富山鹿島町教会

礼拝説教

「求めるべきものは何か」
エレミヤ書 22章1〜5節
ルカによる福音書 12章22〜34節

小堀 康彦牧師

 主イエスは言われます。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」思い悩むな。口語訳では「思いわずらうな」と訳されていました。「思い悩むな」、「思いわずらうな」、そう主イエスは私共に告げられます。主イエスは、食べること、着ることで思い悩まなくて良いのだ、心配することはないないのだと言われるのです。どうして心配しなくて良いのか。それは、私共の命も私共の体も、全ては神様によって与えられ、養われ、支えられているのだから、神様が私共の必要の全てを満たして下さる。だから、心配しないで良い。そう主イエスは言われるのであります。ここには、底抜けの明るさがあります。主イエスが持つ明るさです。神様と一つであられる明るさ、神様と共にある明るさです。日々の生活の中で、様々な思いわずらいを持ち、それに振り回されている私共が知らない明るさです。このような主イエスの明るい言葉に出会う時、私共は暗闇から突然明るい日差しの中に出た時のようなまぶしさを感じ、思わず目をつぶってしまうのではないかと思います。そして、そんなこと言われても、日々の生活は少しも楽にならない。景気が良いと言われても、少しも実感出来ない。子供の教育費だって大変だし、老後のことも心配だ。年金だってどうなることやら、体だってあちこち痛い。「思い悩むな」と言われても、ハイそうですかと言える状態ではない。そんな思いが、つぶやきが、次々と湧き上がって来るかもしれません。しかし、今朝私共に求められていることは、この主イエスの明るさに目をつぶることではありません。主イエスが差し出して下さっている明るさに向かって、薄目を開け、そしてやがてしっかりと目を開け、この主イエスの明るさに全身をさらすことなのです。そして、私共も又、主イエスが持つ明るさに与り、その明るさの中に生きる者となることなのであります。
 主イエスは、私共の思い悩みを知らない方ではありませんでした。良く知っておられました。主イエスのもとには、いつも様々な困窮の中であえいでいる者達が集まって来ていたのですから。主イエスは知っておられたが故に、「思い悩むな」と言われたのでありましょう。
 先週私共は、「愚かな金持ちのたとえ」について見ました。豊作で、それを入れる倉がなかったので大きな倉を建て替え、そこに穀物をしまい、もうこれで安心だ。そう考えた金持ちは「愚かだ」と主イエスは言われた。それは、蓄えたことが愚かなのではなくて、自分の持っているものも、命も、全ては自分のものだと考えていた所が愚かだった訳です。今朝与えられている御言葉も、同じテーマが流れているのです。何故、思い悩むのか。それは、食べることも着ることも、自分の体も命も、全ては神様のものであり、神様の御手の中で養われ、支えられているのに、そのことを全く忘れているからなのではないか。主イエスはそう言われているのでしょう。神様を忘れている。そこに、私共の思い悩みの根本原因がある。そう主イエスは教えて下さっているのであります。

 主イエスは烏や花をたとえに持ってきます。烏は種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たないけれども、あんなに元気に自由にやっているではないか。神様が養って下さっているからだ。神様から見れば、人間の方が烏よりよほど価値がある。何しろ、人間は神様が自分に似せて造って下さったのですから。だったら、烏を養って下さる神様が、私共を養って下さらないはずがないではないか。だから思い悩むなと主イエスは言われるのです。又、野原の花は、働きもせず紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモン以上に、神様は装って下さっているではないか。だったら、私共のことも神様は装って下さらないはずがないではないか。だから思い悩むな。そう言われるのであります。
 反論はいくらでも出来るでしょう。確かに烏や花は働かない。しかし、我々人間は町を造り、文明を造り、働かなければ生きていけない。飢え死にしてしまう。体が痛ければ病院にだって行かなければならない。子供を学校にも入れなければならない。働ければ悩みも出る。人間を烏や花と一緒にするな。
 確かに、私共の生活を烏や花と一緒にされては困ります。しかし、主イエスは何も私共の生活を烏や花と一緒にしている訳ではないのです。そうではなくて、神様の養い、神様の御支配というものを示そうとして、烏や花を出してきたに過ぎないのです。大切なのは、烏でも花でもなく、私共なのです。私共こそ、神様が愛してやまない、神様の宝なのでしょう。どうしてそのことを忘れてしまうのか。主イエスはそう言われているのです。

