礼拝説教「忠実な僕として」イザヤ書 1章21〜31節 ルカによる福音書 12章35〜48節 小堀 康彦牧師
私共は、信仰告白において「主の再び来たり給うを待ち望む」と告白しています。十字架にかかり、三日目によみがえり、天に昇られたあの主イエスが再び来られる。そのことを信じ、その日を待ち望みつつ、私共はこの地上の生涯を歩んでいるのであります。その歩みにおいて、何よりも求められていることは、忠実な僕であるということであります。特別な能力でも、斬新な企てでもありません。忠実であるということです。主イエスによって委ねられた務め、主を礼拝し主の御名を宣べ伝えていくこと、神と人を愛し、神と人とに仕えるその務めに忠実であるということであります。
しかし、そう言われても、主イエスは二千年間来なかった。だから、自分の目が黒いうちには来ないだろう。何となく、そんな気分になってしまう所が私共の中にはあるのではないかと思います。そうするとどうなるのか。主イエスは次に別のたとえを話されます。45〜46節に「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。」とあります。どうせ、いつ帰ってくるのか判らないのだから、自分の好き勝手にする。やりたい放題のことをする。そういうことが起きるかもしれない。しかしそうなると、主人は思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰すると主イエスは言われるのです。ここで言われていることは、主イエスが再び来られることを忘れた教会の姿ではないかと思います。主イエスが主人であるのに、まるで教会が、あるいは教会を委ねられた者、牧師、あるいは長老会と言っても良いかもしれませんが、そういう人が主イエスの代わりに主人のようにふるまい始めるということであります。主イエスは、決してそのようなことは赦されないと言われたのであります。ここには、主イエスの深い私共人間に対しての洞察があります。私共には、主イエスに代わって、自分が主人になってしまおうという誘惑が常にあるのであります。そのことを、主イエスは良く知っておられたのです。 主イエスが再び来られるということを忘れた者が、自分が主人のように振るまい始めるということは、主イエスが再び来られるということを忘れた信仰は、実に緊張感のない、弛緩した、だらしのない、身勝手なものになってしまうということなのでありましょう。主が再び来られる。このことをしっかり心に刻む者は、その日に向かって、日々の信仰の歩みを整えます。いつ主が来られても良いように、祈りつつ、愛の業に励みます。そして、この地上における報いを望まないのです。何故なら、報いは、主イエスが来られる時に与えられることを知っているからです。しかし、主が再び来られることを忘れた信仰者は、この地上における報いしか求めることが出来なくなります。いわゆる現世利益です。キリスト教が、現世利益を求める宗教ではないという理由がここにあります。現世利益を求める傾向が強いこの日本にあっては、キリスト教を信じたらどんな良いことがあるのか、どんな利益があるのか、そのように問われることも少なくありません。中には、キリスト教を信じたら、事業に成功する、病気も治る、受験もうまくいく、そのように語る牧師がいない訳ではありません。勿論、そういうこともあるだろうとも思います。しかし、主イエスが私共に約束して下さっていることは、そういうことではないのです。私共が求めるのは、そういうことではないのです。主イエスが約束して下さっているのは、私共が主イエスが来られることを真実に待ち望みつつ、神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕えて生きるならば、忠実な主イエスの僕として歩むならば、主イエスが来られる時に大いなる報いを受けるということなのであります。大いなる報いです。ですから、私共はこの地上における報いを求める必要がない者とされているということなのであります。
では、主イエスが来られる時に与えられる大いなる報いとは何なのでしょうか。それは、主人が僕である私共を、主ご自身が給仕をしてくださる食事の席に着かせてくださるということでなのす。これは、神の国の食卓に招かれるということです。ここで私共は、聖餐の食卓を思い起こすことが出来るでしょう。実に、聖餐の交わりは、神の国の食卓の先取りなのです。私共は、主イエスが給仕をしてくださる食卓に、代々の聖徒達と共に与るのです。もちろん、これは一つのイメージです。この食事をすることだけが報いではありません。この食卓のイメージに示された、神様と、主イエス・キリストと、代々の聖徒達との親しい交わり、永遠の命の交わりに招かれるということ、それこそが私共に与えられると約束されている大いなる報いなのであります。
この主人が給仕をする神の国の食卓でありますが、この主人の姿は、ヨハネによる福音書13章にあります、主イエスが弟子たちの足を洗われた洗足の出来事を思い起こさせます。サンダル履きが普通であった主イエスの時代、外から戻って家に入る時、奴隷が主人の足を洗いました。ところが、主イエスは最後の晩餐の時、弟子達の足を洗われたのです。まことに畏れ多いことであります。ペトロは思わず、「わたしの足など、決して洗わないでください。」と言ってしまう程でした。ペトロは、主イエスが突然何をされ始めたのか、理解出来なかったのだと思います。私共とて、十分その時の主イエスが為されたことの意味を知っている訳ではありません。しかし、今日の御言葉との関連で言うならば、主イエスは弟子達の足を洗うことによって、神の国の食卓の交わりをお示しになったということなのではないかと思うのであります。主イエスが私共の足を洗い、主イエスが私共に給仕をして下さる。まことに畏れ多いことであります。しかし、主イエスがそのようにすると言っておられる。そして、そのような栄光ある食卓に招かれるというのが、私共に備えられている大いなる報いなのであります。この主イエスが約束して下さっている報いが、どんなに恵みに満ちたものであるかを知るならば、私共は、最早、この地上での報いなど求めることはなくなるのではないかと思うのです。そして、この主イエスが来られる時に与えられる大いなる報いを心に刻みつける為に、主イエスは聖餐を制定して下さったのであります。私共は聖餐に与るたびに、私共に備えられている神の国の食卓という報いに、心を向けるのであります。
さて、今まで私はこの主イエスのたとえが、主イエスが来られる時のことを告げていると語ってきました。しかし、この主のたとえには、もう一つの側面があるのです。それは私共の死であります。私共は時が来れば必ず死にます。しかし、私共は死によって全てが終わる訳ではないのです。私共が歩んで来た生涯のあり様によって、神様の御前に裁きを受けなければならないのです。不忠実な者として厳しく罰せられるのか、忠実な僕として神の国の食卓に招かれるのかということが起きるということなのであります。主イエスはいつ来られるのか判らない、思いがけない時に来られると言われてもピンと来ない人でも、あなたの死はいつ来るのか判らない、思いがけない時にやって来る、だから、その日に備えて、主の御前にその歩みを整えておきなさいというのでしたら判るのではないでしょうか。その意味で、私共はこの主の日の礼拝のたびごとに、自分の死への備えをしていると言っても良いのだろうと思うのです。 [2007年1月28日] |