血に変わるということを意味している訳ではありません。キリストは十字架にかかり、三日目によみがえり、天に昇られたのです。復活されたキリストは、今、天におられるのです。しかし、聖霊として、キリストはこの聖餐のパンとブドウ液に臨まれるのです。そして、主イエスは「私の体を、私の血を、あなたに与える。」そう告げられているのです。私共は、この聖餐に与るたびに、キリストの命そのものに与るのです。私の体、私の血とは、私の命ということでありましょう。あの十字架にかかり、三日目によみがえられたキリストの命、復活の命、とこしえからとこしえまで生き給うキリストの永遠の命、この命に私共は与るのであります。キリストの命が私共の中に入り、私共と一つになる。私共の肉体はおとろえます。しかし、キリストの命と一つにされた私共の命がおとろえ、滅びることはありません。私共はなお罪を犯すことがあるでしょう。しかし、最早、その罪に支配されることはありません。私共を支配するのは罪ではなく、私共の命と一つになって下さった、キリストご自身なのです。私共が神様を愛し、罪を憎み、争いをしりぞけ、平和を求める者とされている。愛に生きようとする者とされている。これは、私共の中にキリストが宿り、私共の命がキリストの命と一つにされている確かな「しるし」なのであります。
更に、聖餐は私共に与えられている将来を私共に示します。主イエスが再び地上に来られる時、私共は復活し、永遠の命に与り、代々の聖徒と共に、神の食卓につくのです。父なる神と、主イエス・キリストと共に与る、喜びの食卓です。私共は、その日に向かって、この地上の生涯を歩んでいるのです。私共の地上の生涯は、何となく過ぎていく日々の連続というようなものではないのです。行き先があるのです。やがて死を迎えようとも、その先があるのです。キリストと一つの食卓を囲む神の国であります。
実にこの聖餐には、天地創造から終末に至る、神様の救いの御業の全て、神様の救いの全歴史が流れ込み、私共に注がれるのです。神様の救いの御業の、過去・現在・未来の全てが、ここにあるのです。今、この聖餐の恵みの全てを語り尽くすことは出来ません。聖餐に与り続ける中で、聖餐の恵みの中に生きる幸いを味わっていって頂きたいと思います。
私共の教会は、体調を崩し、礼拝に集うことが出来なくなった方々の為に、病床聖餐を行います。クリスマスやイースターの近くに行うことが多いのですが、その時にしか行わないということではないのです。このことは良く覚えておいて欲しいのです。誰かが聖餐に与りたいと申し出られたなら、教会はいつでも聖餐を行う用意があるのです。決して、牧師は忙しそうだからと遠慮しないで頂きたい。高齢になり、体調を崩し、礼拝に集うことが出来なくなっても、一人一人がキリストの体であるこの教会を形作っている方なのです。キリストの体である教会を形作っている者とは、キリストの体である聖餐に与る者であるということなのです。それは、高齢になり、体調を崩されても、少しも変わることはないのであります。
残念ながら、まだ洗礼を受けておられない方は、この聖餐に与ることは出来ません。それは、主イエスご自身が言われたように、聖餐は「契約の血」であるからです。主イエスは自ら十字架にかかり、血を流され、神様と私共の契約の犠牲となられました。このキリストの十字架による契約、それは主イエス・キリストを神の子と信じ、キリストと共に生きることの契約を神様と結ぶならば、誰にでも与えられる救いを約束しています。しかし、この契約なしに誰にでも与えられるとは言われていないのです。この神様との契約が洗礼です。どうか、まだ洗礼をお受けになっていない方は、洗礼をお受けになって、共々にこの聖餐の恵みに与っていただきたいと思うのです。
[2007年2月4日]
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