 私はこの主イエスの言葉に思い巡らしながら、この主イエスの明るさはどこから来るのだろうかと思いました。そして少し気付いた所があります。それは、この主イエスの明るさをまぶしいと思ってしまう私共との違いはどこにあるのかと言っても良いかと思います。それは、主イエスは烏を見ても、野の花を見ても、神様のことを思ったということなのです。どうでしょうか。私共は様々なものを目にします。そこで何を見ているのかということなのであります。私共は目にする全てのものを通して、神様を見ているでしょうか。主イエスは何を見ても、神様を思ったのです。私共に求められているのも、実にこのまなざしなのではないかと思うのです。
 前任地の教会の長老の中に俳句をされている方がおりました。その方と話しておりまして、クリスチャンとそうでない人の俳句は違うのかという話になりました。その人は、正岡子規や高浜虚子の流れを汲む俳句の会に属していたのですが、「自分は花や風景や日常のことを俳句にするけれども、実はその背後にある神様を見ている。しかし、神様を知らなければ、ただ花や風景を五七五にしているだけだ。それが俳句の中にどう表れるかというと、そんなにはっきり表れる訳ではないけれど…。」と言って笑われました。「子規もそれに似たことを言っていた。」と言って、子規の書いた文章を見せてくれました。神という言葉ではなく、「なにものか」という言い方だったと思います。「私は子規と同じだ。」と言われましたので、「それは子規ではなくて、主イエスの目差し同じなのでしょう。」と言ったことを思い出します。信仰と俳句は別。私共はそんな風には出来ないのだろうと思います。神様を知った者は、神様を知らない者のように生きることは出来ません。俳句を作りながらも、花鳥風月を通して、それを造り、それを生かし支えている神様を見てしまう。それが、主イエスの明るさの中に生きる者とされた私共なのだろうと思うのであります。

 ここでもう一度、主の言葉に戻りましょう。「思い悩むな」と主イエスは言われた訳でありますが、私共はこの主イエスの一言で本当に思い悩まないで良いようになるのでしょうか。難しいかもしれません。しかし、この礼拝から帰る道すがら、相変わらず思い悩んでいるとすれば、私共は今朝何も聞かなかったのと同じなのです。この主イエスの言葉を聞いた私共は、自分の思い悩みを主イエスに委ねる者として、ここから出て行くのです。 主イエスが私共に「思い悩むな」と言われたのは、口だけで、気休めに言われたのではないでしょう。主イエスがこう言われたのは、「私が思い悩まないで良いようにする」、そのような意志、覚悟、そういうものがあって言われたに違いないのであります。主イエスは十字架にかかり、三日目によみがえり、天に昇られました。そしてそこから、ご自分の霊、聖霊を私共に与えて下さって、聖霊として私共と共にいて下さって、私共の人生のあらゆる場面において、私共を守り、支え、導き、必要の全てを満たして下さる。父なる神様と共に、そうして下さる。そういう固い救いの意志が、ここには表れているのだと思うのです。とするならば、私共はこの主イエスの「思い悩むな」という言葉をまともに受け取ることによって、実際に思い悩まなくて良いということを実証していくことが出来るはずなのであります。私共は思い悩むことには事欠きません。次から次へと、問題は起きてまいります。そういう中で、主イエスがこう言われたのだから、今、自分の中で一番心を悩ませている問題を、神様の御手の中にゆだねてみよう。その一歩を踏み出さなければならないのです。この「一歩の踏みだし」から、私共の信仰の歩みは新しく始まるのです。しかし、ここに生まれてくるのが戦いです。委ねようと思っても、ついつい心が乱れ、いつの間にか、ああすれば良いのか、こうすれば良いのか、考えてしまう。もちろん、主イエスはここで、私共は何もしなくて良い、ただ、神様に全てをまかせれば良いと言っているのではありません。何もしなくても、お祈りさえしていれば良いのだと主イエスは言われているわけではありません。私共は、しなければいけないことは、しなければならないのです。私共は神様の御支配を信じ、安心して、やるべきことをやるのです。私共はやれるだけのことをやれば良いのであります。そして、その結果については、神様の御手の中にあるのですから、全てをおまかせすれば良いのです。必ず、神様が、一番良い道を備えて下さるからです。
 この主イエスの言葉を信頼して、神様にゆだねるならば、私共はこの主イエスの言葉がいかに真実であるかを必ず知ることになるのです。主イエスの言葉の真実は、必ず、実証されるものなのです。しかし、主イエスの言葉の真実が明らかにされる為には、私共は様々な誘惑と戦わなければなりません。神様、神様などと言ってみた所で、やっぱり自分で道を拓いていくしかないではないか。あるいは、結果として与えられたものが、自分の願い通りでなかった時、これが本当に一番良い道なのかという思い。これらと戦って、その誘惑をかなぐり捨てて、それでもなお主イエスは「思い悩むな」と言われた、だから思い悩むことなく、与えられた場所で、やれることを、やれるだけ、神様を信頼して安心してやっていく。その営みがなければなりません。この「それでもなお信じる」という営みがなければ、この主イエスの言葉に堅く立って、持ちこたえていくという営みがないのならば、主イエスの言葉の真実は実証されないのです。しかし、この主の言葉を信じ、持ちこたえた者は、必ず、この「思い悩むな」と言われた主イエスの真実を知ることになるのであります。神様の養いの中に生かされている自分を発見し、その幸いを喜び祝うことが出来るのです。

 主イエスは言われました。31節「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」神の国とは、神の支配です。私共が求めるのは、ただこの一つのことなのです。私共が求めるものが、衣・食・住に代表されるような、この世の栄華であり、富であり、名誉であるのならば、私共が、思い悩みから解放されることはありません。しかし、神の国をひたすらに求めるならば、「御国を来たらせ給え。御心が天になるごとく、地にもなさせ給え。」との祈りを自分の生涯の祈りとしていくならば、私共は思い悩みから解き放たれるのであります。
 私共の思い悩みは、自分が損をした、自分が重んじられていない、自分は人にどう見られているか、自分はもっと出来るのに、そのようなことが多いのでしょう。あるいは、自分はどうしてこんななのだろうという場合もあるかもしれません。いずれにせよ、私共が思い悩むのは、私共の思いが自分に、あるいは自分の周りにばかり向いているからなのです。私共の思いが、自分や自分の周りにばかり向けられてしまうのならば、思い悩みはどこまでも私共について回るのです。この「思い悩み」から解き放たれる道は、私共の心を神様に向けることなのです。
 以前、カトリックの方々と共に祈る機会がありました。彼らは目を開けて祈るのです。自由祈祷の習慣が少なく、祈祷書を読むという形で祈ることが多い所から生まれた習慣かもしれませんけれど、私が「どうして、目を開けて祈るのですか。」と尋ねましたら、逆に「プロテスタントの方は、どうして目を閉じて、下を向いて祈るのですか。」と聞き返されました。そして、「私達の祈りは、自分の内面を見るのではなくて、天の神様を見て祈るのではないですか。」と言われました。別に、祈りの形は、こうしなければいけないというものがある訳ではありません。しかし、この時カトリックの司祭に言われた言葉は心に残っています。私共は一歩間違いますと、祈りの中においてさえ、自分ばかりを見つめ、自分にこだわってしまう。そんなことが起きかねないのでしょう。自分の内面を見ても、良いものなど少しも出てきません。明るさは、私共の内面から出てくるのではなく、天の父なる神様と、その右におられる主イエスから来るからです。
 主イエスは言われます。32節「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」だから思い悩まなくて良いのです。この言葉は、6章20節「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」との主イエスの言葉を思い起こします。「神の国はあなたがたのものだ。」「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」主イエスはその様に私共に約束してくださいました。私共はこの約束に生きるのです。この約束の言葉を信じ、この約束の言葉に踏みとどまり、この世の損得しか考えられない自分をかなぐり捨てて生きる者として、私共は召されているのです。そこに、神の光が、天上の明るさが、主イエスの明るさが宿るのです。思い悩みから解き放たれた者として、この一週も又、ただ神の国を求めて歩んでまいりたいと思います。

[2007年1月21日]

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